ラ・メール 〜海が語るふたつの恋の物語
わたなべ りえ
第1話 無垢なる者たち
——世界が傾いている。
王子が船の上から海を眺めて思ったことは、そのような抽象的なことでした。
水平線は、空の青と海の藍を分けて際立っていましたが、かすかに弧を描いて見えます。
人が百人も乗れるような大きな船は、王子の国の力を示しています。舳先には、水神の遣え人であるセラの像、何本もそそり立つ帆注の先端には空のエアの像、そして甲板の手すりには大地のガイアの像がそれぞれ刻まれておりました。
はためくは豊かな王国の旗で、赤と白と鮮やかな青が潮風になびいておりました。
そして、この船には、豪華絢爛さに似合わないほどの軍備が備えられておりました。異国から求めた巨大な大砲は、左右十台ずつ備え付けられておりましたし、軍隊も乗り込んでおりました。それが世界中に知れ渡っていますので、どのような荒くれの海賊どもでも、この船を奪おうなどとは考えないのでした。
この船で一番身分の高い人である王子は、今夜十六歳になる少年でありました。そして、この航海が自らの国を出る初めての旅でもありました。
王子は、海の大きさ世界の広さに圧倒されていたのです。
父王の統治する今、国は平和を保ち、絶頂期を迎えておりました。
しかし、かつてこの国は領土拡大に奔走し、近隣諸国との争いを繰り返していました。王子の兄である勇ましい第一王子が、激しい戦いの末、戦死するまでは。
父王は、期待していた世継の王子の死を大変悼み、無駄な戦争を繰り返すことよりも政略を練ることを好むようになりました。そして、母親にも似た美貌の第二王子を大事にし、王国の中で大切に育て、剣も弓も教えましたが、戦いに担ぎ出すことはしませんでした。
ですから、王子は海のように青い鮮やかな瞳を外に向けることもなく、象牙のような滑らかな肌を日差しに焼くこともなく、ただ本を広げては頁をめくる風を波を呼ぶ風に重ね合わせながら、遠くを夢見る日々を過ごして大きくなったのです。
今、王子の黄金の髪をなびかせるのは確かに憧れた潮風でした。
しかし、王子の気持ちは暗く沈むばかりです。
なぜならば、この旅の目的は、王子の見知らぬ結婚相手、隣国の王女に求愛に行く旅だったからです。
王国の更なる安定のために、父が隣国とのつながりを堅固なものにしたいことは知っています。それは平和のためです。やがては王国を引き継ぐ王子のためでもあることも、痛いほどにわかっています。
しかし、王子はまだ冒険をしたことがなく、恋もしたことがないのでした。
世界を何も知ることもなく、ただ、大人の言うなりになって生きてゆく我が身に、どうしても憂鬱を感じてしまうのです。
——傾いたこの大きな海の向こうに、知りえぬ大きな世界があるのだ。
そう思うと、王子は虚しくなってしまうのでした。それをわがままだと思う心と、抑えきれない好奇心に、王子の心は常にさいなまれておりました。
さて、その夜は華やかな宴会が催されました。
殿方の三倍も場所をとるような衣装の貴婦人たち、そして婦人に美辞麗句を並べる殿方たち。王子はその美しい微笑みをあちらこちらに投げかけて回りました。誰が見ても完璧な王子の姿でした。
とはいえ、当の本人は憂鬱なままでした。
誕生日を祝う発泡酒の泡がぱちりとはじける中、あぁ、私が愛するべき泡はここにはない……などと考えておりました。王子が思いをはせるのは、船の舳先にあたって砕散った海の泡であり、世界を旅する夢でした。
それは、大気とも、風とも、旅人たちが呼び、吟遊詩人が歌にしたためるものでした。
海のセラよ、空のエアよ、大地のガイアよ
讃えよ、千年の王国を。
ああ、神に伝えたまえ。我らの栄光と勲を。
そして、千年守りたまえ。更に千年守りたまえ。
素晴らしい音楽が鳴響き、人々が踊り始めるころ、王子はそっと席を外し、甲板に一人出て夜風にあたりました。
もううんざりです。
船の華やかな灯りが波間に映って揺れては消えます。王子は物思いにふけりながら、その様子をじっと見つめるだけでした。
海の一部で、キラキラと舞う影——。
ちょうどそのとき、王子と似たような気持ちの少女が、波の狭間でじっと王子を見つめていたなどということは、当然王子は知りえませんでした。
出来事は突然起きました。
船が突然大きくゆれ、王子は甲板に倒れました。
船内からの楽しげな音楽は、一気に人々の悲鳴へと変わりました。
何事が起きたのでしょう? その答えを知るものは、一部の船乗りだけでした。しかし、知っていたとしても何の意味もありません。
答えを知ろうが知るまいが、船の運命は何も変わることなく、間違いなく沈没するからです。
船は再び大きく傾きました。船内の明かりが一部消え、人々が恐れおののいて甲板に飛び出してきては、海に落ちてゆきました。
船は無敵のはずでした。海賊や隣国の海軍には。しかし、予想もしなかった氷山の塊が海に浮かんでおり、避けようとして舵を切ったものの、間に合わなかったのです。船は、あっという間に半分に割れました。
ぐらり……と傾く甲板の上で、王子は必死に手すりに捕まりました。そこに刻まれた大地のガイアに救いを求めて。
しかし、その願いを聞くには、大地はあまりに遠かったのです。
王子の体は、冷たい海の中に放り込まれ、そしてやがて水面から消えていきました。
水に触れたとたん、王子の心臓は一度止まりました。
そのくらい水は冷たく、海は冷酷でした。王子はそのまま、海の深く冷たい海に抱かれて、死の世界へと繋ぎ止められるはずでした。
しかし、何かが王子を励まし、死んではいけないと訴えています。
泡が頬を撫でてゆく中、王子はかすかに目を開けました。
何かが絡み付いていました。
それは、月の光を浴びて輝く水面にもにた透き通った糸、それとも海藻? いえ、銀糸の髪でした。それと、やはり青白い腕。王子を支えて泡立つ水の中を、死に逆らって泳ぐもの。華奢ではありますが、鰭がかすかに月明かりで光る水面を目指して、力強く水を叩いておりました。
——ここに来てはなりません。海の世界は、暗く冷たいから。
王子は、朦朧としながらもそのものを見ようとしました。しかし、激しい水流に阻まれて何も見ることが出来ませんでした。
次に王子が気がついたときは、すでに陽光がさしておりました。
顔に塩が吹き、目がやみました。あたりはぼんやりとしています。しかし、青い空と柔らかな日差しを感じることが出来ました。
耳には水が入り込み、近くのはずの波音が遠くに聞こえます。さらに遠く、この世のものとは思えない物悲しい歌声が聞こえていました。
王子はゆっくりと体を動かしました。
初めて見る風景でした。
砂地、そして所々に黒々とした岩。寄せては返すレースのような波の泡。その向こうに銀青の海が広がり、空と一線をひいておりました。空は晴れておりましたが澄み渡ってはおらず、彼方に灰色の雲を海にまで届かせていて、やがて嵐を呼びそうでした。
物寂しい北の海です。一瞬、日差しが陰ると、寒さを感じました。
幻でしょうか?
砂地にゴツゴツと突き出した岩の上に、銀糸の髪を持つ少女がおりました。歌は、彼女が歌っていたのです。
どこの国の歌なのか、王子には皆目検討もつきません。しかも、少女は海を見つめながら、とても悲しそうな顔をしていました。きっと、歌の詩も悲しいのでしょう。
やはりこれは……幻だ。と、王子は思いました。
でなければ、王子は死んでいるに違いありません。少女はまるで死者のようでした。
その時、砂地にかすかな足音が響きました。誰か人が近づいてくるようです。王子は再び体を動かそうとしましたが、体が痛くて無理でした。
しかし、その痛みは命がある証拠でもあります。助かったのだ。と、やっと王子は思いました。
そのとたん、体中がどっと疲れ、王子は再び闇の眠りに落ちていってしまったのです。
意識がなくなる瞬間、再び岩の上に目を向けましたが、そこに少女はいませんでした。波音とは違った水音が、一瞬響いただけです。
夢を見たのだ——と思いました。
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