僕という名の物語

第28話記憶の中ので

目の前で繰り広げられていく物語は、葛西の記憶をもとにして作られている。若干僕の記憶とは違うシーンも出てきていた。


だから、これは葛西が見たあの日の出来事だ。


僕はそれを俯瞰的に眺めている。

葛西の夢の中で、淡々と物語は進んでいく。

小学生がやっているものだから、それも仕方がないことだと思う。


目の前のものは、あくまで劇の延長のようなもの。

今の『高等仮想験』ように、自由に行動できるものではない。ただ、舞台となる場所が用意され、衣装がよりリアルになっているだけだ。


もっとも、僕は本当に犬になっているけど……。よくよく考えると、僕は犬の役が多かった。忠犬ハチ公の時もハチだったし、花咲かじいさんの役でもポチだった。


そして、あの日の僕は、何度も何度も、僕が不条理に感じる所で、立ち止まりそうになっていた。


でも、他のパトラッシュ達は、そんなことはお構いなしに物語を進めていく。

劇なのだから、与えられたシナリオ通りにすればいい。


そう思いながらも、気分的に落ち着かなかったのだと思う。


あの時は、自分を見ることがなかったから何も感じなかったけど、こうして見ると、何とも挙動不審な子供が……。

いや、犬がいた。


もし、僕が立ち止まってしまったら、ネロも立ち止まらなくてはならない。そう思うと、他のパトラッシュ達と同じことをしなければならなかった。


こうして見ても、我慢に我慢を重ねているのが分かる。


物語は、ネロ、パトラッシュ、お爺さん、アロアを中心に進んでいく。


ネロは貧しいミルク運搬業で糊口をしのぎながらも、いつか画家になることを夢見ており、アントワープにある聖母大聖堂で飾られている二つの祭壇画を見たいと、心に望んでいた。

それの祭壇画は、アントワープはもとよりベルギーが世界に誇る十七世紀の画家、ルーベンスの筆によるもので、見るためには高価な観覧料が必要だった。


そして、それは貧しいネロには叶わぬ願いだった。


でも、いつかは見る。

そう心に誓っていたのだろう。貧しくても、正しく生きようとするネロとお爺さん、そしてパトラッシュ。

しかし、運命は彼らに過酷な試練を与えていた。


清貧という言葉がある。


この物語は、まさにそれを表している。

古くから日本の道徳で培われたものだけに、この物語は日本人の多くの心を鷲掴みにしたと思う。


でも、それでいいのか?

本当にそれでよかったのか?


なぜ、ネロは助けてほしいと言わなかった?

一言、助けてほしいということがなぜできなかった?


なぜ、村人は助け合うことをしなかった?

たった一言、ネロに声をかけてあげることすらできなかったのか?


村の人たちや、ネロの知人は、ネロのことを気にしている描写はいくつもあった。頑張っている事を笑顔で見守ることは必要だろう。

でも、年寄りと小さな子供だけで暮らしていることは、村の全員が知っていたはずだ。


この物語は清貧を貴ぶ一方で、世界はあまりに厳しく、残酷だという事を告げている。

今でも僕は、そう考えている。


でも、この僕たちがいる世界には、相互扶助という言葉もある。


もし、誰かがその手を差し伸べていれば、あんな結末にはならなかったと思いたい。


最後の方で、ネロは財布を拾っていた。


誰のものかわかった時、ネロはそれを自分のものにしようとせずに、持ち主に返すことを選択していた。

それ以外の選択肢はないのが当然のように。


それは、正しい行いだと思う。


だけど、ネロは拾った財布を届ける役目を、パトラッシュに託していた。たしかに、そうしなければならない事情はあった。


そして、今まさに、劇でもネロが財布を差し出している。

他のパトラッシュは革袋を銜えて、ネロの話を待っている。


一号が銜え、二号が銜えて、僕の番になった時、僕は頑なにそれを拒んでいた。


あの時ネロが届ける事が出来ていれば、結末は大きく変わっただろう。


一晩待てば、ネロの才能を認めた画家が訪ねてくる。

あの時、アロアの父親もネロを引き取る決心をしていた。


だから、僕はパトラッシュとして、銜えることを、届ける事を拒否していた。


そして、劇が途中で止まってしまった。

ざわつく周囲の感じがする。そして困った葛西は、今にも泣きだしそうになっていた。


このままでは、葛西のせいになってしまう。

当時の僕はそう考えたのだと思う、しぶしぶ僕はそれを受け取っていた。


再び劇は動き出していた。


結局僕は、役割を演じることを選択していた。葛西の泣き顔を見るくらいなら、という気持ちになったのだろうか……。

あの時の気持ちは思い出せない。でも、たぶんそうなのだろう。

自分で見ていて恥ずかしいほど、パトラッシュはネロの笑顔に照れていた。


あれは、反則だと思う。


そうだ、大体あの物語は、ネロ自身にも問題があると思う。


たしかに、コンクールで落選した。

それはとてもショックな出来事だったと思う。すべてを失いかけたネロは、それに一途の望みをかけざるを得なかったのも分かる。


でも、財布を見つけた時にチャンスは来ていたはずだ。


あんな猛吹雪の中、幼い子供が財布を届けて、知らないふりをするはずがない。


たとえどんなに疑われても、どんなに心無い仕打ちを受けたと言っても、それを届けるという心があるなら、パトラッシュではなく自分でやるべきだろう。


夢があるなら。


でも、絶望が判断力を鈍らせた。

それとも、あれはネロの意地なのだろうか? 信じてもらえなかったから……。


そう追い込んだのは、確かに周囲の人間だろう。でも、それでも一言。


なぜ、『助けてください』と言えなかったのだろうか?


だから、僕はこの物語の世界が嫌いだった。

それでよしとする世の中が嫌いだった。それでよしとするネロが嫌いだった。


夢があるなら、たとえ一時の屈辱にまみれようとも、それを目指す意志が必要だろう。


『韓信の股くぐり』がいい例だと思う。


この物語は、周囲の世界が無関心、無関係を貫き、主人公であるネロが夢をあきらめるという物語だ。

そして、最後に天国に行くことで全てをいいように誤魔化している。


そんな世界、おかしいだろ?


天国に行くのはいい。

色々な宗教で、この世界は魂の修行の場として書かれていた。

僕は宗教観を否定できるほど生きてない。だから、宗教観は否定しない。


ただ、清貧を貫けば、天国に行けるかのような精神が許せなかった。

無関心のまま、いなくなってから痛ましいと思う周囲の世界が許せなかった。


当時の僕は、そう考えていたと思う。


眼下では、パトラッシュ三号である僕がネロ三郎に向かって吠えていた。



ネロ一郎とパトラッシュ一号、ネロ次郎とパトラッシュ二号が天使に連れられて天国へと舞い上がるシーン。


舞い降りた天使を蹴散らし、僕はネロに吼え続けていた。


『生きろ!』

どんなにみっともなくても、夢があるなら、生きて見せろ!

当時の僕はそう思い、最後の最後で、全てを台無しにしても、ネロに向かって吠え続けていた。


そして、ついに葛西は、声を大にして泣きだしていた。


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