女神戯曲
やまむら
第1話 演者は踊り続ける
空気はどんよりと重く、窓から見える空は暗雲に飲み込まれていた。剣を握る手の平に、じんわりと汗をかくのが分かる。反面、手足は血の気が引いたように冷たく、震えていた。これは武者震いなのか恐怖からくる震えなのか、私には判断がつかない。
深く息を吸い、ゆっくりと息を吐きだす。戦闘において重要なのは、とにかく冷静になることである。舞い上がるのは大きな隙を生み出し、委縮してしまっては反応が遅れてしまう。だから、戦闘中は冷静な状況把握と最適な行動を選び続けなければならない。だが、今回だけは気持ちが逸ってしまっていた。
勇者である私は、ただ一つの使命を達成するために生きてきた。その使命とは、魔王を倒す事である。そして今、魔王と相対していた。
人間と魔王の戦いには長い歴史がある。歴史に寄れば数百年の間、魔族を率いた魔王と人間は戦ってきた。だが、魔王は数回ほど人間に倒され、魔族との戦争が数年・数十年無かった時もあった。しかし、必ず次代の魔王が現れて争いが始まる。
繰り返す歴史へと一旦の終止符を打つために、勇者である私はここに来た。例え、一時期の安寧の期間だと知りながらも、人々がそれを求めているためだ。
そして、私を信じて道半ばで倒れた仲間たちの犠牲と願いを両肩に背負い、ここまで辿り着いた。
魔王の背丈ほどある杖を片手に持ちながら、ゆっくりと話す。
「貴様一人か……。仲間はどうした」
私は反射的に顔をしかめてしまう。
「そうか、死んだのか」
と嘲笑うかのような表情を魔王は浮かべる。
「我を、ただの貴様一人で倒せると思うているのか」
「私は一人ではない。彼らは今も私と共に在る」
私の心を見透かしたように笑う。
「そうか。ならば遠慮なく貴様と戦えるという訳だ」
魔王が立ち上がると同時に、陰鬱とした建物内に風が吹き始める。奴の魔力が空気に干渉し、気流を生み出しているのだ。常人では不可能な芸当である。いや、芸当という程に恣意的なものではなく、自然現象の一部であった。
部屋中に満ちる魔力が彼を取り巻き始めた。産毛が逆立つほどの濃度だ。身体中の筋肉が固まっていくことが分かる。だが、敗北するわけにはいかない。最低でも共倒れに持ち込まなければならない。私は、自分の立場を強く自覚していた。
周囲に期待され、持ち上げられ、孤高で強くあることを強要されてきた。愛し合った人と添い遂げることも出来ず、言動を好奇の目線に四六時中晒されていた。長い苦しみと抑圧の日々を耐え抜き、自由へあと一歩なのだ。
魔王は溢れ出た魔力を幾つかの黒い球に変化させる。
「人間よ、これは重力球というものだ。この球体に少しでも触れてしまえば、その部分は消えてなくなるぞ」
黒い重力球が幾重にも飛んでくる。小さなブラックホールである、あの弾に当たってしまえば、勇者の私でも身体は消滅してしまうだろう。だが、私とて何もせずに進んできた訳ではない。幾度となく死線を潜り抜けてきた経験と自負があった。私は魔王へ向け、一歩を踏み出した。
目前に飛んできた重力球を聖剣で両断し、全速力のまま右前方へ進路を変える。案の定、正面から魔王に近づくことは出来ず、幾つもの重力球に行く手を阻まれていた。
狙いの外れていた重力球は方向を変え、背を追ってきた。横目で後ろを確認し、接近した順に切り落としていく。
走り続けていることで、体力の消耗が激しい。攻撃の手数も減りはせず、戦況は不利になっていく。
勝負を仕掛けるべき時だと、身体が悲鳴を上げている。覚えている数少ない魔術の一つ、身体強化を幾重にもかける。
身体強化とは言いつつも、身体が頑丈になるわけではない。運動した分の負荷はしっかりと蓄積される。限界を超えた付与をした場合、解術後に絶命する危険性のある魔術である。
だが、女神の加護を受けた者ならば、常人より運動能力・耐久度が遙かに高い。そのため身体強化のリスクをあまり気にしなくてもいい。だからこそ、女神の加護を受けられた者は、超人的な身体能力から勇者と呼ばれる。
幾度か進路を変えて迎撃し続けると、重力球は残り僅かとなった。
「このままっ……」
最高速度を維持したまま、術者へと向かう。攻撃の種類から見れば、魔王は魔術師。剣士である私が懐に入ってしまえば勝負は決まったも同然である。
「ほう、幾らかは踊ることが出来るようだ」
ニヤっと不敵な笑いを浮かべる魔王。魔力が地面に集まると、足元から黒く大きな棘が現れる。
「くっ……」
身体を後方へと引く。あと数歩という距離で、剣は届かなかった。
「甘いぞ、勇者よ。脆弱な剣技と魔術では、我に触れる事すら叶わんぞ」
攻撃の手が止まる。
「暫しばかりの休息を与えてやろう。次こそ全力で来るのだぞ」
ふははははは、と魔王は馬鹿にしたように笑う。
私は、乱れる息を整えるのに精一杯で、言い返すことも出来なかった。
「ふむ、次は志向を変えるとするか」
魔王の杖は、グニョグニョと輪郭が曖昧になる。
「こんなものか」
杖は剣へと形を変えた。
「なに、元々この杖は我の魔力で出来ているのだ。望む姿に形を変えることくらい造作も無いわ」
つまり、魔王は魔力を常にコントロールし、さらに具現化させている。世界には大賢者と呼ばれる魔術・魔力に関してのエキスパートは数人居るが、魔王の様な芸当が出来る者はだれ一人として居ない。
「何故、そんな物を作る」
「貴様は剣士型の勇者らしいからな。魔術を用いて、圧倒的に殺しても詰まらない。だからこそ貴様の土俵に立って、遊んでやるのだ」
「くっ……」
これまでの戦いに、意味など無かったかのような無力感に捕らわれる。
「そろそろ息も整ってきただろう。また踊り始めてもらおうか」
「勝手なことを言ってくれる」
「そして早く、我を殺せ」
力なく剣を構えると同時に、魔王の姿がゆらりと蜃気楼の様に消えた。
「遅いぞ」
背後から声がかかる。空気を裂く音が聞こえ、咄嗟に剣で防ぐ。剣を支えていた、身体が吹き飛ばされる。
「我をガッカリさせるな」
宙を舞い、落下した身体を起こす。
このままでは勝てない、と僕の全てが理解した。頭を過るのは、最後の手段。女神の加護の先にある、女神との契約だ。
加護は、女神から一方的な能力の付与だが、契約は代償を払ったうえで人間の領域を超えていく。しかし、契約は加護を受けた者しか結べない。女神との関わりがなければ、呼び出すことが出来ないためだ。だが、肝心の契約自体は、簡単な方法で出来る。その方法とは、自らの血を聖剣に吸わせることだ。
聖剣の刃で手の平を軽く切る。鮮血が垂れ、赤い斑点が床に出来ていく。
「結局は神頼みか。貴様はこれまで何をしてきたのだ」
魔王は、さも呆れたかのように問いかけてくる。
「神でも悪魔でも何でも良いさ……お前を倒して人の世が救えるのなら、な」
「悪魔か……。それもあながち間違いではないのかもしれないな……」
皮肉のつもりで放った言葉が、魔王は何故か得心がいったという反応だった。
樋に手の平を合わせ、刀身に血を流しこむ。すると、聖剣はより一層の輝きを増した。全身の傷がみるみる治癒していく。そして、意識の奥底に注意を向けると、膨大な魔力が湧いていた。
「準備は良いようだな」
王たる余裕なのだろうか、魔王は私の準備が終わるのを待っていた。
「ああ。今の隙を狙わなかったことを、後悔させてやる」
「上々だ」
不敵に魔王は微笑んだ。
そこからの戦闘は、これまでの次元を遙かに超えていた。先ほどまで目で追う事すら出来なかった、魔王の瞬間移動、もとい高速移動に目と身体が対応できていた。魔力を足と腕だけに集中させ、瞬間的に開放することで、速度が上がる実に単純な使い方だった。もし、一般人が見るならば、そこかしこで火花の舞う、奇妙な空間になっているだろう。
何度も剣戟を繰り返している内に、相対する敵の弱点が見えてきていた。魔王は純粋な剣士ではなかった為か、直線的な動きが多かった。先ほどまでの強さは、単純に動きが速かったのだ。剣士としての経験値では私の方が上であること確信した。そこで、緩急をつけたフェイントを仕掛け、渾身の一撃を別の方向から仕掛けることにした。
シンプルだからこそ、強い。頭の回転が速いほど、深読みし過ぎて単純な技に引っかかるのだ。
剣戟の最中、魔王のリズムが僅かに乱れるのを私は見逃さなかった。大振りの上段を構えると、案の定魔王はそれに反応する。だが、既に私はそこには居らず、魔王の背後に表れていた。
「これで……!!」
その背に向けて全力の一撃を放つ。
「ふっ……惜しかったな」
私の予想に反し、魔王はこちらを向いて、剣を振り上げていた。
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
後退はない。私は前に進むしかなかった。
一閃。聖剣が魔王の巨体を斜めに切り裂く。振り返ると魔王は、剣を支えに片膝をついていた。身体からは黒い煙のような粒子が天へと昇っている。
「何故、剣を引いた」
剣と剣がぶつかる瞬間、剣の軌道を魔王が変えたことを見逃さなかった。
「ふっ……、我は全ての力を出し切り、貴様に敗れたまでのことだ」
「そうか。そう言うのならば、そういうことにしておこう」
あまりにも呆気ない結末だった。
おもむろに魔王は独り言のように話しかけてきた。
「貴様はこれから人の世に帰ることになる。争いの無い平和な世界へと」
「それがどうした」
私には魔王の真意が掴みかねていた。
「平和の為に、生涯をかけて私は戦ってきたのだ」
「その世界にお前の居場所があるとは限らない。貴様は我を一人で倒すほどの力を持っておるのだぞ」
魔王は同類を憐れむ様に話す。
「治世に強大な力は必要ない。いずれは貴様も知ることになるだろう。自分が介在する余地のない世界というものが、どれほど残酷か」
「ふん。最後に命乞いでも始めるつもりなのか」
「そんなことをするつもりなど毛頭ない。やっと自由になれるのだからな」
「自由?なんの世迷言を言う。お前はこれまで自由にしてきたではないか。それすら人の命を己の裁量で左右出来るくらいに」
力なく魔王は笑った。
「そんなもの、契約による代償の一部に過ぎぬ。生き物は必ず何かしらの制約と代償を背負って生きている。我の場合は、それが必要だっただけだ」
「お前は自分が生き残るために他人の命を奪ったと言うのか」
「そうだ。我は自分が生きるために貴様ら人間どもを殺した。だが、貴様らとて家畜を殺し、食すだろう。それと同じなのだよ」
悪意を込めた笑い声が王の間にこだまする。私の柄を握る手に力が入る。
「違う。私たちは生き物に感謝し、その命を取り込んでいる。お前たちの様に、玩具として命を扱っている訳ではない」
「ほう。貴様は我々がお遊びで命を奪っていると思っているのか。ならば、その証拠はどこにある」
「私がこれまで見てきた村々の惨状だ」
「確かに中にはそういう輩もいるだろう。だが、貴様たち人間もお遊びで命を奪うだろう」
「そんなことは……ない……」
魔王は私が言い淀んだのを軽く笑う。
「人の命だけにあらず、動物や虫一匹に対してもお遊びの殺戮はなかったのか。貴様も遊びで蟻を踏み潰したことはあるだろう」
魔王の言葉に促され、遠い過去の記憶が呼び起こされる。確かに私は小さい頃、無邪気な心で蟻たちを踏み潰した。しかし、それは幼少期の好奇心からくる行動であり、悪意のあるものではない。奴らの下卑た理由とは違う。
「生物を殺す上で一番の残酷なのは、命を奪うことの価値やその罪の重さを解っていない事だ」
「ならば、お前たちは命の価値を知って奪っているのか」
「ああ。だからさっきも言っただろう、我らは人間の命をもって、この命を繋いでいる」
身体から命が抜けていく様に、魔王は少しずつ項垂れていく。
「本当ならば……」
言いかけた言葉を魔王は飲み込む。
「勇者よ、貴様の名はなんだ」
「何故、お前に名を名乗らねばならない」
「なに、単に我を倒した人間の名を知っておきたかっただけだ。冥途の土産というやつだな」
「……クラインだ」
「クラインか……良い名だ。これで心置きなく逝ける」
「……魔王、お前の真の名は何と言うのだ」
魔王は、心底驚いたように目を丸めた。
「騎士たるもの、名乗るからには相対する者の名も覚えなければならない」
「ふはははは!そうか、そうか」
そして彼は、遙か遠くを見つめながら答えた。
「アステア、だ」
「感謝する、アステアよ」
「その名を呼ぶ者は何年振りになるのだろうな。いつからか魔王、魔王と呼ばれるようになり、自身でさえ忘れそうになった時期もあった」
深く考えずに出てきたのだろうが、その言葉には寂しさを感じた。彼は顔を軽く上げ、どこか遠くを見つめる。
「何故かは分らぬが、最後に剣を交えたのが貴様で良かったと思うておる」
とっくに人間の心など失くしたものと思っておったのだがな、と自嘲する。しかし、その表情は、とても柔らかなものだった。
「そろそろ我は消え失せる。だが、その前に貴様の剣で全てを終わらせてはくれまいか」
時間にすれば、たったの数分間の時間が、彼に対し一種の哀れみを抱かせた。
「何か最後に言い残すことは」
手に持った聖剣は、最後の役目を果たさんと危なげな程に輝いている。
「貴様が、我とは違う未来に辿り着くことを願っているぞ」
「ああ。大丈夫だとも」
そして彼の、アステアの心臓へと、聖剣を突き立てた。
「やっと…私は……。マヤ……」
アステアは消え入る声で呟いた。何故、彼は私を哀れんだのか。何故、救われたような表情をしたのか。私は、分からなかった。
主を失った城に、悲し気な金属音が反響した。
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あの時から一体どれだけの時間が流れたのだろう。
悠久の時の中、1人の若者が、私の前に辿り着いた。
今ならば彼の心情が痛いほどに分かる。
奴らに踊らされる傀儡は、ここで退場するとしよう。
次代の勇者よ。真なる平和へ導くことを心から願う。
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