第43話 それはまるで、恋のようで

「ああ、そういえば」

「?」

「今日は、新月なんだね」

「え、ああ」


 空を見上げて呟く彼につられて暗くなり始めた空に視線を動かす。


「知っているかい?」

「うん?」

「新月から、満月までの月の呼び名を」

「あ、俺、知って」


 知っている。

 そう告げかけた俺の口に、仲春なかはる君の指があたる。


 ビクッ、と思わず一歩下がった俺に、仲春君は、けらけらと楽しげに笑う。


「ねぇ、真備まきびくん」

「真備、でいいよ。くんはいらない」

「……じゃあ、真備」

「なに?」

「君の中には、吉備真備きびのまきび公がいるだろう?」

「え、あ……うん」

「僕の中には、阿倍仲麻呂あべのなかまろ公がいる」

「あー、うん」


 そんな気はしてた。

 そう呟けば、仲春君が、ふふ、と嬉しそうに笑う。


「あんなにも会いたいと願っていた君に会えたあの日は、嬉しく堪らなくてね。叫び出しそうだった」

「……そんな風には全然みえなかったけど」

「ふふ。格好つけたくもなるじゃないか。千年越しの再会なのだから」


 そんなものか? と首を傾げた俺に、「そんなものだよ」と仲春君は笑う。


「ねぇ、真備」

「なに?」


 笑顔を浮かべていた仲春君の表情に、少しの翳りが見えた気がして、「仲春君?」と名前を呼べば、彼が目を伏せて口を開く。


「君は、すべてを知っても、君は、僕に名を呼ばせてくれるかい?」

「……? どういう意味?」


 顔をあげた仲春君は、にこり、と笑顔を浮かべていて、「どういう」と再度問いかければ、「真備」と彼が俺の名前を呼ぶ。


「仲春君?」

「君は、君の傍は心地が良い」

「……それ、は」

「懐かしくて、温かくて、泣きたくなる」

「……仲春君、それは、たぶん」

「真備公の魂がそこにあるから、ではないよ。それだけでは無い、これは君の、君本来のもの」

「……俺、本来の」

「だからこそ、ぼくは君にそのままでいて欲しい」

「……そのまま?」

「……真備」


 じ、と目を合わせてきた仲春君に、ほんの少しの違和感を覚える。


「……君は」


『あるじ』

「…………」



 何かを咎めるように、仲春君の後ろに控えていた女性が、仲春君に声をかける。

 その声に、言葉を返すことのない彼に、「あの」と声に出した直後、「少しよろしいですか?」と馨結きゆうの声が間にはいる。


「時間がないのは、我々もそちらも変わらない。違いますか?」

「……そう、だが」

「でしたら、何を迷う必要があるのです?」

「っ、きみは、自分のあるじが危険な目にあっても構わないというのか!!」


 バッ、と馨結を見上げて声を張った仲春君に、馨結はパチリ、と瞬きをしたあと、「ええ」と頷く。


「きみっ」

「構いません。自分の手で、坊っちゃんを護りきれば良いだけの話ですから」


 焦った様子の仲春君に返した馨結の言葉に、仲春君が驚きの表情のままで固まる。


「私も滉も、そこいらの連中とは違う。強さで負けるつもりはない」

「……しかし」

「それに、不本意ながら、こうも、同じでしょうしね」


 そう告げた馨結に、いつの間にか後ろに立っていた滉伽こうがが、「ええ」と頷く。


「ですから」


 つい、と目を細めた馨結が、仲春君を見る。


「いい加減、諦めたらどうです?」


 不遜。不躾。

 そんな表現がぴったり過ぎる態度の馨結に、仲春君の後ろの空気がビリ、と重たい空気を放つ。


「坊っちゃんと貴方。ふたりが揃わなければこの先はどうにもならない。そう詠んだのでしょう? 貴方自身も、彼も」


 そう問いかけた馨結に、仲春君が大きく目を見開いて「どうしてそれを」と声をこぼす。


「だいたい想像がつきます。でなければ、貴方が、あの街を離れる理由がない」


 馨結の告げた言葉に、仲春君はわずかに息をのみ、深く、深く吐き出す。


「……それは、真備公からの伝言か?」

「いえ?」

「……そう。真備、君は」


 話についていけず、何の話だ、という顔をたぶん、俺はしていたのだろう。


 俺の顔を見るなり、仲春なかはる君は、ふっ、と静かに笑い、彼の周りの張り詰めていた空気がほんの少しだけ、ゆるんだ気がする。


「仲春君」

「……なんだい?」


 名前を呼んだ俺を、小首を傾げた彼が見る。


「たぶん、俺、あ、多分じゃないな。確実に、足手まといになると思う。君と違って、ずっと逃げてきたから」

「……そんなこと」

「でも」


 ぐっ、と手を握りしめ、彼の瞳を見る。


「君が、俺を」


 仲春君に初めて会った日の、じりじりと焦がされてるみたいな感覚が、喉と肺のあたりに広がる。


「ううん、違う。君が困っているなら俺は力になりたい」

「……真備まきび

「きっと、あの人、真備さんも同じこと、言うんじゃないかな。君の、君の中にいる仲麻呂さんの、力になりた」


 力になりたい、って。

 そう紡ぐはずだった言葉が、ぐらりと揺れた視界で止まる。


「っ! 坊っちゃん!!」

「主!!」

『あるじ!!』

「ッ?!」


「仲、は」


 暗転していく意識の中、ちらりと見えた赤い瞳に、 ―― 綺麗な赤だ ――なんて事が、ぼんやりと脳裏をよぎった。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




「――きび。真備まきび


 久しいその声。

 呼ばれる度に、あたりに広がる雲が動く。


 相変わらずに耳心地が良い声だ。そんな事を考えながら、彼はのろのろと重たい瞼をもちあげる。


「……仲麻呂なかまろ

「ようやく気がついたか」


 声の主が誰かなど、彼らからすれば姿を見ずとも分かる相手。

 その名を呟けば、彼までの道が一気に開ける。


「久しいな。仲麻呂」

「あの頃のままだな、真備」


 その名を、仲麻呂が真備の名を呼ぶ。

 けれど、ふたりの距離は、いまだ縮まらない。


「……歩いてそちらに行くのは……無理そうだなぁ、これは」

「……ああ」


 強い力の『何か』が、彼らの間にいる。

 それが何なのか、真備も仲麻呂も、「知っている」。

 それについてどうすべきかも、どうするかも。


 愛おしそうに間の『何か』に触れる仲麻呂に、真備は苦笑いを零し、小さく短い呪を唱えた。



「おい」

「ああ、来たか」

「来たか、ではないだろう? 来たか、では」

「いや、何、嬉しくてね」


 来たか、と真備に嬉とした感情を向けながらも、仲麻呂の指先は『何か』を触れて離さない。


「随分と拗らせたものだなぁ。君もあれも」

「ふふ。恋慕とはそういうものだろう? 君も知っているのではないか?」

「一緒にするなよ。こちらは拗らせてはいないぞ?」

「まあ、そういうことにしておこう。なに、大丈夫だ。これはまだほんの端の端だ」

「だろうなぁ」


 歩いて越えられないのであれば、跳べばいい。

 そう考え、真備は『何か』を飛び越え、真上から見たけれど。そうか、これでも端の端か、とひそやかに思う。


「愛されているな、お前」

「千年分の愛だからな」

「どろどろのぐちゃぐちゃではないか」


 触れることの赦されないそれは、見るからに様々な色が混ざり合っている。


 どろどろとした醜い感情すらも、愛しさの塊だと笑う仲麻呂に呆れつつ、彼らしいと思う自分も自分か、と彼らの逢瀬の邪魔にならぬよう真備は声を殺して笑う。



「いつまででも待っているよ、わたしは君のことを」


 端を手に持ち、口をつけて仲麻呂が微笑む。

 実態が無かったそれに、ほんの少し、形が生まれる。


「だから早く会いにおいで。我爱的」


 相変わらずだ。

 仲麻呂へそんな感情を抱くとともに、じっとりと重くなる瞼に気づき、真備は笑い声を噛みしめる。


「まぁ、こんなものか」


 もう少し、話をしたかったけれども。

 そんな思いと同時に、ふたりの寄り添う姿に、真備は心の底から安堵していた。


「……間違えるなよ、我が友よ」


 その選択は、祖国をも壊しかねん。


 そう呟いた彼の言葉は、霧に溶けて消えた。








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