第36話 崩壊の始まりと交わる道

「っ?!」


 ぞわ、と何かに背中を撫でられた感覚が走り、バッと振り返る。


 その瞬間、「ふっ」と楽しげに笑う声が、すぐ近くで聞こえた。




「ネぇ、祓ワナいノ?」

「……少し空気を読めないのかい?」

「ボクニ、ソれをモトめないデヨ」

「……それもそうか」


 ヒトでは無いものと親しげに話す彼を横目で見つつ、悪寒の元へと視線を固定する。


 校舎から滲み出る、黒い靄。

 前にも見かけたこの靄。

 けど、いま眼の前にあるのは靄、というよりも、ベタベタと粘着質なものに変化しているようにも見える。


 ―― 「□□□□きらい」

 ―― 「□□ウゼぇ」

 ―― 「○○○可愛いー!」

 ―― 「可愛くなくない? ○○○は無いわー」

 ―― 「△△△△△め、あいつのせいで」


「…………っ」


 靄から滲み出る様々な声。

 大人から子どもまで。

 いくつもの声が重なり、

 いくつもの思惑が滲みでてくる。


 耳を塞ぎたくなるような、悪口や、嫌悪の声。

 それと同時に広がる重たい空気。

 肺の中の空気を奪っていこうとするような、黒いモノが、じわりと地面を這い、ソレが触れた芝生が緑から茶色へと色を変えていく。


 これは、早く祓わないとマズいやつだ。


「前に見かけた時は、こんなんじゃなかったのに」

「……へぇ?」

「……なんで急に」

「……急、ね」


 ぼそりと呟いた声に、隣に立つ彼が、ちらり、と校舎の一角に視線を投げながらいう。


「心あたりはあるかい?」

「え、っと……」

「僕はあるよ。いくつかね」

「え」

「たとえば、要石とかね」

「え、でも」


 なんで、要石が。


 そう思うのと同時に、滉伽こうがの声が頭をよぎる。


「……まさか、結界が破壊され……?」


 頭の中を、最悪の事態の想定が掠める。


 けれど、焦る俺とは反対に、ふふ、と爽やかな笑みを浮かべ、彼は口を開く。


「まぁまずはここを祓うのが第一優先、だね」


 チリッ、とした痛みが、頬を掠めた。

 と同時に、ぶぉっ、と強い風が、彼から靄へと放たれる。


 混じりけのない、澄んだ空気。

 その中に、ほんの少しだけ混じるのは、わずかにスパイスのような、香の匂い。


 懐かしい。

 そう感じたのも束の間。


 ザァァァッ、と大きな強い風が、黒い靄を消し飛ばす。


「……凄い」

「……そうでも、ないよ」

「いや、凄いよ?! なに今の?!!」


 あっという間だった。

 まるで、馨結の扇のような、そんな。


 見たことがあるようで無い技に、思わず彼に顔を寄せれば、彼がふふ、とまた笑う。


 ―― また

 

 知ってるような、知らないような、彼の笑い方。



「あ、なぁ」

「来るよ、真備まきび

「え」


 彼がそう呟いた瞬間。


 ぶわっ、と黒い霧の塊が、間欠泉でもあるかのように地面から吹き出す。


「なっ?!」


 彼が祓ったんじゃっ?!

 そう思いバッと横を見るも、彼は困ったように笑うだけで、何も答えない。


「まきび!!!」

初月ういづき!!!」


 重くなる空気の中、初月が声とともに顕現する。

 その瞬間。

 まるで初月を狙うかのように黒い霧が初月に向かってくる。


「初月?!!」

「わっ?!」


 タンッ、と即座に反応をした初月に、一足遅れて黒い霧が執拗に逃れ続ける初月のあとを追う。


「もーー!!! 何なんだよーー!!!」


 地団駄でも踏みそうな声で、初月は文句を言いながら、霧から逃れ続ける。

 でも、あれは。


「早く祓わないと」


 初月の身体にも良くない。

 それに、この地にも。


 枯れてしまう。


 そう思うものの、何を使えば祓えるのかが分からない。

 じっ、と黒い靄を見据えながら、数枚の札を取り出す。


 効くの、どれだよ?!


 いつもなら、こういう時には馨結きゆう滉伽こうがのどちらかが傍にいてくれるのに。


「……そういえば、なんで」


 何でふたりがいないんだろう。


 そんな考えが過ぎった瞬間、「真備」と名を呼ばれる。


「……な、に?」

「大丈夫かい?」

「あ、うん、ごめ」

「そうだね、これくらいなら、きみは九字だけで祓えるんじゃないかな。複雑な呪はいらないと思うよ」


 すっ、と一枚の札に触れて、彼が言う。


「え」

「きみなら大丈夫だよ、真備」

「……どうして君は」

「……来るよ」

「ッ!!」


 チリッと肌に走る痛みに、靄へと視線を戻せば、揺らいでいた影がこっちに向かうのが見てとれる。


 印を組む時間はない。

 滉伽に習ったように、札に力をこめながら、影の中心を見定める。


 ―― 鈍く光る、黒い塊


 コレをぶつける先は、あそこだ。


『まきび!』

「初月!!」


 ぷはっ、と大きく息をふいた初月が、札とともに霧へと飛び込む。


「ーっ急々如律令!!」


 初月に怪我がないように。

 この霧を祓うように。


 ただそれだけを考え、唱えた呪言は、眩しい光と強い風を巻き起こし、黒い霧は、跡形もなく消え去った。



 ◇◇◇◇◇◇



「やはりきみは、想像以上だね」


 くしゃ、となった『彼』の髪を手ぐしで直す。

 人から触られることになれているらしい彼は、特に何の疑問を抱くこともなく、自分の手を受け入れる。


 ……少し、心配になるレベルかもしれない。


 ある意味では、出会ったばかりの僕に、そんなにも距離を詰めさせて大丈夫なのだろうか。

 そんなことを思っていれば、自分はどうやら苦笑いになっていたらしい。

 髪に触れたままの僕を、自分よりもほんの少しだけ背の低い『彼』がきょとん表情で見上げてくる。


 変わらない。

 変わっている。

 ―― 変わら、ない。


 いま目の前に見える彼は、遠き日の彼とは似ても似つかない。

 それでも、似た部分が見えてくるのは、彼の中に、遠き日の彼がいるから、だろうか。


 同じ歳にも関わらず、幼さを感じさせる彼をじい、と見つめれば、「?」と彼が不思議そうな表情のまま、首を傾げる。


「真備」

「なに」

「そんなに無防備に可愛い顔を続けるなら、奪っちゃうよ?」

「……なにを」


 じっ、と人の顔を覗き込みながら云う彼に、首を傾げれば、彼が、ふは、と笑う。

 その表情に、ずき、と心臓が痛みを告げてくる。


「あの、あのさ」

「ん?」

「君、は」


 君と、俺は。

 彼の言いたい言葉は、いまは聞いてはいけない、言ってはいけない言葉。


「もしかっ、んぐぅ?!」

「それ以上はいけないよ」


 ぺしん、と彼の頬に一枚の札を貼り付けながら口を開く。


「そろそろ時間だ」

「時間? なにが?」


 何が、と問いかける君の視線が動いた先に、ぱき、とヒビが入る。


 「――ゃん!!!」

 「――じ!!!」


「っ?!」


 ヒビと同時に、正確にはヒビよりほんの少し早く、彼らの声に反応をしめした君に、ちく、と胸に痛みが走る。


 ―― 繋がった。


 そう感じた瞬間、結界の外から伝わる力が、ビキビキビキ、とヒビを拡げていく。


「ほら、行って?」


 とん、と彼の背を押せば、彼が焦ったようにこちらを振り返る。


「待っ、まだ聞きたいことが!!」

「いまは、まず、きみを待っている彼らの元に帰らなくちゃ」


 バキッ、と大きな音を立て、結界が破られると同時に、「坊っちゃん!!!」「主!!!」と彼らが声の限りに叫ぶ。


「またすぐに、会える」

「待っ!!!」


 する、と離れる直前に頬に触れれば、彼が今にも泣きだしそうな表情を浮かべた。




「行ってしまいましたね」

「……ああ」

「良いのですか? あるじ」


 あの程度なら、彼らがすぐに治してしまうだろうけれど、気がついた手が動いていた。


 ……ほんの少しでも、きみの心に跡が残せればいい、だなんて。

 これは独占欲、とでもいうのだろうか。

 そんなことを考えていれば、「あるじ……」と小さな声が聞こえる。


「……良いんだよ。本当に。それに知っているだろう? 本当は、まだ会わないつもりだったくらいなのだから」

「……それは、そう、なのですが……ですがあるじ」


 泣きだしてしまいそうに見えます、と小さく呟いた彼女に、はは、と小さく笑う。


「彼でこんな風になってしまうんじゃ、あの子に会ったらどうなってしまうんだろうね」


 胸の一番深いところで、ただひたすらに、一つの想いが、燃え続けるロウソクの炎のように、ゆらゆらと想いを燻ぶらせる。


 この炎が、ロウソクで終わるのか、ガスバーナーのようなものになるのか、あるいは


「火山の噴火みたいにでもなるのかな」


 抱え込む時間の長さは、うんと永くあっても、表に出たらほんの一瞬の爆発で終わってしまう。


 思いの丈をぶつけて、ハイ終わり。

 ……そんなものは、つまらない。


 けれど、そうはならない気はしてはいても、こればかりは分からない。


「まあ、その前に、この想いは、いったい誰の想いなんだろうね」


 燃え尽きることのない一つの想いの軸。


 それが、自分のものだけなのか、それとも。



 一人きりでは解決できるはずもないこの問題の答えは、きっと近いうちに、分かるのだろう。


 そんなことをぼんやりと思った。











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