消失と再生

 ある日、世界から音が消えた。音と言うのは元を辿れば振動である。故に正確に言えば消え去ったのは振動であるが、そんな細かい話に意味はない。声を出してもそこに言葉は乗せられず、机を叩く音も、雨の音も、僅かな息遣いも、一切の音を出さなくなった。おかしくなってしまったのは世界の方なのか、それとも私たち人類の耳の方なのかは、分かりはしない。ただ分かることは、これから私たちは深海で暮らすかの如く、音のない世界で生きていかなければならないということだった。


 音のない世界は、人々を狂わせた。気をおかしくして死んでいく人は沢山いたし、そもそもまともに生活できるようなものではなかった。車の音が全く聞こえないことで、交通事故があちこちで頻繁に起きた。工場や工事現場でも労働災害が絶えず、好きな音楽を聴くことができない辛さは若者を追い詰め自殺へと追いやった。音に関わり深い仕事をしていた者たちは軒並み失業し、生きる希望を失って死んでいった人たちも沢山いた。みるみるうちに人口は減っていき、それは、音と共に人々が消失していくかのような光景だった。


 会話という文化はなくなり、筆談やメールが私たちに残された意思疎通の方法だった。本人が目の前にいても向かい合って話をすることはなく、皆が皆スマホの画面に向かって文章を打ち込んでいる。その光景は異様に冷たくて、人間らしさを欠片も感じられない行為だった。もともと耳の聞こえない人たちは、こんな風に世界を見ていたのだろうか。


 音のない世界に耐えることができたのは、本当に僅かな人たちだけだった。残った者たちは少しずつ音のない世界に順応し、再び人類を繁栄させる。そうやって音のない世界で数十年、数百年を生きていると、やがて人類は耳を不要と判断し、耳のない子を産むようになった。最初はその進化に驚いた人類だったが、やがてその進化にも順応し、耳のない人間が新たな人類として、世界に蔓延るようになった。


 それからまた数十年が経ち、ついに耳のある人類は最後の一人となった。それは、とある国に住む、とある老人だった。もう長くないその老人は、孫たちに囲まれながら天命を全うする日を待っていた。


 そんなある日、突然世界に音が蘇った。だが人類には耳がなかったため、その現象に気付くことはなかった。ただ唯一、老人だけがそのことに気が付いた。


 すると老人は、大声で笑い声をあげた。音を聞くことができた喜びを、必死に声で表現する。体に障ることも気にせず、誰の目を憚ることもせず、孫たちの目の前で満面の笑みで笑ってみせる。もちろんそれは、孫たちには伝わらない。だが、誰も聞いていない笑い声を、それでも老人は、遠く遠くまで響かせた。


 老人はひとしきり笑い声をあげた後、笑顔のまま息を引き取った。


 もうこの先、人類が音を聞くことはないだろう。


 だがその時だけは確かに、一人の老人の笑い声が、世界中に響いていた。

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