第14話 心が変わること

 学校を自分の「場所」として選んだことに悔いはない。

 若い生徒らに囲まれているだけで、こちらまでエネルギーで満たされていくような想いがした。

 だが、教師としてちゃんとやってこられただろうか?

 これは、何年も前だが、私の内面が揺れたのは孫のことで、だ。



 私はすべてを上手くやれた教師だ、などと胸を張りはしない。

 今でこそしわ増えただけのズボラだが、若いころはもっと熱心に生徒を指導していた熱血漢だった―――いや、どうだろう。

 本当にどうだろう。

 ただ先輩たちの言うとおりにやってきた。

 恥ずかしくない社会人であろうとは、気を張ってきた。



 生徒たちと大いに楽しい日々も過ごした。

 もちろん、嫌なことはいくつも思い出せるし、教育界の在り方問題についても遅くまで語り合ったものだ。

 職員室にいても、音楽を教えているのに男性なんですね、珍しいですねなどと小言を背中に投げられながらも、選んだ道に悔いはない。

 他にやることもなかったしな。

 ……教師というものは問題児に真摯に向き合い続けるものかと思っていた時期はあったが、どこでも……。

 別に周りに大人しかいなくても、何のことはない―――問題は起こるものだ、あるものだ。



 だが色んな人生経験で一番衝撃を受けたと言えるのは孫が生まれた時だろう。

 丸い目で見つめてくる、小さな手で私の顔に触れようとする孫を見ていると。

 それからの日々。

 実は私にとって孫だけが大切であるという真実を知ったのだ。

 安心した半面、頭が滅茶苦茶になった。

 今までに出会った生徒、いま教えている生徒たちはすべて、そのであり―――取るに足らない存在だったのでは、と。

 


 そう思うようになった―――老人に差し掛かった者なら月並みな考えだろうか?

 孫が可愛い―――それ以外のことなどどうでもよいだろう、自分のことさえも、存在さえもどうでもいい。

 その当時に仕事で抱えていたであろう、全ての悩みが消えた私だった。

 


 だが怖いものだ。

 今、自分は間違っているという、確信があった。

 不幸ではない、当たり前だ。

 不調ではない、好調だ。

 自分の中で湧いた感情だ。

 だがこの、現実感のなさは何なのだ。

 孫と出会えることは生まれる前にはもう知っていたから、予定になかったこと、では―――なかったはずだがね。



 それが家くんとの違いか。

 マンガを読んでいるだけで、こんな出会いがあるわけがなかった、というような口ぶりだった。

 自分の心の変化に―――うまくいかない、慣れていない。


 とにかく、私は自分が大きく変わったことがあった。

 所有していた幸福が大きく入れ替わった。

 それが戸惑いを産んだ。

 幸福では、あるけれど。

 


 さあて、どんな顔をして教卓に立てば正解なのだろう。

 一人、わからなくなった時期があり、一人で悩んだ。



 この世界には宝物があり……宝物のようなもの、か。

 私はもうそれを所有してしまっている。

 うむ……これ以上、何をどうする。


 まあ、授業したが、するしかなかったが。

 困惑しつつ。

 自信がなかったし、自身がなかった。


 それまで私は、知る教員に、どうしても好きになれない者がいた。

 ―――教師らしからぬ言動の者が、一人、二人。

 節度のない、だらしのない性質の。



 しかし孫が生まれてしばらく、私は―――。

 唯々ただただ、なさけなく自分も不合格になってしまうような感覚を覚えた。

 これではいかん、と気を引き締めようとしたが、どうもあの頃はうまくいかなかった。

 


 いらん失敗を何度も連発し……駄目だなこれは、愚痴っぽくなってきたな。

 恥ずかしい社会人になり果てた私は、それでも気が緩み続ける。

 教師らしからぬ私は―――孫にとっての「じーじ」という新たな属性を得た。

 そして、というわけでもないだろうが、「荒野先生」はどうやら薄れ―――。

 定年を意識し―――、ああ。こういうことか、と自分を受け入れた。

 私の役目は終わりつつあるのだ、と。



 もっとも、そんな日々にも慣れてきた。

 定年が近くなれば人生で迷いはなくなるというか……迷ったとしても―――ああ、このパターンね、となることが多い。

 大体やってきたからね。

 初見ではなくなった。

 

 現代のこの国では、定年というものの在り方も考え直さねばならんが、これはまた違う話になるだろうな……。

 ともかく感情がいちいち揺れる、ある意味輝かしい日々が消滅した。


 

 私は真実を知ったのだろうか。

 それとも真実が変わったのだろうか。





 ――――――



「じーじ、どうしたの?」


 孫が本から顔を上げた。


「なんでもないよ、うーくん」


「なんでもないのか!」


 大したことはない、というべきかな……大したことのない毎日になっていった。

 昔は。

 つまり学生服を着ているときは、何もかも刺激的だと思っていた。

 ―――この世界は刺激的だと思おうしていたね。

 そして実際はそうでもなかった。

 なかなか理解はしなかったが。


「うん?」


 私は孫への読み聞かせをつづけた。

 ……否。

 最近はあまり読み聞かせれていない。

 子供として健全な斑気むらきを発揮した彼は、今アニメの方に関心があるようだ。

 私が選んだ絵本は、どうも何かズレているらしく、あまり見ようとしない。



 ふと、本棚を見やる。

 私の書庫には孫に読ませるために買ってきた、たくさんの絵本が幅を利かせていた。

 スペースを取っていた。

 小遣いも喜んで使ったものだが……まあ、思ったほどは読めていない。

 私も孫が喜びそうなものを探しはしたのだ―――。

 まあそれが食い違っていることは、孫に見せる前からうすうす勘づくのだが。


 「群具煮」のアニメにご執心な孫は、今はもう、その話ばかりするようになっていた。


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