13-⑦:俺と同じ
「……」
――苦しい、息ができない
セシルは、どこかの深い水の中で、水面を目指して必死にもがき続けていた。やっと水面に出て息ができたと思ったら、すぐに黒い触手に足を取られ、水中に引きずり込まれてしまう。それを何度も何度も、延々と繰り返している。いつになったら奴から解放されるのかもわからない。望みのない虚しい抵抗。だが、セシルは必死にもがいていた。
――レスターの所へ、赤ちゃんの所へ帰らないと…!
セシルはその思いだけを支えに、もがき続けていた。めげそうになる自身の心を、その思いだけで鼓舞し続けていた。
―セシル、どこに行こうとしているんだい?
水中でその触手を伸ばしている黒い影は、幾度となくセシルを引きずりこんでは、淡々と言葉を発していた。
―俺の言う事が聞けないのかい
――うるさい
―戻ったところで、また辛い目に合うだけだぞ
――うるさい
―俺と一緒にいれば、何も考えなくて済むんだぞ
――うるさい、誰がお前なんかと一緒にいるものか!
セシルはその黒い影を睨みつけ、叫んだ。
――オレは、レスターと一緒にいるんだ!
セシルは愛しい者の姿を思い浮かべ、続けて叫ぶ。
――だから戻らなきゃならない。だから邪魔をするな! オレは幸せになったんだ!
―……
しばらくの沈黙の後、黒い影はせせら笑った。どこか自嘲めいた笑いだった。
―幸せ…?はっ…幸せだって…お前がか?
その黒い影は鼻で笑い、赤く光る目をセシルに、心底憐れむかのように向ける。
――何がおかしい!
セシルは叫んだ。しかし、黒い影はけたけたと笑い、触手に込める力を緩めた。
―そう思うんなら、戻ってみろよ
黒い影は、挑発的な色を帯びた言葉を発した。
―そして、その時に、俺の言葉を聞かなかったことを、心の底から後悔するがいい
黒い影はセシルに、怪しくにやりと笑って見せた。ぞくりとセシルは後ずさる。その笑みは、得体のしれない種類のもので、見ているだけで恐怖が沸き起こるものだった。
―そして、また絶望して、傷ついてここへ帰ってくるがいい
触手に再び力が入る。そして今度は、勢いを付けてセシルを水面からはじき飛ばした。
―そうなったら、次こそお前は俺からは逃れられない。いいや、逃さない
黒い影は、セシルの影が消えた水面を見上げる。
―なぜなら、お前は俺と同じになるのだから
「……」
目の前が白む。まぶしい。そのまぶしさにうっすらと目を開けると、そこにはレスターがいた。
「レスター…」
セシルは、掠れた声でつぶやく。ひどく喉が渇いていた。
「やっと気がついてくれた…」
レスターは目に涙を浮かべ、セシルの頭を抱きしめた。
「どうしたの、レスター」
「どうしたの、じゃないよ。君はあれから2週間も意識を失っていたんだよ」
「あれから…?」
セシルはまだぼうっとする頭で考える。なんだか長い夢にうなされていた気がするが、思い出せない。その夢を見る前には一体何があったっけ…と思った時、はっとセシルは体を起こした。
「赤ちゃんは…!オレの赤ちゃん!」
おそらくあの栗のイガに毒が塗ってあったのだろう。「赤ちゃんが危ない」と思ったのが、意識を失う最後だった。セシルは慌ててお腹に手をやる。膨らんでいたはずのそれは、今や元通りになっていて…。
「駄目だったよ…」
レスターはやりきれないと言うように目を閉じた。
「そんな…!」
セシルは嘘だろうとレスターの腕をつかむ。しかし、レスターは力なく首を振った。
「男の子だったよ…君に似たんだね、銀髪が少し生えていて…。あの日から2日目に死産して……君の作ってくれた産着と一緒に荼毘に付してあげたよ…」
「嘘だ…そんな…そんな…」
セシルは認めたくなくて、しかし自身のお腹を触ればその事実は一目瞭然で、耐え切れずぽろぽろと涙をこぼした。
「オレが、オレが貰い物なんて食べようとするから、全然怪しまなかったから…オレのせいで…」
「君のせいじゃない、君のせいじゃないよ…」
セシルはレスターにぎゅっと抱きしめられる。もう駄目だった。その暖かさに我慢の糸が切れて、セシルは大声を上げて泣き始めた。
「レスター、ごめん…!オレのせいで‥オレのせいで…お前の子が…」
「謝らないで。君のせいじゃないから…悪いのは俺だ。もっと君の周囲を警戒すべきだった。君の傍にいるべきだった」
レスターはセシルの背を撫でながら、ぐっと唇を噛んだ。そして、自身の迂闊さを呪った。
警戒すべきは、マンジュリカ達とリトミナだけではなかったのだ。
彼女から以前、あの話を聞いた時に、少しでもその者の危険性を考えておくべきだったのだ。
「……」
そして、レスターはこの事実だけは、永遠に黙っておこうと誓った。
彼女を殺そうとした者が誰だったのか。これだけは、俺達が墓場まで持っていく。
レスターは、泣きじゃくるセシルを見つめながら、固く決意する。
これ以上、彼女に残酷な現実を突きつけることなんてできない。
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