第6話 猿から雑草へ。そしてウイルスに
次の日。朝食を食べ終えたクリストファーは綺羅にあるお願いをしていた。それを聞いた綺羅が翡翠の瞳を丸くして叫んだ。
「日本語を教えてほしい!?」
大袈裟に驚く綺羅に対してクリストファーは淡々と言った。
「あぁ。ここで世話になる以上、必要なことだと判断した。君に教えを乞うなど一生ないと思っていたのだが、不測の事態とは起きるものだな」
教えてもらう立場とは思えないクリストファーの態度と口ぶりを聞きながら綺羅が、うん、うんと頷く。
「オレが通訳してもいいけど、やっぱりコミュニケーションは大事だからな。日本語は文法がややこしいから、とりあえずコミュニケーションが取れるぐらいの単語から教えていこうか。日本語は単語を並べれば、だいたい意味は分かる。あとは相手が推測して意味を汲み取ってくれるだろうから」
「推測?」
欧米では自分の意見をはっきりと主張するため相手の言いたいことを推測するということがない。
首を傾げるクリストファーに綺羅が説明を続ける。
「あぁ。日本人は自分の意見をそのまま言葉にしないことがあるんだ。嫌味とかがいい例だな。京都では同じ日本人でも相手の言葉の本意が読めないことがあるらしいし」
「それは面倒だな。だが、その日本人の血が君に入っているとは、ますます信じられない」
「事実なんだからしょうがないだろ。じゃあ、まず一人称な。一般的に使われているのは、私や俺、僕、自分とかだな。方言になると、うち、わし、おら、わっち、とか他多数ある。あと少し前の言い方だと、拙者、吾輩、それがし、まろ……」
「待て。待て、待て!」
つらつらと言葉を並べる綺羅をクリストファーが止める。
「なんだ?」
「どうして一人称がそんなにあるんだ?それは全部覚えないといけないのか?」
「いや、覚える必要はないぞ」
「なら、教えるな。混乱するだろ」
「けど、豆知識として知っておいて損はないぞ」
「今は豆知識を必要としていない」
なかなか進まない日本語講座に、すっと黙って様子を眺めていたアクセリナが口を挟む。
「とりあえず必要最低限のことだけを教えたら?すぐに会話が出来るような言葉とか」
「うーん、わかった。じゃあ、一人称は私。これなら男が使っても女が使っても問題ないからな」
綺羅の説明にクリストファーが額を押さえる。
「ちょっと、待て。男が使っても問題ない、というのは、どういうことだ?」
「さっき言った、俺とか僕は男が使う言葉なんだ。女はあまり使わない」
「男性名詞、女性名詞みたいなものか?」
「いや、男言葉、女言葉みたいなものだ。日本語ほど性差がある言葉は世界的にも珍しいって言われているぞ」
「その言葉を使い分ける法則はあるのか?」
「ない。暗記のみだ。ただ男が女言葉を使うとオカマとかオネエとかに見られやすいから気をつけてな」
クリストファーが綺羅に釘を刺す。
「では、私には男言葉で日本語を教えてくれ。間違っても女言葉は教えるな」
「わかった。じゃあ、続けるぞ。二人称だが、あなた、君、お前、地方によっては自分……」
「待て!その地方によってはって何だ?しかも『自分』はさっき一人称のところでも出てきた言葉だぞ」
「おー、よく覚えていたな」
綺羅が感心して拍手をする。その姿にクリストファーはスッと立ち上がり綺羅を踏みつけた。
「簡単に最低限だけ教えろと言っただろ?どうして地方によっては、などと余計なことまで教えようとするんだ?君には学習能力がないのか?」
綺羅をグリグリと足の裏で踏みつけるクリストファーは決して教えてもらっている立場には見えない。むしろ覚えが悪い生徒をお仕置きしている図のようにも見える。
そして教えるという優位な立場であるはずの綺羅は踏みつけられながら弁解していた。
「つい出たんだよ!気を付ける、次から気を付けるから!」
「気を付ける。ではなく、しない。だろ?」
どす黒いオーラを纏ったクリストファーの脅迫に綺羅がブンブンと首を縦に振る。
そんな二人の様子を見ながらアクセリナは軽くため息を吐いた。
「これは時間がかかりそうね。まあ、暇つぶしには丁度いいかしら」
仲裁をする気が無いアクセリナは化粧ポーチを取り出して爪の手入れをしながら時々、横目で二人の漫才を眺めていた。
ある程度の名詞や動詞を教えてもらったクリストファーは手帳に書き留めた単語を見ながら言った。
「発音や単語の意味はスペイン語に似ているところがあるな」
何故か息も絶え絶えになっている綺羅が畳にへばりついたまま答える。
「そう……だな」
それを無視して学習意欲満載のクリストファーが話を進める。
「次は文法だが……」
「ちょっと、休ませて!」
これまた教える立場である綺羅が根を上げて叫ぶ。その姿にクリストファーはしょうがないとため息を吐いた。
「では、この続きは午後からだな。それにしても、この家は本当に人が住んでいるのか?伊織以外の人を見たことがないし、気配さえ感じられない」
この屋敷に来て三日目となるが未だに伊織以外の住人を見たことがない。それどころか他の住人の足音や話し声さえも聞いたことがないのだ。
クリストファーの疑問に足の爪の手入れまで終わらして美人の湯と教えてもらった温泉に浸かってきたアクセリナが答える。
「ここは本家とは離れた場所にあるみたいよ。ここの住人は本家側に住んでいるみたいだから、ここにいたら他の人の姿を見ることはないわ。それに、わざと距離を取っているようだし」
「わざと?なんのために?」
「ま、おそらくは私とクリストファーを警戒しているんでしょうね」
「それこそ、なんのため……いや、君は警戒するに値するな」
クリストファーはアクセリナが蝋燭も火の気もない提灯に水晶で火をつけたことを思い出した。
そのことを感じとったアクセリナが軽く笑う。
「あれぐらいで驚いていたら、この先やっていけないわよ」
「この先に何がある……いや、聞かないでおこう。私は巻き込まれるつもりはない」
クリストファーの断固とした姿にアクセリナが肩をすくめる。
「まったく。ここまで巻き込まれておきながら現実を見ないのね。綺羅、あなたの友人は変なところが頑固ね」
綺羅はクリストファーを友人と言われたことに喜んで飛び起きた。
「だろ?変な所が頑固で一癖あるから、とっつきにくいと思われているんだよ。だからオレが親友をしているんだ」
自慢げに話す綺羅をクリストファーが再び踏みつける。
「だから、私は君の友人になった覚えはない」
そこに昼食を持ってきた伊織が現れたのだが、二人の様子に驚いて声をあげる。
『どう&*#ですか?』
クリストファーは綺羅から日本語を習ったためか、なんとなく聞き取れるようになっていた。
慌てて二人の間に入ろうとする伊織をアクセリナが笑顔で止める。
「このままでいいわよ。これは二人のコミュニケーションだから。それより手伝うわ」
伊織は英語で話しかけてきたアクセリナを見た後、心配そうに綺羅に視線を向けて、そのままクリストファーを見た。
何か言いたそうな伊織に対して、クリストファーは安心させるように微笑むと覚えたての日本語で説明をした。
『綺羅、好き、踏まれる。問題ない』
クリストファーの発言を聞いて綺羅が踏まれたまま暴れる。
「ちょっと待て!それだとオレが変人じゃないか!しかも、さりげなく受動態を使って文法成立させているし!」
「何か問題があるか?」
クリストファーがすました顔で綺羅を踏みつけている足に力を入れる。その様子に伊織は安心したように少し笑うと頷いた。
『わかりました』
そう言ってアクセリナと共に昼食を部屋の中に運び入れる。
「あぁ……伊織ちゃんの中でオレに対する変な印象が植え付けられた」
綺羅が脱力して涙ぐむ。そこにアクセリナが追い打ちをかけた。
「ついでに縛られるのも好きって言っとけば?」
アクセリナからの恋人とは思えない発言に、綺羅は思わず叫んでいた。
「オレ、変人確定!?」
「そうだな」
「そうね」
二人に頷かれて綺羅が落ち込む。そこに昼食を並べ終えた伊織が踏みつけられている綺羅に近づいて正座をしてから満面の笑みで話しかけた。
『雑草は踏みつけられるほど強くなります。頑張って下さい』
それは悪意のない、清流のように清らかで純粋な応援だった。だが、なんとなく言葉の意味が理解できたクリストファーはそれを聞いて盛大に笑った。
「雑草扱いか」
クリストファーの言葉を聞いてアクセリナが面白そうに笑う。
「哺乳類から植物だなんて、ものすごい退化ね。次はプランクトンかしら?それとも石?」
アクセリナの発言に綺羅がどうにか返事をする。
「せめて生きているものにして」
「じゃあウイルスね」
「はい、それでいいです」
綺羅が完全に脱力して涙で畳を濡らす。恋人同士の会話とは思えない言葉の応酬を聞きながらクリストファーは綺羅から足を外した。
「それで恋愛関係が成り立っているということが不思議だな」
「あら、他人の前ではもう少し控えめにするから大丈夫よ」
「そういう問題かい?」
「そういう問題よ。じゃあ、いただきましょう」
「そうだな。君は食べないのか?」
クリストファーに声をかけられて綺羅が勢いよく起き上がる。
「食べる!」
『どうぞ。召し上がって下さい』
伊織の言葉を合図に三人は一斉に昼食を食べだした。
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