第30話
軽くドアを叩く音がする。部屋の主が無言でいると、ドアが静かに開いた。
部屋に入ってきた鴉はテーブルの上にある手付かずの食事を見て、ため息を吐きながら持っていた温かい食事をその隣に置いた。
「二、三日ぐらい食べなくても平気だろうが、いい加減に機嫌を直せ。いつまで経っても出発できないだろうが」
鴉の言葉に返事はない。仕方なく、冷めた食事を持って部屋から出て行く。
「沙参はどうですか?」
ドアを閉めると、オニキスが廊下に立っていた。
「かわりない。ずっと、あのままだ」
城から脱出した後、沙参は疲労と回復のため丸一日、死んだように眠っていた。その間に点滴などをして必要な水分と栄養は補給したのだが、その後が問題だった。
目が覚めるなり点滴を引き抜いて、一切の治療と食事を拒絶した。ベッドに潜り込んだまま、鴉がいくら話しかけても無言だ。
そのような状況が三日続いている。つまり沙参が断食を始めて、今日で三日目なのだ。鴉はゆっくりとオニキスの全身を見て訊ねた。
「体の調子はどうだ?」
「やっと痛みが治まりました。姉さんも、ほとんど治っています」
「そうか」
そのまま立ち去ろうとする鴉にオニキスが声をかけた。
「話してきてもいいですか?」
鴉は無言で頷くと、その場を立ち去った。
オニキスは一応ノックをしたが予想通り返事はなく、ドアを開けて部屋に入った。
「沙参?」
部屋の主は薄暗い部屋の真ん中にあるクイーンサイズのベッドの隅で小さく丸くなっていた。その枕元にはたれ耳うさぎのぬいぐるみが転がっている。
オニキスはカーテンを開けると、丸くなっている沙参の隣にそっと腰掛けた。
「いい天気だよ。空が綺麗だ」
青い空に白い雲が風に運ばれていくのを黙って眺める。そのまま音のない時間が過ぎていく。
窓から入る光が薄暗かった部屋を明るく照らす。ここは病院ではなく、古い神殿を改装した教皇御用達のホテルだった。沙参の存在は世間には秘密裏であるため、そこら辺の病院で治療するわけにはいかず、セキュリティが万全で秘密保持のしっかりしたホテルを教皇に紹介してもらったのだ。
部屋は大切に使われてきたことがわかる古い家具に、少し黒く汚れた白い壁がどこか家庭的で温かい雰囲気を漂わしている。だが、そんな雰囲気とは無縁の、無言で気まずい空気が漂う。
しばらくして、沙参がポツリと声を出した。
「なんの用だ?」
「用っていうほどのことじゃないんだけど……」
オニキスのはっきりしない言葉に沙参が少しイラついたように言った。
「早く言え」
「一緒に空が見たいな、と思って」
「……出て行け」
キッパリとした言葉にオニキスは笑った。
「そう言うと思った」
笑って納得しながらもオニキスが動く気配はない。それ以上、会話のする気のない沙参はそのまま無言になった。
「空って不思議だよね。毎日見ているのに同じ空を見たことはないんだ。いつも違う色をしている」
そう言いながらオニキスは母親が幼子にするように沙参の体をシーツの上からポンポンと叩き始めた。
「人も同じだよ。いろんな人に出会ったけど、同じ生き方をした人に出会ったことはない。みんな違う生き方をして……みんな先に死んでいく」
沙参の体がピクリと動く。
「雲は風に乗って動いているのに、時間に乗れず立ち止まっている」
沙参がますます体を小さく丸めた。
「止まった時間は重いよね。一人で受け止めていくのは辛いよね」
沙参をあやすように動いていたオニキスの手が止まる。
「泣いていいよ」
しばらくの無言のあと、今にも消えそうな独り言のような声が聞こえてきた。
「……助けたかった。私は助けたかっただけなのに…………」
そう言って、沙参がシーツに包まったまま少しだけ体を起こす。
私がしたことは間違いだったのか。
私はしてはいけないことをしたのか。
私にもっと力があったら、二人を助けられていたのか。
私さえ…………
「声に出して泣いていいんだよ」
オニキスが沙参を包んでいるシーツをそっと取る。
「君は悪くない。一人で抱え込まないで」
両頬を涙で濡らした沙参がオキニスに抱きついた。
「初めて仲間に会えたのに!」
城は一昼夜燃え続け、焼け跡はレグルスとステラの遺体は確認できないほど、なにも残っていなかった。
オニキスが沙参を包むように背中に手をまわす。
神というものがいるのなら、教えて欲しい。
何故、二人は死を選んだのか。
何故……
「みんな私より先に死んでいくの?!」
こんな悲しい運命を彼女に与えたのか。
オニキスは大声で泣く沙参を静かに抱きしめた。
鴉が廊下を歩いていると、待っていたようにスピネルが壁に背中をつけて立っていた。
「後処理のほうはどう?」
他国の、しかも王族の領主への攻撃は政府公認とはいえ、処理しなくてはならない情報が膨大にある。もちろんマスコミへの情報規制も念入りに行わなければならない。
他にもレグルスが教皇や兵士に血を飲ませたルートや、人工衛星の機能をダウンさせた方法など、調査中のことも多い。そのため、この四日間、後処理に追われた鴉の睡眠時間はゼロだった。
「まだ少し残っているが、目処はついた。あとは沙参が帰国するだけだ」
「そう。で、感情の整理はついたの?」
鴉はスピネルの前を通り過ぎたところで足を止めた。
「……ああいう生き方もある。済んだことだ」
その言葉にスピネルは少しだけ微笑んで鴉の隣に来た。
「あなたとレグルスでは主との関係が違うわ。理解出来ないことが多いと思う」
その言葉に鴉がスピネルを見た。
「式として主との関係は同じだと思うが?」
「確かに〝式〟として〝契約〟という関係で主と結ばれているのは同じね。でも、それ以外が違うわ」
「それ以外?」
意味がわからない鴉に、スピネルが意味ありげに微笑む。
「そのうち、わかるといいわね。まあ、鈍いから一生わからないかもしれないけど」
「わかっているような言い方だな」
「少なくとも、あなたよりは、わかってるつもりよ」
そう言うとスピネルは鴉から視線を外して言った。
「……オニキスのこと、お願いね」
突然の言葉に鴉が聞き返す。
「どういうことだ?」
「オニキスは沙参ちゃんの式になるわ。足手まといにはならないだろうけど、まだまだ甘いところがあるから、お願いね」
「君はどうするつもりだ?」
「別に。いままで通り、気の向くままに各地を転々とするわ」
鴉が本日二回目のため息を吐く。
「どうして君は勝手に一人で決めるんだ?」
「私の人生なんだから、私が決めるに決まってるじゃない」
文句は言わせない、とばかりの堂々としたスピネルの態度に、鴉はサングラスの下の瞳を細くして声を低くした。
「人の人生に無理やり割り込んできて、ただで済むと思っているのか?」
「は?」
鴉はスピネルの胸ぐらを掴むと、グッと顔を近づけた。
「あれから、どれだけ探したと思っている?」
これから殴りあいの喧嘩が始まるような雰囲気の鴉に、スピネルが惚けたように視線を逸らした。
「あー…………探してたの?」
軽くかわそうとするスピネルに鴉が詰め寄る。
「わざと逃げてただろ?」
「そんなことないわ。いろいろあって、一ヵ所に長くいなかっただけよ」
そう言ってスピネルが鴉から離れようとする。
鴉は胸ぐらから手を離すと、スピネルの顎を掴み視線を合わせるように上に向かせた。殺気のような気迫とともにスピネルを睨む。
「今度こそ、ともに来い」
「……嫌だと言ったら?」
「このまま離さない」
その言葉を聞いて、スピネルは力が抜けたように笑った。
「これなら、レグルスの気持ちもわかるんじゃないの?まったく、素直に一生そばにいろって言ったら?」
スピネルはそう言いながら鴉のサングラスを外して距離を縮めた。
こんなに泣いたのは、何年ぶりだろう?
沙参は泣き疲れて、ウトウトと現実と夢の間を意識が彷徨っていた。全身を包み込む温もりが気持ちいい。
このまま寝たいな……
意識を手放そうとしたところに頭上から声が降ってきた。
「式にしてくれない?」
オニキスの発言に沙参の意識が一気に覚醒する。
「駄目だ」
慌てて体を起こしてオニキスを見る。
「おまえがいなくなったらスピネルはどうなる?」
この長い時間を一人で生きていくには、この世界は辛すぎる。
沙参の考えをよそに、オニキスが安心させるように少しだけ微笑んだ。
「大丈夫。姉さんには、あの人がいるから」
「……あの人?」
「そのうち、わかるよ」
「教えろ」
黒い瞳が朝焼けのような赤紫色に染まった瞳を睨む。昼の空のような青い瞳はどこにもない。
「人のプライバシーは詮索しないほうがいいよ」
「気になるだろうが」
諦めそうにない沙参に、オキニスは心の中でスピネルに謝りながら話を先に進めた。
「じゃあ直接、本人に聞いて。それより、式にして欲しいんだけど?」
「悪いが、私は式を持つつもりはない。その目を見て分かると思うが、おまえを完全には式にしていない。私の血を飲ましたのは、おまえの体の中にあったスピネルの血と中和させるための応急処置的なものだ。今なら契約を解除することも出来る。第一おまえは式にならなくとも、あの一族の血が入っているのだから力も命も十分あるだろ」
「でも、君と一緒に生きるには足りない」
オニキスの言葉に沙参の表情が固まる。
「……本気で言っているのか?」
「もちろん」
オニキスは軽く言ったが瞳を見れば本気であることがわかる。
沙参はフッと笑うと左手にたれ耳うさぎのぬいぐるみを持って立ち上がり、冷めてしまった食事を見た。
「温めてこようか?」
オニキスも立ち上がり食事に手を伸ばす。その動作に沙参が満足そうに微笑んだ。
「私の式になりたいのなら確認せずに、それぐらいのことはしろ」
オニキスが苦笑いをする。
「式って家政夫なの?」
「冗談だ」
そう言って沙参が窓を開けた。少し冷たい風が部屋の中に飛び込んでくる。
どこまでも続く青空を背にして、沙参がオニキスの方へ振り返った。
「おまえを式にしたくない。それに今の状態なら式に近い力と命がある。それでは駄目か?」
「いや、十分だよ」
少し複雑そうに微笑むオニキスに沙参が右手を伸ばす。
「悪いな。折角、綺麗な青い瞳だったのに。父親ゆずりだったのだろ?」
「この色も綺麗だと思うけど、どう?」
沙参は少しだけオニキスの顔に触れると、スタスタと歩き出した。
「天気がいいから、外で食べよう」
「そうだね」
沙参が左手にたれ耳うさぎのぬいぐるみを抱えたまま部屋から出て行く。その後ろを、食事を持ったオニキスがついていく。そこにスピネルが声をかけてきた。
「鴉が庭にランチを用意してるから行きましょ」
「そうか。そういえば、米が食べたいな。もう、何年も食べていないような気分だ」
沙参がそう言いながら、スピネルと廊下を歩く。
「お米……は無いと思うわよ」
「この辺りに米を売っている店はないのか?」
二人の後ろを歩いているオニキスが笑いながら説明する。
「こんな片田舎に外国の食材を売ってる店はないよ」
「それは残念だな」
本気で悔やむ沙参にスピネルが微笑む。
「すぐ帰るんでしょ?なら、最後にこの国の郷土料理を堪能するのもいいと思うわよ」
「それもそうだな」
沙参が納得しながら古びた木製のドアを開ける。そこには多種類のバラの花が咲き乱れ、青々とした芝生が広がる庭があった。その中央に白いテーブルと白いイス、そしてワゴンに乗った数々の料理がある。
そこに鴉がワインを持って倉庫から歩いてきた。オニキスがさりげなく鴉の隣に来て小声で話しかける。
「いろいろ迷惑をかけると思いますが、お願いします。とくに姉さんは、ああいう性格なので大変でしょうが」
鴉は一瞬、言葉に詰まったが口角を少しだけ上げると声を低くして言った。
「覚えることは山ほどあるからな。すぐに挫折するなよ」
どこか楽しそうに見える鴉に、オニキスは苦笑いをしながら言った。
「死なない程度に頑張ります」
二人の間に微妙な空気が流れる。そこに沙参とスピネルの声が響いた。
「早くしろ」
「料理が冷めちゃうじゃない!」
その声に二人が再び歩き出す。
木々に囲まれた隠れ家のような雰囲気に、隅々まで手入れの行き届いた庭。そこに四人の声が響く。その頭上を二羽の白い鳥が青空にむかって飛び上がっていった。
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