第6話 束縛 一、

両親は激しく後悔していた。

弟より症状が軽いからといって、病んでいる娘一人を山奥の館に隔離したことを。

私は多少想い違いをしていたようだ。両親は双子の子供達二人とも、平等に近い重さで愛している。ただ、どちらかを選ぶしか手段が無かったのだ。


弟の心因性の難聴は、ほぼ治っていた。両親の全身全霊、愛情を傾けた看護が彼の心の壁を溶かしたのだ。

「少しずつ、遠くから音が戻って来たんだ。小さくて濁った音が、ゆっくり濁りが取れて、近付いて、気がついた時には、その音は父さんや母さんや、病院の先生の呼びかける声だったということがわかって来て。みんなが僕の回復を待っていてくれたんだって

・・・あの娘(こ)は僕が姉さんと同じ顔だから・・・『気持ち悪い』と僕の存在そのものを否定した。あの時の僕には彼女だけの言葉が絶対だったから。それ程大切で大好きだったから。

でも、音を取り戻した時、僕の世界は彼女だけではなくなっていた。僕の周りの家族、一生懸命直そうとしてくれた病院の人たち、そしてこれから出会うだろう人々、僕の人生は僕だけの為じゃなくてそういう、すべての為にあるんじゃないかって思えるようになったんだ。・・・でも、僕を見守ってくれる人々の中に、姉さん、あなたがなぜかいなかった」

事情を聞かされて弟は激怒し、すぐにでも私を迎えに行こうという話になっていた矢先に、私が山荘の裏山の森に入ったまま行方不明になったと連絡が入ったのである。

私は、森の奥の獣道から少し外れた小さな斜面で、半裸の状態で発見された。変質者の悪戯を受け、茫然自失の状態になっていた。

山荘で私を世話していた女性が言うには、少しずつ言葉を取り戻していると聞いていたが、再び言葉を失い、何も飲まず食わず、窓の外をぼんやりと見上げて過ごす娘を、両親は仕方なく、以前弟が入院していた病院に入院させた。


私は、本当は、久遠を失った悲しみに絶望していた。彼はあの、時計草に封じられた館ごと、この私の生きる世界から姿を消した。もう二度と逢えない。


私は十三歳にして世界の全てを失った。私の生きる理由は久遠だ。探し求めていた運命の伴侶は彼だったのに。

今なら両親の涙に愛情を確認できるし、付ききりで私を看護し、反応のできない私に離れていた間の自分の変化を語り、両親を独占したことを涙ながらに詫びる弟の心を理解できる。でも、関心は持てない。心の奥まで届いて来ない。


病室の個室の窓ガラス越し、しとしとと振り続ける六月の雨。私には見える。まだ常に見え続けるのだ。あの時空に置き去られた森が。時計草に封じられた館が。しかし、窓を開ければそこには白い雨の糸のライン以外何もない。幻だと思い知らされるのだ。


雨の多い季節の合間の、ある月光の強い夜。私はベッドの傍らに人の気配を感じて目を覚ました。

白衣の男性が立っている。病院の職員の中には見覚えのない顔だが、私には心当たりがある。

「彼の元へ行きたいか?」

低い、足元の床板さえ震わすような深い声。薄い雲に隠れていた月の光が、さっと彼の横顔を照らし出す。よく研がれた刃(やいば)のように鋭く美しい顔立ちの男性である。

間違いない、彼だ。私は跳ね起きて手を差し出した。「ぐ、ら、す」ワイングラスは持っていないの?私は何を飲めばあの館に行けるの?

夜の窓に映る、私だけに見える幻の時計草の館に目をやった。

あなたでしょう? 昔、久遠を吸血鬼にしたのは。あなたは何者? 吸血鬼の仲間?それとも悪魔?

「なんで、も・・・いい。つ、れてって。あの・・・」

ガラスに映る幻を指差す。たぶん、久遠のように、彼は私の心を読んでいる。でも。言葉にしたい。口に出さなくては伝わらない。この激しい渇望。連れて行って! あの"忘却の森"へ。「あの、や、か、たへ。くーおーん、のと、こ、ろ、へ、おねがい、おーねがーい!」

彼の肩にすがりつこうとした瞬間私の両腕は空(くう)を擦り抜けた。白衣の男が姿を消した跡、そこには真珠色の蝶が! ゆっくりと羽を動かし私を見下ろしていた。懐かしく美しいお前よ。

(クロワゾン!)

彼が愛した、あの美しい蝶。

私の肩の周りをくるりと旋回する。

あの日々のように。私を誘うように。クロワゾンは窓ガラスをするりと通り抜けた。

「待っ・・・」

蝶の鱗粉の軌跡を追って、思わず暗闇のガラスの中の、あの恋しい館へと手を伸ばし・・・擦り抜けた。


光に満ちたあの森の中の広場はそこに確かに存在した。私は、あの館を見上げて立っている。私が最後に見た時以上に、時計草は蔓を伸ばし、頑強に、ほとんど館全体を覆い尽くし、満開の花々は近付いてみるとたくさんの大小、様々な形の本物の時計になってカチカチ、耳が痛くなる程うるさく、時を刻む音を立てている。

「久遠!」

ドアのノブにまで絡みついた蔓を引き千切り、どうにか中に入った。内壁の所々が崩れ、埃をかぶった調度品の何もかもが、彼はここにいない、そう伝えている。気配が無い。けど、それでも館中を探し回った。

「久遠、久遠・・・」

呪文のように・・・彼がこの館と共に戻ってきて、どこかの部屋にいてくれますように、ずっと走りながら彼の名を呼び続ける。祈りながら一番最後にあの書斎の扉を開く。

「久遠!」

彼の姿は、やはり、ない。窓も蔓に覆い尽くされて薄暗く翳った部屋。私は脱力し、床に膝をついてしまう。

『少女よ』

あの、白衣の男の声が、心に直接響いてくる。クロワゾンが真珠色の羽をはためかせ、私の目の前を通過して、大きな姿見の中に入り込む。鏡の中の、この部屋でこちらを向いて羽ばたいている。

「クロワゾン・・・あなたが、彼を吸血鬼にしたの? あなたは悪魔の使い? 何者なの?」

この部屋の中では私は、きちんと話が出来る。クロワゾンはあの森を通して、今回は窓ガラスを通して、私を異世界へと誘った(いざなった)のだ。

『私の正体を、お前は知っているはずだ。お前たち人間が呼ぶような名称では私の存在は限定できないが』

・・・では、ではあなたは。

「ああ、わかります。私は、あなたを知っています」

魔とも聖とも限定できない、しかし、確実にどこかにいる。いいえ、いつも、どこにでもいる尊い存在。

あなたを信じる努力など必要ではなかった。あなたがいつもそこにいることを、私のまわりのすべての、森羅万象すべての中にあなたが存在していて、私たちを見つめている温かなまなざしを、私はいつも心で感じていた。

クロワゾンという蝶はあなたが哀れな恋に殉じた孤独な少年に使わした、魂の栄養源(ライフライン)であり、唯一の仲間、だったのだ。

「でも、私は決して信仰深き者ではなかった。私はあなたを裏切り、相反する側の者に恋した愚かな娘です。なぜ私にその尊い声をお聞かせ下さるのですか?」

『お前が彼を愛する心が私の存在に近いものだから、だ。・・・そして久遠が愛した少女の命を救う為に、彼を人でなし、吸血鬼にさせたのも私だ。私はお前たちが信じている程、聖なる存在ではないのだよ。彼の激しい悲しみに心を動かされ、選択肢を与え、手を貸した。信仰よりも愛を選んだ彼を・・・』

厳かな声が悲しく震えている。

『私は、私を愛の為に裏切るものを、憎んだことは一度もない。ただ悲しいのだ。少女よ、私はただ悲しいだけ、なのだ』

「彼を人に戻す方法は無いのですか? ルビィは・・・彼の魂を拘束する人はもう、いないのだから」

『彼は彼女に人としての魂を捧げ、吸血鬼として生きることを選んだ。人に戻ることは出来ない。彼女を失った今、彼は死に逝くしかない。・・・改めて彼の生命を束縛する人間が現れる以外には』

鏡の中のクロワゾンの姿が、つよくまばゆい光に霞み、大きく膨らむ。白い煙のような、私そっくりの姿になる。鏡の中から煙の私が抜け出てくる。両手の指を合わせ、手のひら、手首、ひじ、肩と、私の身体の中に溶け込んでくる。

『私の役目は終わった。少女よ。お前が行くが良い』

私の右手が勝手に部屋の扉を指差した。

この扉の向こうは、彼がいる場所に必ず続いている。私は廊下に続く扉のノブを震える指で握り、ゆっくりと回した。


扉の外に光が満ちている。


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