第5話 胎動

春の終り。森の中を始終霧雨が湿らせていた。私は新聞を握り締め、久遠の館へ向かっていた。膨れっ面に少し熱を帯びていたのかもしれない。

時々葉先からぽつんと落ちてくるしずくが冷たい。お気に入りの革のブーツが泥だらけになってしまい、最悪の気分になっていた頃、クロワゾンが現れた。


彼の部屋は、荒れていた。と言っても本棚とソファと文机以外ほとんど何も置いてない部屋に、高価そうなティー・カップが割れて散乱し、文机の傍に重そうな樫の椅子が倒れ、四、五冊の本が書棚から落ちている程度だが、どうやら、それは彼が苦しさのゆえにすがりつこうとして落としたらしい。

久遠は、書棚の横のソファに荒い息でしなだれかかっていた。

「ルビィ、死んだ。昨日」

新聞の死亡記事の載っているページを彼に手渡す。

「知ってる。同じ時刻に僕の身体にも変調があった」

どうやら昨日から、彼はこの状態のままでいたらしい。

『ルビィ・ローズ、童話作家。何百作もの作品を残し、いずれの作品にも、人生における悲しみと喜びと、生きとし生けるものすべてへの愛情が描かれている。90歳で、何人もの子供たち、孫たち、ひ孫たちに囲まれての大往生だった』

久遠はそこまで読み上げると小さくため息をついた。

「やっと、僕の生きている理由は無くなった。これで僕は死ねるんだ。孤独な日々からも解放されるんだ」

「どういう、ことなの?」

「僕はね、初めて血を飲んだ人間の寿命が尽きた時、この命も尽きるんだ」

「・・・な、なぜ、そんな大事なこと、教えなかったの!」

「君に、教えなければならない理由はない」

掠れ声で、しかしきっぱりと彼は言った。

「もう彼女はこの世界のどこにも存在しない。彼女がどこかで生きていると思ったから生きていられた。彼女のいない世界で生きてなんていたくはない」

私はソファに腰掛け、彼の頭を膝に乗せた。

「あなたの魂は彼女の魂に囚われていたのね。ルビィに魂を与えたあなたとルビィは、同じ世界に存在することは許されなかった。そういうことなのでしょう?」

汗ばむ彼の額に張りつく前髪を、指先でそっと払いのけながら、私は、溢れ出そうになる涙を押さえようとした。自分はここにいて、こうして手に触れられる場所にいて、彼を愛しているのに、彼は他の、死んでしまった過去の恋人への愛に殉じようとしている。そんな彼の為に誰が泣いてやるもんか。

クロワゾンが彼の胸の上で組まれた手の上に止まった。お前も、もう一度血を与えて彼に甦って欲しいんだね。なのに彼はクロワゾンにさえ触れようとしない。白い蝶は悲し気に舞い上がり、私の肩の周りを鱗粉を蒔きながら旋回した。

その時、私は自分でも思いがけない言葉を口にしたのだ。

「では今なら会いに行けるわ。行きましょう。ルビィのところへ」

クロワゾンが私を操っているのだろうか。

「ルビィは亡くなった。魂はもうこの世界に無い。だったら今なら会える」

そんな無茶苦茶な、と内心思ったが、クロワゾンが私を酔わせているせいか、そんなの何でもないことのようにも思えていた。

大きく目を見開いた彼の胸の上の手を両手で包んだ。その上にクロワゾンが羽を休める。体から力がすぅっと抜けてゆく。薄れていく意識の中で「そういえば蝶は魂を司るっていう神話があったっけ」と、思い出した。


風の音と、微かに水の流れる音。仄かに甘い香りに包まれているのがわかる。そして右手に誰かの手の温もり。

目を開くと、私と久遠は手をつないで、七色の花咲き乱れる河岸に立っていた。そこから河まではゆるい角度の斜面になっていて、見下ろすと青黒い水面が、穏やかに凪いでいた。巨大な河で、向こう岸は、霞がかかっていてほとんど見えない。

「あなたたち、兄妹?」

背後から声を掛けられた。綺麗な声。澄んだ、高くも低くもない、花がぱっと咲く瞬間のような声。

振り向くと、三十代半ば位の、赤みがかった金色の髪がさらさらと長くて背の高い、いかにも子供好きそうな、優しそうな女性がにこにこ微笑んで私達の隣に腰掛けていた。

「お花畑を見に来たの? 綺麗でしょう? とってもいい匂い」

久遠が私の手を握る手が震える。ああ、彼女、なんだ。この、大輪の真っ赤なアネモネの花のような、まっすぐでしなやかで、美しい女性。

「あら? ・・・あなた・・・」

大きな琥珀色の瞳が、久遠の顔を見て、更に大きく見開かれる。見る間に彼女の瞳に涙が溢れる。

「・・・やだ・・・ごめんなさいね。私、あなたによく似た人を知っているの。でも、人違いだわ。だって、きっとその人は今頃おじいさんになっているはずだもの」

指で一生懸命涙を拭きながら、彼女は笑顔を作った。

「・・・その人は、どんな人だった?」

久遠が微かに震える声で尋ねる。

「え?」

「その人は、あなたにとって、大切な人だったのですか?」

「そうねぇ・・・」

それきり彼女は微笑みを浮かべて黙ってしまった。その瞳は、遠い歴史を封じ込めた琥珀のように、河面のキラキラと澄んだ輝きを、映していた。

私と久遠もそよ風に吹かれながら、手をつないだまま彼女の横顔を見つめていた。

黙ったまま、ずいぶん長い間。

「舟が、来たわ・・・私、行かなくちゃ」

彼女はおもむろに立ち上がり、スカートについた草を払いのけた。斜面の下、岸辺にいつの間にか小さな気の船が着き、黒いマントをまとった船頭がこちらを見上げていた。

「さあ、お別れね。これからも兄妹、仲良くね」

彼女は両手でそっと久遠の手を包む。じっと目を見つめ、ゆっくりと手を離した。

「可愛らしい妹さんね」

そう言った後、私の肩に両手を優しく乗せ、

「お兄ちゃんを、大切にしてあげてね」

と、頬に唇を近付けて、静かに言った。

そして、彼女は花園の中の石段をゆったりとした歩調で降りて行った。

一瞬、久遠が前のめりになって走り出そうとして、私は慌てて彼の手を握り引き戻した。久遠は、どうしようもなく遮られた運命を悟ったように立ち止まる。

彼女は優雅な仕草で舟の舳先に腰掛ける。やがて舟は岸を離れ、彼女は笑顔でこちらに両手を振った。ずっとずっと、霞で姿が見えなくなるまで手を振っていた。

ルビィ。何故、そんなにもそんなにも一生懸命手を振るの?

あなたは、もしかしたら目の前の少年がかつてあなたに生命を捧げた恋人だと、気づいていたのでしょう?


人間は死ぬと、魂は、一番幸せだった頃の姿になって黄泉の国に旅立つんだって、聞いたことがあるよ・・・。

心の中で久遠に語りかけると、久遠は私の手を取り、そっと握った。

ねえ久遠、きっとあなたが自分を犠牲にして彼女を救ったのは無駄じゃなかったね。蘇生した彼女じゃ、あなたの捧げた魂に守られて幸せな一生を生き抜いたのね。


気が付くと私たちは書斎のソファに折り重なったまま倒れていた。

「みもざ・・・」

呻くように私の名を呼び、彼は身を起こして私の顔を見た。

「君はいったい何者なんだ。・・・あんなことができるなんて」

私は首を横に振りながら言った。

「普通の人間の子供だと思うわ。・・・たぶんちゃんと人間の両親がいて、親戚もいて、双子の、私にそっくりの弟もいて、友達も何人かいるわ・・・もっともここに来てからはみんな無くしちゃったけど・・・でも、ちょっと自信なくなってきちゃったなァ・・・」

自分でも少し怖くなってきた。彼を思う気持ちが強くなる程、自分はとんでもない力を身につけていくのではないだろうか。


その時、館の外から微かに規則正しいカチカチという音が聞こえてくる。

「久遠・・・時計の音!」

私は慌てて窓に走り寄った。ガラス窓を開くと、窓の外の花という花すべてが、本物の時計のように・・・

「時計草が・・・時を刻んでいる!!」

コチコチカチコチ・・・上下左右、どんどん時を刻む音は大きく、多くなっていく。やがて地響きが起こり、天井からボロボロと漆喰が崩れ落ちてくる。蔓が伸び、建物を締め上げているのだ。

「・・・封印が、解けていく」

久遠が青白い瞼を伏せた。

「もう、いいんだ。充分だ」

握っていた私の手をそっと外して、私を弱った力で突き放した。

「早く、この館を出なさい。僕の生命は、もう尽きる」

何言ってるのよっ嫌だよ。あなたがこの館を出られないなら私もここにいる!

「・・・ありがとう。君のおかげで最期にルビィにも会えた。何も、悔いは無い」

「じゃあ、私の血を飲んでよ」

私の血を、飲めばいいでしょう、久遠。私がルビィの代わりになるよ。そうすれば、あなたは私が生きている限り生き続けられるのでしょう?

「だから、私の、血を飲んでよ。・・・お願いだから・・・」

涙が溢れて止まらない。私を、愛してよ、久遠。私をあなたに関わらせてよ。あなたと、あなたの大切な思い出だけで閉ざしてしまわずに。

「みもざ・・・どうして君は、そんなにまで?」

あなたと、同じでしょう?久遠。

私の心にその言葉が浮かんだ瞬間、久遠の動きが止まった。私の顔をじっと見上げ、何かを決意したように私の体を引き寄せる。

崩れ始める部屋の、壁土の埃の中で。

しかし久遠は私の首筋ではなく、唇に顔を近付けてきた。重なった唇が、雪のように冷たくて、飛び上がりそうになった。

全身が細かく震えてる。血が、欲しいの?久遠。

「いいよ。久遠」

「言うな」

半袖の腕に、彼の苦しそうな吐息が触れる。首筋を冷たい指が滑る。背のくるみボタンを一つ一つ外して、長い細い指先が背中に時々力を加えてくる度、微かな甘い痛みが全身を走る。血を欲求する本能に、キリキリと抵抗する理性。彼の葛藤が尖った爪を通し、私の体中、柔らかい肌に鋭く刺さり、彼の苦悩を伝えてくる。

「痛ったぁ・・・」

彼の首に一生懸命腕を絡ませた。

「くおん、久遠」

何度も何度も彼の名を呼ぶ。名を呼ぶ度にその美しい音の響きに伴われて、頭の中で彼の名の持つ本来の意味が広がっていく。私の生きてきた時間、現在のすべて。大切な過去、果てなく広がるはずの未来、何もかも、悠久の時間のすべてが彼への愛しさでいっぱいになる。

何故、私を、抱くの? 彼が私への想いの表現に、吸血行為ではなく、こんなにも甘美で深遠で、激しい、人間としての愛情の行為を選んだ意味は? まだ固い十三歳のこの体を無理やり開いてまで示そうとした想いは?

・・・力尽きようとしているはずなのに、最期の力を振り絞るように、物凄い力でソファに押し付けられ、彼の肩と腰に私の小さな固い体はすっぽりとつつまれてしまう。彼で私の世界はいっぱいになる。彼がすべてになる。未知の巨大な力に圧し潰されるように。波のように打ち寄せてくる、飲み込まれる。頭の中、ぐらぐらと渦を巻く。彼の朽ちていく生命の病みの中に、落ちていく。おぼれていく。深く、深く・・・。


遠くから誰かの声が聞こえる。誰か、大人の男の「見つかったぞ!」とわめく声。

朝露が夏草の先から落ちて、瞼を濡らす。

「姉さん、みもざ姉さん」

そして懐かしい、愛しい弟が私を呼ぶ声。続けて、両親の声。安堵して目覚めた私は森の奥、光の中に倒れていた。体を起こすと、衣服を剥がれ、半裸の状態だった。

「みもざ、何があった。まさか変質者か何かの仕業か?!」

父が私の両肩を大きな手で包み、身体を大きく揺さぶる。私は、ただ無我夢中で首を横に振った。

そして、はたと気づき振り返る。・・・時計草の館が、広場が、忽然と姿を消していた。そこは森の一部分にある、小さな斜面に過ぎなかった。


久遠は姿を消した。時計草の館ごと。二度と逢えない。この地上にもう私の幸福は無い。私は絶望して大声で泣きじゃくった。


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