第4話 みもざ
春が、近付きつつあった。森の草木も小さな芽を付け、やがて蕾が膨らみ始める。
それに比例するように、私は言葉を確実に取り戻していった。「久遠」の名を口にできた瞬間から、堰を切ったように言葉が戻ってきた。時々呂律が回らなくなるのがもどかしく、ひとことひとこと、丁寧に発音するようになり、その分、ひとつひとつの言葉が私の中で深い意味を持ち始めた。
世話係のおばさんにも少しずつ言葉で要求を伝えることができるようになった。まだ疲れるので、必要以上のことを話すのは辛かったが、初めて「ありがとう」をやっとの思いで告げた時、彼女は涙ぐみながら、ふくよかな温かい体で私を強く抱き締めた。
彼女のいたわりの深さは、その頃には痛いほどよくわかっていたけれど、久遠との約束は守って、森の中の時計草の館のことは隠していた。
「森、そんなに、こわくない、です。深く、までは、行きま、せん」
そう言って可憐な花のブーケを彼女に差し出すと、彼女は私のひとことごとに、にこにこ微笑んで頷きながら、その小さなブーケを受け取った。
実際は、久遠の館へはそう毎日通えるわけではなかった。久遠に会いたくなって森へ行っても、道案内をしてくれる真珠色の蝶クロワゾンが出現しない日は、彼のもとへは行けない。何度もあの館への道を覚えようと努力したし、帰り道の所々、枝にリボンを結んで目印にしてみたこともあったが、次に行った時には同じ場所を堂々巡りするだけであった。
そのくせ、春の花が咲き始め、うららかな陽射しが木々の根元まで届く気持ちのいい日に、もう今日は諦めて純粋に散歩を楽しもうかと思う時に限って、クロワゾンは私の髪にそっと羽を休めるのだ。
「久遠」
私が訪ねていっても、彼は私が呼びかけるまで返事をしない。私はキッチンで勝手に二人分のお茶を入れる。(茶葉の量が決して減ることがない、という現象にも、どうせこの館は時間が封じられているのだからと、もう驚きもしなかった。)書斎に行き、たいてい本を読んでいる彼の前に盆を置き、ソファに座って自分の分を黙って飲みながら、俯く彼の前髪がさらさら揺れるのを見ていた。
「久遠」
長い前髪の隙間から水晶色の瞳が覗く。
「なぜ、私が、来るのを、拒まない?」
本当は、ルビイの思い出の中だけで暮らしていたいのでしょう? 私が視界をチラチラしてたら邪魔じゃないの?
「・・・クロワゾンが君を選んだから、かな」
「それだけ?」
少し、拍子抜け。
「獣を"狩って"いる時に、森の中に迷い込んだ人間に出くわすことはあったけど、この館までクロワゾンに導かれて来たのは、君が初めてだった。たぶん、君にとっても、僕にとっても意味のあることなんじゃないかと、思って」
「あなたは、なぜ、私のこと、何も尋ねない?」
それとも私の心の中をもうすべて読んでいるの?
「僕は君の表層意識しか読まないよ。礼儀として、ね」
「久遠」
私は立ち上がり、彼の前に立った。
「話したい。私が、ここにいる理由。この取り戻した、声で、あなたに・・・話したかった」
「私は・・・家族に、捨てられた」
話し始めた時、声が震えた。言葉にした瞬間にはっきりと自分が声を失った本当の理由を自覚して、息が詰まる。
長い沈黙の間、久遠はただ黙って私を見つめていた。私の次の言葉を待っているのだ。
私は大きく息を吸って、ゆっくりと言葉を続けた。
「私には双子の弟がいる。心は優しいけど、脆い弟。私達、この外界(がいかい)へ生れ出た時から、ずっと、一心同体、だった。私は彼、彼は私。双つの体で一つの魂を守り続けていた。そう思っていた
なのに、あの時、弟は私ではなくなった。学校で級友の少女に言われたのだと人づてに知った。『姉そっくりな、女のような顔をして、気持ち悪い』と。彼が彼女に好意を持っていたことを、私は双子の直感のようなもので、気づいていた。彼は初めて自分の想いを彼女に伝え、その答えとしてそんな言葉が発されたことが受け入れられなかった。しかも彼女はそれを級友に言いふらし、クラス中から同じことを言われ続けた。ある日、耐えられなくなった彼は、世界のすべての音から、耳の神経を閉ざした。触れるものすべてに極端に怯え、部屋にこもりきりで、むせび泣き続ける弟を、両親は驚愕と、憐れみと、慈愛で包もうとした。弟は両親にすがりついたけど、心は彼らにさえまったく開いてはいなかった。
双生児はよく同じ病気に同時にかかったりとか、連鎖反応をするけど、まったく同じ形で、現れるとは、限らない。弟の耳が、世界中の音を拒んだ、その分は、高熱を伴う、締めつけられるような頭痛と共に、濁流みたいな勢いで、私の耳に流れ込んだ。耳を、手で塞いで泣きじゃくった夜、私は言葉を失った。その時、両親は、入院していた弟に、つききりだった。
弟の症状と動揺の方が激しくて、私は、話せない以外、不自由なかったので、私の方だけが、父の知人の山荘に隔離された。『あなたには静かな環境が必要なのよ』と母は、優しく言ったけど、つまり両親は私より弟を選んだ、のだ。
"双子"として生まれたこと自体を否定されたことも辛かった。いじめの材料なんてどこからでも探し出せるけど、そのために弟と共に私は、双子として存在そのものを否定された。
でもそれ以上に心が痛かったのは、同じ魂を共有していたはずの弟が、双子であるがゆえに、片割れの私を、拒絶したこと。初めてお見舞いに行った私に、彼は『誰?』と言ったの」
「でも、私は間違っていた。離れてみて、よかったのかもしれない。弟とは別の人間なんだって、別々の、魂をもって生きていると悟らなくてはならないと、やっと、最近になって自覚できるようになった。そうしたら、少し楽になった」
そんなに長く話したのは、ひとたび言葉を失ってからは初めてのことだった。息が長くは続かないが、黙って久遠が聴いていてくれるから、話し続けることができた。
「君は、諦めていないように見える。社会から隔離されていても、必死で自分の生きる意味を見つけようと」
頬杖をついた姿勢で聴き終えた彼は、言っている内容の割には薄い表情でそう言った。
「そう、だから君は戦っているのだね。言葉と。いや、言葉だけじゃない。様々なものと、君を包むすべてと静かに、熱く激しく戦っている。その小さな身体の中は、今も嵐のように葛藤し続けているんだね」
「それは、愛しているから。一度言葉を失って改めて言葉への深い愛に気づいた。言葉を理解する為に、言葉に苦しみ、言葉と戦って克服したり、時には折り合ったりして、詩は生まれていく。・・・私は世界を同じように愛したい。もっと、もっと強くなって、自分を拒む物も、すべて愛せる、大きな心が欲しい。だからすべてと戦う。私を取り巻く物、私の中に有る物何もかもと」
久遠は無表情で黙ったまま私を見つめている。鏡と話しているような気持ちになる。
「愛は、戦いなの。他の人は、どうか知らない。私の愛し方は、戦うこと。少なくとも、思い出の中に美しいままで封じ込めるのは愛じゃない。私はそう断言できる。愛は心の中で叫ぶ、求める強い気持ちに従う物。そうじゃない愛なんて死んでるような物だと、思う」
「みもざ」
静かに目を伏せて久遠が私の言葉を遮る。
「それは君の愛だ。僕は君とは違う形の愛を選び取ったんだ」
久遠は、その言葉と同時に私の片恋をも遮った。
「久遠」
私はそっと久遠の手に手を重ねてみた。冷たい手。どうしても触れたくて触れているのに心の温度が伝わらない。
「あなたも、生きてるのね、常に。あなたの愛の中で。気づいてあげられなくて、ごめんなさい。私、本当に子供なんだ」
「本当に子供なんだから仕様がないだろう?」
微かな笑みを浮かべ、彼はもう一度私を見上げた。
彼の愛の形を壊したい。
彼が間違っているかなんてまだ幼い私には断言できない。でも、私は彼と出会ってしまった。彼を恋してしまった。
無理を承知で、でも彼の視界に本当に入りたい。彼の心を手に入れたい。
もうたくさん。美しいだけの夢はいらない。偽りやごまかしと、中身が空っぽな快楽ばかりが蔓延してる現実もうんざり。
私が本当に欲しいのは"真実"だけ。私にとってのそれは今、この森の中の、時間を止められた館の主、彼へのこの恋心そのものの中にある。
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