第3話 ルビイ

窓を開け、冬空の月を見るのが好きだ。

住み込みの世話人の女性は「風邪をひくから」とうるさく言うが、しんと澄んだ空気の中で見る月は心に染みる。月は、時が確実に刻まれていることを教えてくれる。

久遠がいるあの館の窓からは、月は見えるのだろうか?


「うおん」

私が言葉を失って初めて、本気で取り戻そうとしたのは、吸血鬼の少年、久遠の名だった。

「そんなに焦る必要などないのに」

久遠は無関心そうに言いながら、文机の上の分厚い本のページをめくっている。彼の真っ白いセーターに、カーテン越しの光がオーラのように反射している。

だって、少しでも早く、対等に久遠と話がしたいから。

「対等に・・・か。くだらないことを気にするんだな。君は余程自分が嫌いなんだね」

好きになんてなれるわけないじゃない。『自分を好き』だなんて思える人の気がしれないわ。私は右手で真っ黒い癖毛の髪を、左手で骨太の肩を撫でた。年齢の割に小柄な体も、そのくせ妙に老成してしまった可愛げのない性根も、全身がコンプレックスの固まりだ。

「ばかだね。生きている人間という存在がどれほど美しいか、わからないなんて」

あなたが言っても説得力ない。あなたの理屈では人間はみんな美しいということになるもの。

「きみは、クロワゾンと同じくらい美しいよ」

苦笑する久遠。

そういえば、クロワゾンとクロアサン(三日月)はよく似ている。

「クロワゾンの名は月からとったんじゃないよ。羽をよく見てご覧」

久遠が指を高く上げ、その指先にクロワゾンが停まる

「羽のもように輪郭があって、これは脈というんだけど、その中に七色の鱗粉が付着しているだろう? こういう、金属の鱗粉に虹色のガラスを焼きつけた『クロワゾン(七宝焼)』というキラキラとしたそれは美しい焼き物があるんだ」

そう説明し終えると、小さくため息をついて独り言のように呟いた。

「三日月・・・月は見たことがないな。この館に来てからは、ここでは空はいつも曇ってる」

そして、いつものようにそっとクロワゾンの細い胴に犬歯を立てた。


彼の家の裏庭を、一度だけ見たことがある。

そこは十字架の林立する奇怪な空間。少し歩いてある物を発見しぎょっとして立ち止まった。十字架の合間から、何かの獣の黒く干からびた前脚の一本が空をうかむように伸びている。

ここは彼の"獲物"の墓地だ。彼は自分の渇きを満たす為に声明を奪ってしまった獣たちをここに葬り続けていたのだ。血を吸われた獣はこうしてミイラ化して死んでしまうのだ。

私はその時初めて、彼の吸血鬼としてのおぞましい宿命と、それでも失うことのできなかった人間くさい優しさを思い知り、胸が詰まって吐き気を覚えた。

・・・しかし、私はあの孤独な吸血鬼と友人になることに決めたのだ。逃げはしない。彼が恋人の為に選んだ宿命ゆえの果てない孤独から逃げなかったように。


不思議な家。澄んでいるのは久遠一人なのに、どう見てもひと家族は住んでいてもおかしくないつくりだ。どの部屋にも窓はあるし、二階にもちょっとしたテラスがある。しかし、彼がほぼ一日中を過ごす書斎兼寝室の出窓と、入口のドア意外はびっしりと時計草の蔓に覆い隠されてしまっているのだ。

「昔、僕が人間だった時に愛していた人の家とそっくり同じつくりなんだ。どういう訳か、ね」

人間だった時期があったの? いったいいつから吸血鬼になったの?

「忘れてしまった。ずっとここで独りでいたから。ただこの書斎の大量の本を読み切れていない程度の昔、だな」

どうして、誰にも会えない、こんなところに独り封じられているの? ただ独りで・・・恋しい人に会えないこの世界で生き続けるなんて、寂しくないの?

「全然。だって、彼女はここにいるんだ。この僕の身体の中で。彼女の血は僕の血と溶け合って脈打っているんだ。僕は彼女の血を飲んで、吸血鬼になった」

いとおしげに胸を押さえてそう言う。


訊くんじゃなかった。この時以来、私は彼の過去の恋人、ルビイの思い出を繰り返し繰り返し聞かされることになるのだ。


「ルビイは溌溂(はつらつ)とした少女だった。少なくとも『自分が大好き』な類の女の子。

好きなものがいっぱいあって、自分の好奇心に忠実で、物凄く行動力のある人で、出会う人みんなを大好きになってしまうし、誰からも好かれる

曲がったことが嫌いで、不条理なことには激怒するクセに、問題が解決するとケロッと忘れて笑ってた。罪を憎んで人を憎まない、本当にサバサバした子で。

将来なりたいものなんて決めてないけど、絶対幸せになれる!ってしか信じていない。その日その日を一生懸命楽しんで生きてた」

まるで目の前にいる姿に語りかけるような、優しい目。

「・・・ねぇ、みもざ。そんな人間でも、ある日突然、死を迎えるんだ」

私の名を呼びながら、私を通して遠い時間を見ている。

「・・・彼女と僕は小さな言い争いをした。原因は些細なことだった。勢いでその日はケンカ別れして、でも次の日冷静になって考えたらどうしても仲直りしたくなって、いつもの店で待ち合わせようと呼び出した。もともと遅刻魔の彼女だったから多少遅れていても気にならなかった。

二杯目の紅茶が冷めた頃には、そういえば電話の彼女の声は不機嫌だったし、もしかしたら来ないつもりなんじゃないかと心配になり始めた。

今回は根が深いぞ。どうやって機嫌を取ろう? とりあえずもう一度話す機会を作らなくちゃ・・・いろんなことを考えながら、三杯目の紅茶を飲み干して、家に帰って、彼女の妹から連絡が入っていたことを知った。

ルビイは待ち合わせの場所に向かう途中の交差点を横切ろうとして、近付いてきた車に気づかずに撥ねられ、重傷を負った。急いで病院に駆けつけたけど、もう危篤状態で。

彼女は生きていたいと言った。まだ死にたくないと、声にならない声で、僕の耳元で叫んだ。最期に瞼を閉じたあの瞬間、涙が一筋、頬を伝った。

病室から出て、ドア越しに聞こえてくる彼女の号泣を聞きながら、廊下のソファに身体を沈めた。顔を膝につけて、拳を固く握り締めて、声に出さずに涙を流して。

僕のせいだ。あの時ケンカなんかしなければ。彼女は僕を仲直りするために、僕に一刻も早く会う為に。急いで駆けて来て、車の前に飛び出した。

・・・繰り返し、繰り返し、自分を責め続けた。

どのくらいの時間が過ぎただろう。遠くから、靴音が近付いてきた。白衣の男が目の前に立っていた。赤い液体が入ったワイングラスを右手に。

『彼女を死なせたくないか?』

低い・・・何というか、足元の板張りの廊下さえ震わせるような、深い声。その声を聞いた瞬間、骨まで凍るほど寒くなって、身体が動かなかった。やっと首だけでうなずくと『これを飲みなさい』と彼はグラスを僕の目の前に付きつけた。ワインよりもとろりとした液体が月明かりに揺れて光っている。

『これは彼女の血だ。これを飲むことによって、彼女にお前の、人間としての魂を与えることができる。そして、お前はこの世の人間ではなく、吸血鬼になる。もちろん会うことは許されない。お前は彼女の代わりにこの世界では死んだことになる。一つの魂を持つものが同じ世界に二人存在することはできないから。・・・そうなれば、お前は家族も友人も、お前が今まで作り上げてきた過去もすべて失うことになる。しかし、彼女は寿命が尽きるまで、今後病気や災難からも守られる。さぁ、どちらを選ぶ?』

僕は、迷わず、手を差し出した。それでも指先は震えて何度もワイングラスの足を滑った。両手でやっとグラスを取り、ルビイの血を一息に飲み干した。生ぬるい、鉄の味がする液体が喉を滑り降りていくのを感じながらそのまま気が遠くなって、廊下に倒れた。冷たい床板の上で、ガラス窓越しに見上げた夜空に霞んでいく満月が、僕が最後に見た月だった。

・・・目を覚ましたら、この森の館の、この部屋に倒れていた」


「彼女が死んでしまうよりは、例え会うことが出来なくても生きていてくれる方がずっといい。そう、思ったんだ。それに、どんな形であっても、彼女は僕のこの身体の中にいる。彼女の血が僕の中で脈打つ度、どこかで生きて幸せに暮らしているだろう彼女を、感じるんだ」

そんな、こともなげに話すけど、そんなにも彼女が好きだったの?惜しげなく自分を投げ出してしまえる程。

「この館の窓からは月は見えない。この館は時流からも封じられている。でも今も、あの、最後に見た月が、心の中で光ってる」

そうやって、時計草に封印された館で、少年の姿のまま、数えきれない時間を過去の恋の思い出に埋もれて暮らしてきたの?


夕暮れ時の淡い金色の光の中で、彼の繰り返される思い出話を聞くひとときが愛しい。それは美しいけれど、胸が痛く悲しい気持ちになる風景。


「く、おん」

私が最初に取り戻した言葉は、過去の夢に自分を封じて生きている、かつて人であった"人でなし"の名前であった。どんなにその名を呼んでも、彼の心の底までは届かない。

この、息が詰まるような、目の奥がきゅっとなるような感情は?

「く、おん、わ、た、し、あ、な、た、が、す、き、に、なっ・・・た」

十三歳の、初めての恋が、こんなつらい形で始まるなんて。

「ありがとう」

彼は、少しも驚きもせず、優しいだけの笑顔でそう言った。

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