原初の種火
肩を揺すられ、頬を叩かれる。
「生きているぞ」
「おい、起きろ。おい」
目を覚ますと、マスクをつけた二人の人間が心配そうに俺を見つめていた。戦闘用ヘルメットとプロテクターは見覚えのあるもので、日雇い労働者側の人間だということが分かる。
正門でも裏門でもない場所に配置された奴が、心配で持ち場を離れて様子を見に来たのだろうか。
意識がはっきりしてくると、全身に鋭い痛みが走った。
「無理して動くな、裂傷が酷い」
全身に細かい裂傷が出来ているようで、皮膚はどこも引きつったように痛く、固まっている。どこかを動かせばたちまちその場所から鮮血が滲むような痛みだった。
「周りに……敵は?」
両腕で覆っていたからか、顔にそれほど酷い裂傷はない。口が動くのは幸いだ。
「敵?正門が突破されて敵方はおよそほとんどが内部に突入しているらしい。それに従って警備兵もあの施設内に防衛を移した。作戦は失敗だよ」
「そうか……」
銃撃によって引き裂かれた俺のプロテクターを、会話に参加していない方の男が脱がしていく。
「酷いなこれは……」
「M416で撃たれた」
「M416って、味方のか!?」
動揺する二人に経緯を説明した。裏門から現れた敵のこと、チャーリーと名乗った男が敵側だったこと、敵は最近巷を賑わせているテロ集団であること……。
「マジかよ」
「原初の種火、って言葉は聞いたことがある」
世相に疎い日雇い労働者でさえ耳にしたことがある言葉だ。彼らが本格的にテロに走ったとあれば、一介の素人が防衛など出来るはずもない。
「ハラール99パーセントで助かったよ、弾倉まるまる二つ分の銃撃を受けて全身の裂傷で済んでいる」
プロテクターの残骸を見れば戦慄するしかない。ボロ布のようになっている。奇跡的に残っていたタグに書かれるハラールは83パーセントと表示されていて、それも俺の顔を青ざめさせた。
片方が上着を脱いでボロボロの俺にプロテクターを提供してくれた。下着になってまで衣服を提供する男に感謝を伝えるとともに、現状について尋ねる。
片方が首を横にふった。
「知らん。敵が最終防衛ラインを突破し、警備兵が施設内に入ってから、レイヤーに表示される指示は『待機』の二文字だけだ」
被っていた戦闘用ヘルメットを手渡され、それを被る。コメントログは流れておらず、代わりに「待機」の二文字が赤く明滅を繰り返している。
「俺たちは運よく生き残った。待機と書かれてはいるが、戦闘が内部に移行しているのならば、生存者がいないか確認すべきだと思った」
助けられる命は助けたい、と男は言った。
「殊勝な考え方だな」
「人間として当然だろ」
なぜこんな男が日雇い労働者などをやっているのか。疑問はあったが、今は単純にその優しさがありがたかった。
携帯医薬品はなく、四肢と背中の裂傷は熱をもっていた。そのまま安静にして時間が来るのを待っている方が賢明である。しかし、この二人の男の使命感に感化された俺は、同時にチャーリーが裏切った時の最後の光景を思い出していた。
「内部に、入る」
「施設内にか!?バカを言え、そんな体で何ができる」
「俺は今回のテロに参加している奴の一人と面識があった……」
もったいつけて言うが、真偽は半々だ。遥と呼ばれた人間がおり、その人間が俺の知っている人間かどうかを彼女に分かる符牒で問いかけ、その人間の気配は俺の言葉と同時に立ち止まった。それだけのことだ。
「実行犯ではなく、安全が確認されてから内部に入るよう命令されていた」
「それがお前と何の関係があるんだよ」
商売としての肉体関係、と言ってしまえばそれだけだ。彼女が本当に俺の知っている遥かどうかも分からない。しかし、日雇い労働者として共に戦場に立ったというだけで俺を助けてくれた男二人を前にして、「それだけ」という言葉の意味が強いつながりを意識させずにはいられなかった。
人間には抗えない大きな流れを運命と言うのならば、俺はいまこそそれに身を委ねるべきだと思った。オカルトと言われようと構わない。
「それだけの関係だ」
「それだけ?何を言っているんだ」
傷だらけの膝に手をかけて立ち上がり、鉄格子の破壊された裏門から内部の様子をうかがいつつ、施設内に通じる扉を探した。
監視カメラはモーターの駆動音が聞こえるもののレンズが割れており、カメラとしての機能を果たせる状態ではなかった。
「あーもう、まったく!」
俺にプロテクターを渡した方の男が俺に肩を貸してくれた。
「……いいのか?」
「いいのか、じゃねぇよ!行きたいんだろ!?だったら少しは手伝ってやる!だが危険だと思ったらすぐに引き返すからな!?」
お前も手伝え、と別の男を手招きする。
「あんたら、本当に優しいんだな」
「うるせえ」
肩を貸してくれる男と、周囲を警戒する男に連れられて、俺は施設内に通じる扉を発見した。
「マイニング工場のころと施設構造は変わらないんだな」
内部は大部屋になっており、飲食店のテーブルのように大型の換気扇が天井を向いて並べられている。
「何だこりゃあ?」
驚く男にエアコンの室外機のようなものだと説明すると、男は更に目を白黒させて「なぜ室内に室外機があるんだよ」と頭を悩ませていた。
別の一人が施設内部のクリアリングを行なう。
自動小銃同士の激しい銃撃戦は無かったようだが、そこかしこにハンドガンでの応酬の後が生々しく残っていた。テロリストも警備兵も、等しく傷つき、倒れている。銃撃によって倒れる者の中には、まだ息をしている者もいた。
「まだ生きている」
俺に肩を貸す男は、震えていた。
「……俺のように、助けてやってくれ」
「いいのか?」
人命救助は良いものに決まっている、と俺が言うと、男は少し悩んでいた。
「おい、こっちに意識のあるやつがいる。医療キットがあるらしいぞ」
クリアリングを行なっていた男が言った。
そこで男二人は施設内部の負傷者を助けることにしたらしい。
俺は医療キットから裂傷用の傷薬と包帯を受け取って、怪我の応急処置を行う。男は先に俺の処置を手伝ってくれた。
「トリアージは他の奴の方が優先順位は高いが、お前は何かやりたいことがあるんだろう?このくらいの処置はすぐにできる」
包帯の締め方も堂に入っている。スポーツ医学にでも精通しているのだろうか、などと思っているうちに治療は済み、裂傷による熱は傷薬のおかげでかなりひいた。包帯も人間の関節の動きを損なわず、むしろ補助するかのように伸縮する。
「あんた、優秀なんだな」
「優秀だったら何で日雇い労働者なんてやってるんだよ」
苦々しい、といったような笑みを浮かべる。
ハラールの高さによって差別を受ける者が、この世には存在する。人間の存在の重さは体重でしか計れないと思っている連中。そんな奴らは大抵が金持ちで、金持ちゆえにハラールの低いものを好み、ハラールの低いものにのみ価値を見出す。
「俺は生まれた時からハラールが高かった……それだけさ」
俺の足首に包帯の端を固く結んで、男は立ち上がる。
「俺はカナタだ。あんた、名前は?」
「……マイク、って事にしておいてくれ。向こうの奴はヨークだ」
「マイクとヨークか、ありがとう」
M416を片手に負傷者の様子を見て回るヨークは、こちらの視線に気づいて片手を上げた。
「俺はこれから地下に行く。銃撃戦の音が聞こえないのは、激しい戦闘が既に終わったからだろう。双方にダメージがあり、この場にいる警備員はほとんどが重傷。ヘルメットに待機と流れ続ける状況を鑑みるに、テロリスト側が施設を占拠したと考えて然るべき状況だ。プロトメサイアの戦力を侮ったんだろうな」
テロ集団、プロトメサイア。彼らが何を目的にこんな場所を襲撃しているのかは分からないが、目的を達成する手段と言い切った原初の種火がこの場にあるということは、何かとてつもないことが起きる予感がする。
「気をつけろよ、カナタ」
マイクに見送られて、俺は脳内のマイニング工場の地図に従い地下への階段を探し当て、慎重に下りはじめた。
ハンドガンによる建物への傷跡で感じた疑問は、階段に落ちている銃弾で確信に変わった。
階段は、大きな螺旋を描いてどこまでも続いているように見えた。階段のところどころに倒れる警備兵。容赦のない銃創が、テロリストの残酷さと本気さを表しているようだ。警備兵はもれなく絶命しており、その顔は判別できないほどにぐちゃぐちゃになっている。
死体の近くに落ちていた銃弾を拾い上げる。M416の空気のような銃弾に比べて、それはあまりにも重たかった。コンクリート壁に角度をつけて当たったために跳ね返ったのだろう。鈍色の弾頭は歪になっているが、金属の感触が重量と相まってあまりにもリアルに感じられる。
「これは……テロリスト側の銃弾か」
ハラールの低さは明らかだった。支給された弾丸では、建物内壁を傷つけることすらできない。コンクリートをえぐり、人間の体内を食い破るほどの殺傷能力をもった銃弾……。
本来あるべき力をもった銃弾だ。俺の着るプロテクターなど、いや、もしかしたら気絶する前に被っていたヘルメットであっても役に立たないかもしれない。
地下へ続く螺旋階段を照らす灯りは等間隔に取り付けられた蛍光灯だけだった。一歩一歩、周囲を確かめるように降りる俺の歩調にあわせて、光は蝶の呼吸のように儚く足下を照らしている。
階段を降りるたびに、足音が響く。残響と反響がゆらめく光と相まって、現実感と時間間隔を喪失させていく。裂傷による疲労もまた、それを加速させるのだった。
何体目の死体かを確認するのもすっかり諦めて、俺はひたすらにその螺旋階段を下っていく。マイニング施設が地下深くまで掘削して建てられていることを知ってはいたが、現実にその場を訪れると、その深さは酷く俺を不安にさせた。
エレベータの類がないのは電力を節約するためだと理解していても、設計者には恨み言の一つも言ってやりたくなる。設計者は中国で暗殺されたから、文句を言うにはあの世にいかねばならないのだが。
俺の麻痺した感覚は、ハイウェイヒプノーシスを起こし始める。
等間隔の蛍光灯と螺旋階段、時折現れる低速運転の自動車のような死体。だんだんと、階段を上っているのか下りているのかの感覚さえもあやふやになって、ただ足を進むべき方向へ進めている、という無根拠な確信だけが俺をぎりぎりのところで動かしていた。
ふと、頬をひんやりとした風が撫でていった。それまでの生温く、カビ臭い空気とは別の、機械によって浄化された独特の臭いがする空気。我に返って顔を上げると、目に汗が入った。
「ッ……」
包帯のまかれた手の甲で目元を拭うと、霧がかかっていた意識が戻ってくる。いつの間にか額にはべっとりと汗が滲んでおり、手首でそれを拭うと、階段の先に蛍光灯とは違う青色の灯りが見えた。
どうやらそこが階段の終点、最下層のようだ。
自分の足音がやけに大きく聞こえる。緊張しているのが分かる。同時に、自分が今まで無自覚に足音を鳴らしながらここまで下りてきたことにも気づかされた。
階段を少し上って警備兵の死体を探す。見つけた死体から上着を拝借し、改めて死体を脇に寄せた。わずかに合掌し、再びゆっくりと階段を下りる。
螺旋階段の終点は、小さな広場になっており、奥の部屋へ通じる廊下から青い光がさしているのが分かった。部屋の中が死角になっているのは、おそらく階段から直接部屋の内部が見えるような構造だと警備上問題があるからだ。
壁際によって廊下へにじり寄り、先ほど拝借した警備兵の上着の端を、少しだけ廊下の奥にある部屋から見えるようにはみ出させる。
銃声。
銃弾は上着を貫通し、階段広場の壁に突き刺さった。これがハラールの高い銃弾だったならば、そもそも警備兵の上着を貫通しない。
部屋にいるのはテロリストで決まりだ。
この場はマイニングマシンの都合上、電波が届かない。テロリストが増援を求めるのであれば地上で行っておくしかなく、遅れてやってきた足音に対して容赦なく発砲できない。
もし警備兵だとしたら、自身の防弾ベストを貫通してしまう銃弾を所持していることになる。そんな馬鹿な話はない。
「そこに誰がいるのかは知らないが、引き返せ。さもなくば容赦はしない」
チャーリーの声だった。途切れ途切れの言葉は、演技なのか、それともどこかに怪我を負ったからか。
なぜわざわざ警告を出した?相手はテロリスト。既に何人もの警備兵を殺し、また仲間も大勢殺されている。地上の施設にも、地下へと続く螺旋階段にも、確かに警備兵とは違う装備の死体があった。
それに、先ほどの警備兵の上着に対する容赦のない銃撃。何度でも同じようにすれば、その場に釘付けにできることは明らかだ。だとしたら、それが出来ない理由がある。
「チャーリー、お前のハンドガンに銃弾は何発残っている?」
言葉と同時に上着を通路に向かって投げた。
容赦のない発砲が二発続いて、上着の落ちる音。
発砲音の残響が、螺旋階段を音速で駆け登っていく。
「キングか……。残念だが、銃弾はあと一発あるぞ」
ここから先は、賭けだ。
先ほどの二発の銃弾が、チャーリーのどのような心の作用によるものか。容赦のなさか、それとも確実な死か。チャーリーのハンドガンに銃弾が残っていれば俺は撃たれて死ぬ。だからと言って同じように着ているプロテクターを脱いで投げたところで、向こうはもう誘いには乗らないだろう。
もとより俺の手元のカードは、相手に姿を見せる以外になかった。あとは、どのようにカードを場に出すか、だ。
「プロトメサイア。お前たちは何を目的でこの施設を襲撃したんだ」
駆け引きのための言葉は、隙を見出すため。
「世界を、あるべき姿に戻すためだよ」
「あるべき姿……?」
「我々プロトメサイアは、情報重に支配される人間に存在の重さを思い出させるために生まれた組織だ。その目的はただ一つ。情報重を生み出し支配する『龍脈』と呼ばれるエネルギー、その龍脈を生み出し続ける『龍脈の一穴』を破壊すること」
「まさか……」
「情報重は、人間の作りだした幻だ。コンピュータによる膨大な演算によって神を欺き、龍脈を用いて世界中に情報重があたかも存在しているかのように錯覚させる。神の目をも欺く陽炎、それが情報重の正体だ」
だとしたら、プロトメサイアのやろうとしていることは……。
「我々は神を欺く人間の所業に鉄槌を下すために存在する。陽炎を作りだすエネルギーに、別のエネルギーを与えて破壊し、幻をぶち壊す」
「それが原初の種火か」
しかし、気にかかることがある。
なぜチャーリーはわざわざ丁寧に講釈を垂れるのか。無知蒙昧な一般人に情報重のもつ原罪を敷衍するため?人類悪たる情報重という存在に目を向けない者たちに真実を伝えるという正義感のため?
この場面でわざわざそんな話をしなければならない理由は何だ?
違う……!
俺は奥へと続く廊下にその身を晒した。十数メートルの先では、チャーリーが脇腹を押さえて奥の部屋に通じる扉の前に立っている。ハンドガンはこちらに向けられていなかった。
わざわざチャーリーが長話をした理由。それは、時間稼ぎだ。彼もまた、自分の命をベットして、賭けを行なっていた。そして俺はそれに乗せられたのだ。
原初の種火を使用するには何らかの手続きが必要で、それは恐らく他の仲間がやっている。チャーリーはここで見張りをしていたのだ。わずかばかりの銃弾と、いざとなったら差し違える覚悟とを武器に。
「あああああ!」
叫びながらチャーリーに駆けていく。プロテクターの襟元に手を突っ込むと、チャーリーが動揺して腰を下ろし体勢を低くした。俺が懐から拳銃を取り出そうとしていると思って警戒したのだろう。それこそが俺の狙いだった。
体勢を低くしたチャーリーに肩から突進する。
チャーリーは軽かった。体重が32キログラムしかない俺でも簡単に吹き飛ばせるくらいに。俺の突進にチャーリーは大きくバランスを崩して、俺はさらに体重をかけてチャーリーに馬乗りになる。
その拍子にチャーリーの手から先ほどまで使っていただろうハンドガンが落ちた。幸運だった。ハラールの低い弾丸を扱うハンドガンが弾丸よりもハラールが高いはずがなく、ハンドガン本体の銃床で殴られれば、その一撃は厳しい。
先手必勝。俺はチャーリーの襟首をつかんで、体を床に叩きつける。チャーリーは肩甲骨と同時に後頭部も強か打って、一瞬、気絶したかのように白目をむいた。
「チャーリー!」
俺の叫びに反応して意識が戻る。抵抗が無意味であることを察したチャーリーは、ただ弱々しく笑うだけだった。
「さっきの話は本当か!?情報重が無くなるってのがどういうことか、お前は分かってるのか!?」
「本当だよ、キング。情報重はなくなる。見かけ倒しの世界は終わるんだ……」
例えそれが時間稼ぎだったとしても、言わずにはいられなかった。
「情報重が無くなった後のことを考えたことがあるのか!?」
チャーリーは、がっしりとした体型をしている。それなのに、32キログラムの俺にあっさりと倒されるくらいに軽い。ハラールの高さは歴然だ。
「ハハハ……考えたこともないな。情報重が存在しない世界には、俺は存在できない。分かっただろ?俺のハラールの高さを」
なぜだ?
「なぜハラールの高いお前が、わざわざ自殺するようなテロに加担するんだ……」
答えは初めから分かっていた。
チャーリーは、己のハラールの高さから来る差別にうんざりしていたのだろう。生まれつきハラールの高い人間という存在は、情報重という概念が生まれてしばらくしてから現れた。
ハラールは遺伝する。
どうすることもできない差別に苛まれて生きるくらいなら、こんな世界、壊れてしまえばいい。そう思ったのかも知れない。
それはきっと、遥もそうだったのだ。
突然、俺の中にふつふつと怒りが湧き出てきた。
「何で、情報重を破壊する者が、情報重に苦しむ者でなければならないんだ……!」
「いいんだよ、キング。俺はどうでもいい。自分が憎む情報重を、原初の種火で燃やし尽くせるのなら、俺はそれ以外どうでもいいんだ」
「バカを言うな!差別を助長する人間は、ほとんどがハラールの低い人間だ!差別を助長する人間によって差別され、今また差別によって殺されようとするのか!?」
「キングは……優しいんだな」
反論しようとしたところで、突然酷い頭痛に襲われた。それはどうやら下敷きにしているチャーリーも同じようで、眉間にしわを寄せて歯を食いしばっている。俺よりも痛みの度合いは高いように思われた。
「始まったな」
口元を歪ませて、邪悪に笑うチャーリー。ギリギリと脳が両脇から締めつけられるような感覚に襲われながら立ち上がろうとする俺の腕が掴まれる。
その力は、蝋燭の最後の一燃えのように力強かった。
「もう、行ったところで無駄だ」
「それなら俺の腕を掴んでいるのはなぜだ?」
「お人好しなのに、気づくところは気づく。それがアンタの悪徳だよ、キング」
振りほどこうにも、頭痛が酷くて振りほどけない。チャーリーの方が激しい痛みにこらえている様子だというのに。
「俺の力なんて、すぐに無くなるさ。俺という存在がいかに軽いのか、見届けてから奥に行けよ」
話している間にも、チャーリーの腕力はどんどん弱くなる。痛みに抵抗できるだけの体重がない、という状態をどう想像できようか。しかし目の前で力を失っていくチャーリーの様子はそう説明するほかなく、俺の腕を掴む指先はやがて風船ほどの力もなくなってしまう。
ほとんど気絶しているチャーリーの指先をはがして、俺は奥の部屋へと進んだ。
体が異常に重い。情報重という陽炎を暴く原初の種火は、既に役目を果たしつつある。そうとしか思えない程の身体の不調に、ほんの数メートル先の部屋が異常に遠く感じられた。
ドアに手をかけて、もたれかかるようにして開けると、全身を冷気が包んだ。目の前には、巨大なサーバーラックを思わせる演算機が低木のように林立している。ドアからまっすぐに伸びる通路の最奥に、人が一人倒れていた。
「遥……?」
体をジリジリとひきずって、人影に近づく。稼働する演算機は、基盤に取り付けられた発光ダイオードランプの筐体からはみ出たものと、有線LANケーブルの通信を表すランプがチカチカと点滅し、足元を照らす青色の光にあいまって夜空を漂っているようにさえ感じられる。
「遥、気を失っているのか?」
ゆっくりと倒れ込むように床に這いつくばり、横たわる人影の正体を確認すると、それは確かに遥だった。
遥は俺の言葉に反応するようにゆっくり目を開くと、弱々しく、しかし何かを成し遂げた自信の炎が宿る瞳をこちらへ向けた。
「奏太……やっぱり、あなただったのね」
遥は胎児のように体を丸めて微動だにしない。俺も体の重さに耐えかねて、ついに膝を折りゆっくりと床の上に崩れた。埃まみれのカーペットが汗のにじんだ肌にはりつく。
「原初の種火は、陽炎を焼き始めたわ……これで世界は、浄化、される……」
室内に遥の姿しかないということは、遥の手によってこの演算機に何らかのウィルスが仕込まれたのだろうか。
「なぜそんなことを……」
聞いても詮無いことだ。彼女もまた、己のハラールの高さに恨みをもっていたのだろう。それでも、聞かずにはいられなかった。
遥は、肉体の苦痛に耐えながら微笑んでいた。呼吸をしているのかどうかも怪しかったが、口がわずかに動くのを発見し、安堵する。
彼女は、濡れた脱脂綿を含むように口を動かしながら言った。
「私はね……世界を正したかったの。正しい世界で、醜い私を晒して死にたい。どうかしら?私の姿は正しく醜いかしら?」
俺の目に映る遥は、俺が出会ったそのままの姿だった。情報重がどのように演算機のなかで処理されているのかは分からないが、影響があるのは体の異常ばかりで、容姿その他には何もブレがない。
「なぜ……!どうして何も変わっていないの……!私は、確かに原初の種火を龍脈に注いだのに……!」
彼女の目から涙が一筋、頬を伝った。
遥は気絶し、演算機はランプの明滅を繰り返す。何かを激しく処理している。空調の音がゴウンゴウンと上空を舞い、冷えた空気が容赦なく体温を奪っていく。遥が体を縮こませる。ゆっくりと寄り添って、抱きしめる。
空気の入った風船のような彼女の体は、温かく、今にも割れそうだ。
遥はいつまでも遥の姿のままで、俺は頭痛に耐え切れなくなってそっと目を閉じた。
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