潮騒と濡れた髪
14.コーディネートは大人
AM9時。
目覚ましの音で目を覚ました。
いつものことだが、少しだけ頭が痛い。
春は起きているだろうか。
春の部屋の壁を2回小さくトン、トン、と叩いてみた。
ズズズズズ、とまるで壁を引っ掻いているような、恐ろしい音が聞こえた。僕が驚いて壁を見ていると、すぐにケタケタと、春の笑い声が聞こえてきた。完全に僕をからかって遊んでいる。
顔を洗ってヒゲを剃り、髪を整える。
今日はお出かけなので、少しお洒落を意識した。
部屋のでる前の一服中、唐突にズズズズズ、とまたしても引っ掻き音が聞こえて僕は再び驚いた。
壁の向こうでは手を叩く音と笑い声がする。
すぐにベランダから春の声がした。
「あはははは!おはよう!」
春がベランダの穴から顔を出して笑っている。
「お前、めっちゃビックリするからやめろ!おはよう。準備できた?」
「うん。一服したら行く。」
「ん、俺も。」
ベランダで会話をしてから別々の部屋を通過して再び玄関先で落ち合うのは、なかなかおかしな感覚だった。春と並んで歩いてるのも変な感じだった。春もだろうか。僕だけだろうか。
春はグレーの、ケーブル編みのロングニットカーディガンをだぼっと羽織り小さな茶色のバッグを肩から下げている。色落ちしたスキニーデニムがスタイルの良さを醸し出し、ドアに春の足首ごと食べられていた紺色のスニーカーもそこにあった。シンプルながら大人っぽく、春の良さを邪魔しない素敵なコーディネートだと思った。
「朝から元気だね。何時に起きた?」
「8時半くらいかな。頭痛かったよ。」
「僕も。普段だったらそのまま昼まで寝てたな。」
「今日はまったりすることに全力を注ぐからね!」
「なんか矛盾してる感、あるね。」
「お姉さんが本気のまったりを教えてあげよう。」
急に歳上であることを主張されても、ピンと来なかった。
そうこうしてるうちに春の案内のもと、一軒の小さなカフェへたどり着いた。僕らのマンションから歩いて10分も経たないくらいの距離にあった。以外と近かった。駐車場の看板に『Smile coffee』と書いてある。
「Smile?」
「そそ。マスターが知り合いでいい人だよ。コーヒーもこだわってて美味しいし。」
「へー。最近ちゃんとしたコーヒー飲んでないから楽しみ。」
春がそそくさと店内へ入っていった。僕も後をついて行く。
「いらっしゃいませ…なんだ春ちゃんか。」
カウンターの奥で、春より少し歳上くらいの女性がタバコを吸って立っていた。ウェーブのかかった長い黒髪に、赤いバンダナがよく似合っていた。カッコイイ女性だな、と思った。
「なんだって何よ。これ、裕也くん。」
春が僕を指さした。店員さんと目が合う。
「あぁ、貴方が裕也くんね。春ちゃんからいろいろ聞いてるよ。春を介抱してくれたんだってね。ありがとね。」
「あ、いえいえ。」
僕は春の顔を見て尋ねる。
「なんの話したの?」
「いや、いろいろと…ちょっと待っててね!」
春はそう言うと店員さんを連れて奥に引っ込んだ。
何やらヒソヒソ話し声が聞こえるが、内容まではわからなかった。
店員さんの大きな笑い声と、春の怒ったような声が聞こえてきた。何の話をしているのだろうか。
2人が帰ってきて、僕らはカウンターに案内された。
「あー笑った。いらっしゃい、何飲む?」
店員さんは目に涙を溜めている。よほど面白いことがあったのだろう。
「もう!笑わないでよ、大変だったんだからね!私カフェラテ。裕也くんどうする?」
「僕ホットお願いします。なんの話してたの?」
「こっちの話!もう…!」
春が珍しく怒っている。春のむくれた顔がだんだん面白く見えてくる。
「あ、裕也くん。」
店員さんに声をかけられた。
「ウチ、コーヒーの抽出方法が選べてさ。フレンチプレスってのとエアロプレスってのがあるんだ。違い、わかる?」
フレンチプレス?エアロプレス?抽出方法で何が違うのだろうか。
「すいません、全然わからないです。」
「じゃあフレンチプレスで出すね。味わって飲んでみな。」
「ありがとうございます。」
春の方を見た。まだ少し唇を尖らせて、むくれているようだった。
僕は5秒ほどその顔を見つめて、我慢ができずに笑ってしまった。
「え?なになに?」
春は見られていることに気づいていなかったようだ。
「ごめんごめん、むくれてんなーって思ってさ。」
「もう!面白くないよ!」
春が「もう!」と言うたびに面白い。まるで子供のようだった。
「そうだね。そうだね、ごめんね。ははは。」
「また笑ってるじゃん!もー…。」
春はそう言ってタバコに火を着けた。
僕もつられてタバコを取り出し火を着ける。
店内が少し煙たくなったような気がしたが、店内には僕らしかいないので大丈夫だろう。
「はいお待たせ。カフェラテとー…。」
春の前にモコモコのミルクフォームが乗ったカフェラテが置かれた。
「わーありがとう!」
春が嬉しそうだ。よかった。
「これ、セットのサンドイッチね。それとー…こちら、ホットね。」
僕の前に、
「見ててね。」
店員さんがそう言うと、長い棒をゆっくりと押し込んだ。
その棒の先に取り付けられた器具で筒の中のコーヒー粉が押し下げられる。その器具の網目から、コーヒーの液体だけが通り抜け、よく見るコーヒーの色になった。なるほど。力を加えてコーヒーの成分を出すのか。
抽出し終えたコーヒーをカップに注ぎ、僕の前にカップをゆっくり押し出した。
「はい、お待たせ。」
そう言ってタバコに火を着ける。クールだ、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます