10.サファリングとおすそ分け
僕はパソコンと向かい合い、任された書類をまとめていた。
先程コンビニで買ってきたコーヒーとタバコをお供に、黙々と作業を進めていく。
コンビニ。春を思い出した。
まさか近所で働いていたとは。春はバイト、と言っていた。
フリーターなのだろうか。掛け持ちで仕事をしているのだろうか。もしかしたら旦那さんがいるのかもしれない。あの部屋に?それはないか。
黙々と作業を進めていく。
やめよう。
この頃、春のことをよく考えるようになった。
なんでもない隣人のことを。度々考える。
恋ではない。それは言える。
ただ自分が女性のことを度々考えていると言う事が気持ち悪かった。気持ち悪くて、恐ろしかった。自分のような者が。
黙々と作業を進めていく。
ただ、春の絵のことは気になった。
春は絵で生計を立てたいのだろうか。趣味で描いているのだろうか。
僕は絵の世界に関しては無知なのだが、町にギャラリーがあることは知っている。そう言う場所では定期的に個展などが開かれる。春の絵も展示される機会があるのだろうか。だとしたら、僕は見たい。見てみたい。春の世界を。あのやたら元気な酒飲みが、どんな世界を見ているのか。
黙々と作業を進めていく。
そこそこの時間が経っていた。
もうキリがつく。
少しだけ、昔のことが頭をよぎった。
僕は昔から自宅に仕事を持ち帰っていた。昔と言ってもほんの2、3年前の事だが。この部屋に住み始めてから、そうしていた。早く帰りたかった。
今も早く帰りたいからそうしているのだが、今とは訳も性質も違っていた。
今日の分の仕事が片付いた。
胸が痛い。辛い。
幸せだった。だった。
手放した。手を離した。
幸せに安堵していた。その崩壊はいつだって、誰にだって起こりうるものだった。僕は当たり前のそんなことを忘れていた。笑っていた。
だから、失った。
何も無い、空虚な胸に孤独が広がる。
孤独の闇の中、僕はパソコンの前に座っている。
何もせず、座ってる。何もできず、座っている。
コンッと窓に何かが当たった音がした。
なんだ?
僕はパソコンから離れ、ベランダに出た。
「やっほー。裕也くんいないと暇なんだけど。」
春がいつもの左端から顔を出していた。その手には大きなハニーローストナッツの缶を持っている。ベランダの床にもナッツが転がっていた。
春が手にした缶を振りながら、元気な口調で言った。
「店長から貰っちゃった。ハニーローストナッツ!めっちゃ入ってるよ!甘塩っぱいのはお好き?おすそ分けしようか?」
僕は、救われた気がした。
胸の痛みが、ふわっと消えた。
「え、裕也くん、なんか元気ない?大丈夫?」
ハニーローストナッツの缶が引っ込む。
「大丈夫だよ。ありがとう。」
このありがとうは『気を使ってくれて』の意味ではなかった。
『助けてくれて、ありがとう。』
「ハニーローストナッツ、いただこうかな。ウイスキー持ってくる。」
春の顔がパッと明るくなる。
「いいね!飲もう飲もう!」
責任に囚われた、その苦しさから、今だけでも。
僕を救ってくれて、ありがとう。
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