08.シャンプーと夜風


今日は20時過ぎにベランダに出た。

しっかりとお酒が欲しい気分だったので、今日はウイスキーも持ってきた。

おつまみはチーズと、塩コショウで味付けしたベーコンステーキ。細く切り分けて爪楊枝も準備した。


椅子を引く際、ズズズっと引きずる音が出た。

その音に反応するかのように、左の部屋の窓が開く音が聞こえた。


「お疲れさん。今日早いね。」

春がひょこっとのぞき込むように顔を出しながら、話しかけて来た。飼い主の帰宅に駆けつける犬みたいだな、と思った。

「うん。早めに仕事片付けれたから。」

「お勤めご苦労様ですな。」

春は缶ビールを片手にベランダの柵から身を乗り出し、おちゃらけたように言った。

「その姿勢疲れないの?」

「こうしないとお話できないじゃん。」

少し返しに困った。まだ夜は冷えるこの時期に、わざわざベランダに出てきてまで僕と話す意味はなんなのだろうか。

「…そっちも椅子、持ってきたら?」

なんとなく、聞くことを躊躇った。

「2人とも座ったら顔見えないじゃん。」

「うん…まぁそうだけどさ。」

「けど裕也くん、話す時あんまり顔見てくれないよね。」

ハッとした。

実際、僕は人の目を見るのが苦手だ。

いつだったか、1度それで恋人を怒らせたことがある。

一瞬蘇った記憶をしまい込み、僕は否定した。

「そんなことないよ、見てるよ。」

「嘘だぁ。」

「気のせいだよ。」

彼女の目を見てそう言った。


彼女の顔をしっかりと見たのは初めてかも知れない。

彼女は整った顔立ちをしていた。

柔和な雰囲気を漂わせる少しだけ垂れた目元に吸い込まれそうな大きな瞳、しっかりと通った鼻筋。

小さいながらも唇は少しだけ厚めで、セクシーさを感じた。

明るい茶色に染まったセミロングの髪に、ふんわりとかかったパーマが可愛らしいかった。

素直に可愛いな、と思った。

少しだけ恥ずかしい気持ちになった。

そんな僕の気持ちを察してか、春は笑いながら言った。

「私可愛いでしょ?」

「それ、自分で言う?」

「顔しっかり見てドキッとしたくせに。」

「してない。」

嘘だ。

僕はタバコに逃げた。

「あ、私もタバコ。」

春がバタバタと部屋に戻って行った。

少しだけほっとした。


掃除が苦手、おしゃべり、絵描き、美人。

僕の中で彼女の情報が更新されていく度に、彼女は謎めいた存在になる。


バタバタと音を立て、春が帰ってきた。この音は部屋のゴミをかき分ける音なのだろうか。

「ごめん、火ぃ貸してもらえない?ライターどっか行っちゃった、はは。」

「あぁ…部屋が散らかり放題だからなくしちゃうんじゃない?」

冗談混じりに言ってみた。

「大きなお世話だ!」

笑いながら怒られた。

立ち上がり、春に近づいた。

「ん。着けて。」

春は両腕をベランダの柵に引っ掛けながら、加えたタバコをこちらに向けた。

もう少しおしとやかでもいいんじゃないかと思いながらも、雑な仕草が逆に可愛らしかった。

「はいはい。どーぞ。」

片手でライターを風から守り、火を着ける。

春の加えたタバコの先端が、夜の闇の中で赤く光る。

「ん。ありがとう。」

「あいあい。少しは掃除しなさい。」

「その時が来たらするよ。」

春は煙を吐きながら言った。宙を舞った煙が風に流されて消える。

その風に乗り、春の髪が揺れる。

タバコの香りとは別に、花のような香りが漂った。

シャンプーだろうか。とてもいい香りがした。

「あ!おつまみ美味しそうだね!」

春がこちらの部屋の、ベーコンステーキに目をつけた。

「あぁ、今日はガッツリ飲みたかったからおつまみも一応ね。」

「えーいいなぁ。キッチンが使えたらなぁ。」

「お、ついに掃除する時が来たんじゃないの?」

僕は椅子に戻り、ビールを飲み干しベーコンステーキを1口食べた。

「それはめんどくさいからダメだ。」

「その時は一生来ないのかもね。」

「うるさい。」

春はむくれたような表情を作ってみせた。その表情が、僕には面白かった。

グラスにウイスキーを注ぎながら、もう一度立ち上がる。

「はい。チーズならあげる。」

春にチーズを手渡した。

「え、いいの?ありがとう!」

表情がパッと明るくなった。春の表情の変化は純粋に面白かった。

「へー、ウイスキーストレートで飲むんだ!かっこいいね!」

「ベランダだから自然に冷えるからね。」

「私も今日はガッツリ飲もうかな!梅酒持ってくる!」

「春はほどほどにね。」

バタバタと、部屋に戻って行った。


なんだか心が軽くなった。

春の子供のような純粋さを見ていると、元気が出た。

春に対する警戒心は、すでに無くなっていた。

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