06.ベランダの絵描き 三日月と煙
鶴のぬいぐるみだった。
「は?」
思わず声が出た。
左の部屋とは非常用の薄い壁に隔てられているのだが、そこから鶴がひょこっと顔を出したのだ。
「先日助けられた鶴です!助けてくれてありがとう!」
コミカルな裏声と共に、鶴のぬいぐるみがゆさゆさと揺れる。
時間がかかったが、すぐに先日の酔っ払いだと理解した。
「…鶴の恩返しかな…?」
「正解!」
裏声ではなかった。
鶴のぬいぐるみが姿を隠すと同時に昨日の女性がサッと顔を出した。
「こんばんわ!」
「こ…んばんわ。」
「ちょうどベランダにいたときに物音がしたから声かけちゃった。昨日助けてくれたの貴方だよね。」
「はい…。」
唐突な登場とフレンドリーさに、僕は完全にビビっていた。
「大丈夫でした…?」
「吐いて寝たらよくなった!ありがとう!あんなに吐くとは思ってなかったけどね!あはははははは!」
勢いがすごい。完全に圧倒されていた。
昼夜を問わず、ベランダで出していい声量じゃない。
「昨日水持ってきてくれるとき、こっちの部屋からドアの音がしてたからもしかしたらお隣さんだったのかなーって思ったけど、間違ってなくてよかった。」
「そんなんでよく鶴の人形出してこれましたね…。」
「だよね。え、てかこのベランダに机と椅子置いてんの?変わったお部屋だねぇ!」
彼女の興味は僕の机と椅子に向いていた。鶴の話はもういいらしい。
「あ、そこでお酒飲んでるんだ!へぇー、やだ、なんかシャレオツだねぇ。」
「どーも…。」
「寒くないの?あ、ダウン着てるか。ダウン着るくらいなら部屋に戻ったら?」
僕は聞きながらタバコに火を付けた。
「あ、禁煙?お部屋禁煙なの?」
少しイライラしてきた。
「声大きいですよ。」
チクッと注意してみる。
「あははは、それすっごいよく言われる!」
「いや、ご近所さんの」
「あ、私もお酒持ってこよ。タバコも。」
まるで聞いていない。完全の彼女のペースだ。彼女の敷いたレールの上を無理やり走らされているようだった。
すぐに彼女がひょっこり顔を出した。
「おまっとさん。」
「今日も飲むんですか?」
少し嫌味のある言い方になってしまった。
彼女もそれを察したのか、少しだけバツが悪そうだ。
「あー…昨日のは事故だったから、今日は大丈夫だよ、あはは。」
「へぇ。気をつけてくださいね。」
「大変ご迷惑をおかけしました…。」
本当だ。仕事をサボったのは僕も悪いが、靴は買い換えた。弁償してもらってもおかしくない。
だがそれは胸の奥にしまい込んだ。弁償しろ!だなんて言いたくないからだ。代わりにまた少し、毒を吐くことにした。
「大きなお世話ですけど、少しお部屋片付けられたらどうですか?」
彼女は「うぇ」と声を漏らす。
「苦手なんだよね、掃除。苦手ってか、嫌い。」
「キッチンまで行くのに相当苦労したんですけど。」
「え?ウチの部屋入ってたの!?」
「え、水を汲みに…」
「貴方の部屋から持ってきてくれてたと思ってた!じゃあ全部見られてるじゃん!」
どうやら意識が曖昧だったらしい。
「まぁ…玄関があの有様だったからわかってはいましたけど、キッチン酷かったですね。」
「男の人にそれ言われるのショックだわぁ…」
彼女は少し凹んでいるようだった。
全部見られてる、で思い出した。
あのハートの絵。あれは一体何だったのだろう。
彼女がタバコに火を着けた。
僕もつられてもう一本吸うことにした。
「そう言えば、部屋に大きな絵、ありましたよね。」
「あぁ…それも見たんだ。」
「まぁ。あの絵、貴方が描かれたんですか?」
「そうだよ。…あんまり上手くないっしょ?はは。」
「そんなことないです、すごく引き込まれました!」
思わず声を張ってしまった。
「あ、ありがとう…そんなに強く言われるとビックリしちゃうね。」
「あぁ、すいません。でもホントに魅せられました。」
「そんなに言ってくれる人、貴方くらいだよ。」
彼女が煙を吐く。
僕もつられて1口吸って、吐く。
二人分の白が夜空に溶ける。
「でもありがとう。作品褒められるの、すごい嬉しい。」
「あの絵はいつか、どこかで展示するんですか?」
彼女がビールを喉に流す。
「んーそうだなぁ。できるかなぁ。できたらいいなぁ。」
何か引っかかる言い方だった。
「あの絵は、たぶんね」
彼女が煙を吐き出す。
夜空に輝く三日月が、煙で霞む。
「完成しないと思うんだ。」
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