第5章 殺人事件とロケット (8)

 展望台のあるはずの場所には、屋敷が一つ立てられていた。「展望台」と素っ気なく書かれた看板があり、その下に「星見温泉」と書いてある。「温泉?」とわたしは首を捻った。

 その側には郵便受けが立っていて、そこから最初の戸口までは500メートルほどあったと思う。石畳の上をあるけばかじかんだ爪先を引っ掛けそうだったので、わたしは芝生の上を横切って、ようやく呼び鈴を鳴らした。

「はいはーい」とすぐに声がして、ドアが開いた。「お、いらっしゃいまし、わたし」

 そう柔和に微笑むわたしは、ホットパンツにアロハシャツを着ており、その上から白衣を羽織っていた。わたしの足下を見て驚く。

「どうしたの、靴?」

 そういつもの調子で言われると、途端に自分が馬鹿なことをしでかしたのだとわかった。全く、筋が通っていない。それでわたしは恥ずかしくなってしまった。

「いやぁ……どうしたんだろうね、ほんと」と頬をかく。

「まあいいや。入りなよ」

 わたしは笑いながら一歩下がった。

 家の中は温かかった。入ってすぐ、右手には二階に登るための階段があり、左手には宿のようなカウンターがあって、その場所にはいくつかマッサージチェアが置いてあった。

「どう、旅館っぽいでしょ」とわたしは言った。「そういう風に建てられたんだ、なんでかねぇ」

 わたしはほう、と息をついた。頬に右手を添えて、傾げるように辺りを見る。

「古い建物さ。そして誰も来ない。良いよ、独占できるってのも。少し寂しい気もするけどねぇ」

 フローリングは木目調だったで、円みを帯びた温度をわたしは覚えた。足の平に優しい床だった。彼女は、ぺたぺたと後ろを着いて行くわたしを、大広間に導いた。廊下に膝を着いて、礼儀正しく襖を開ける。

「誰かいるの」とわたしは尋ねた。

「誰も。ただわたしが勝手にやってるルールってだけさね」

「喋り方も?」

「ムードを作るためさ。ちょっと環境に影響されてみてる。道楽さ。遊びで役割を演じている内は、孤独じゃないからねぇ」

 広間には畳が敷き詰めてあった。宴会場のような雰囲気があった。そう思うと、空気が軽やかに感じられた。もうここは、あの雨と影から分断され、守られた場所なのだ。長い息を吐く。

「タオルと着替えを持って来るよ。ちょっと待ってて」と彼女は言った。

 わたしは畳に横たわった。何も考えたくなかった。い草のにおいがした。懐かしいにおいだ。わたしは地球に住んでいた頃の自宅と、あの図書艦の喫茶店を思い出した。どちらも日本式で、わたしはよくこうやって畳の上に寝そべったものだった。

「わたし、もう、帰るんだ……」と、呟いてみた。すると、ぐっと懐かしい気持ちがこみ上げてきた。短い声が抜けただけの、その小さな隙間から滾々と感情が涌き出した。抑えることなんてできなかった。心の触れ方なんてわからなかった。

 ほどなく襖が開いて、わたしが戻って来た。彼女は畳の上で泣いているわたしを発見して、大層慌てた。抱きつくわたしを洗濯したてのタオルで拭いてくれた。

「泣き止んだら、お風呂入りなね」

 それは母のように温かな口調で、わたしは相変わらず泣いてはいたけれど、すっかり安心してしまった。わたしの身体は温かかった。そして柔らかかった。


 この展望台には温泉があった。残念ながら天然ものではなかったが、露天さえあった。まだ雨は降っていたが、熱い湯の中ではもはやそういったネガティブなイメージも恐るるに足らない気がしていた。木造の屋根に当たる雨の雫が、軽やかに聞こえていた。

 風呂から上がると、彼女が夕食を用意してくれていた。膳の上にはどんぶりに山盛りの白米と、みそ汁、そして焼き魚と柴漬けの小皿が置いてあった。どれも母の味だった。

「そりゃあ、ミクニ家の一人娘ですから?」

「本当に美味しいよ」と三杯目のお代わりを求めながらわたしは言った。

「それは良かった。最後の晩餐くらい、好きなもの食べさせて上げたかったからねぇ」

「……知ってるんだ」

 わたしは背筋を伸ばして、箸を膳に置いたりせず、二匹目の焼き魚を崩し始めた。

「議会から連絡があったのさ。きみが来るちょっと前にね。本当なら、わたしはすぐにでも帰還シークエンスを凍結しなきゃならないんだよ」

 そして柔らかくわたしは笑った。わたしはみそ汁を飲んだ。白味噌で、大根が入っていた。

「そうしないのはどうして?」

「もうちょっと待ってみようと思ったんだ」と彼女は言って、徳利を傾けた。「せめて、一晩。議会の決定は必ずだよ。それに効力もちゃんとある。たださ、最後に行動を起こすのはやっぱり人だし、あんまり厳密な組織ってわけじゃないんだよね、この宇宙船」

 そしてお猪口を口に運んだ。

「わたしだから?」

「そう、わたしだから」彼女は舌を鳴らした。「まあ賭けはわたしの勝ちかな。きみは来た。きみは帰るんだよね? 御飯を食べたら案内するよ」

 結局わたしはもう一揃いだけお代わりをした。いくらでも食べられる気がしたが、さすがに諦めた。わたしは、浴衣から彼女の用意してくれた新しい服に着替えた。それはまず例のスーツだった。ただし、全体が白灰色をしていて、わたしは真珠を塗りたくられたような気分になる。わたしはその上からジーンズとシャツを来た。この街でいつも過ごしていた衣装だった。ようやく元の自分に戻れた気がしていた。

「白衣は要らない?」と尋ねられる。

「……いいや」少し考えてからわたしは答えた。

「そう。じゃあ、行きましょうね」

 そのわたしは、カウンターに入り、わたしはその後に続いた。カウンターには地下に下りる階段があり、わたし達はそこを下りて行く。四つほど踊り場を過ぎて、広い空間に出た。わたし達の存在を感知して、灯りが着いた。蛍光灯が、遠くまで走って行く。長い移動床がその下を流れていた。

「この先で待ってる」

「何が?」

「ペンギン」とわたしは言って、移動床に乗った。わたしもその後に続き、するすると流れて行く。

 そうしていると、工場で作られた製品になった気がした。あるいはこの直観は正しいものかもしれない。わたし達はこの巨大な容器の中で生産され、わたしが今まさに出荷されようとしている。

「これは、AからTHEになる手続き」と前を行くわたしが言った。「他の可能性を捨てて、家を出て行くのさ。実現されるのは、一人の自分だけ。お気に入りの服だって、何着も同時に着ることはできないもんね。わたし達は、いつもこれでいいのかって、悩みながら勝負に出る」

 そうでしょ、と彼女は言った。わたしは自分に頷いた。

「でも、じゃあわたし達のしてきたことって一体なんなんだろう?」

「それは、きみが考えてよ。わたし達で議論しても結論が出ないのは、わかってるでしょ」

「うん……」

「まあ、そうだね、忘れないでいてくれたらいいよ。朧げでいい。一つ一つの名前なんて忘れてもさ。ただ、総体としての、漠然とした何かがあったというだけ、それだけ覚えてくれるなら、わたしは安心できるかな」

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