第5章 殺人事件とロケット (7)

 白衣の自分と別れてから、わたしはまた少しトラムに乗った。今度は誰も乗っていなかった。議会のある場所なんかには、もう誰も用事はないのだ。そして、わたしは更にその外側へ行くのだ。

 自動制御のトラムは静かに進み、わたしは車体に雨粒の音が籠っていくのを見ていた。窓に引っ掛けた傘から、滴り落ちる雫のイメージが、雨音によって増強され、繁殖し、室内は透明な液体で満ちていった。わたしは呼吸できる。この幻には、まだ温度も感触もないのだ。片手をゆっくりと振ってみる。やはり何も触れない。

 わたしには期待があったのだ。水を感じたかった。それは今この土砂降りの中で、確かにある音声だった。言葉だった――ただし、わたしには聞こえない、そうだとしても。要するにわたしは寂しかったのだ。

 トラムは止まった。終点だった。わたしは傘を広げて雨の中に立ち、向きを変えて街に戻って行く秋色の車体を見送った。辺りは暗かった。街灯は立っていたが、その間隔はとても遠く、灯りと灯りの間にはしっかりとした闇が佇んでいた。

 わたしは坂を歩き始めた。粉々になった骨を踏むような音がした。あるいは砂浜を行くような。それがわたし達の街だった。生産され、消費されたものは、そのサイクルの過程で残った煤は、ちゃんとこうして降り積もっているのだ。

 その行程は、わたしの知らないところで進められ、そして完了しつつある。白衣のわたしは今頃議会に着いているだろう。そこで自身の犯した罪について述べているかもしれない。それとも、もう終わっただろうか。わたしは、議会が決断を下してから、あのわたしの首が落ちるまでに、どれだけの猶予があるのか知らなかった。

 展望台はまだ見えない。わたしは見上げて、星を望んだが、自分の差している白い傘によって阻まれた。それで、わたしはクラゲを思い出した。あの洋上でわたしとエグゾゼを捉えた、透明な別の拡大外殻。あのようにして、このわたしも何かに囚われているのだ。わたし自身の意思とは別のところで働いている思惑によって、わたしは突き動かされている。あの青い地上においてなら、それは運命と呼ぶことだってできる代物だった。でも、ここではその名前は効力を失って、泡となって消えてしまう。なぜならそれは、どこまで行ってもわたしの意思なのだから。

 わたしは母と読んだ絵本を思い出した。星を求めて梯子を立てた父の話だ。あの梯子は一体何でできていたのだろう。わたしはその答えを骨だと思った。可能性の骨を継ぎ合わせて、あの梯子はできていた。絵本の続きは思い出せなかった。あの子の父は、星を取って来ることができたのだっけ……。わたしには思い出せなかった。そもそも可能性の骨はどれほどタフなんだ?

 靴が濡れ始めていた。撥水性は死んでいた。わたしはまた一人仲間を失った。探偵は本当に死んだのだ。じわりと染み込んで来る冷たい雨は、わたしに死んだ探偵の血液を連想させた。白衣のわたしは探偵の首を折って殺したから、わたしは彼女のいかなる体液にも触れていない。そのはずだった。しかし、死は水性なのだ。雨にだって溶ける。溶けて、流出するもので、滲んでしまい、擦れば消えてしまうものだ。

 わたしの足の横には小さな流れができていた。立ち止まって、振り返り、その行方を追ってみた。その先に街はなかった。ここは山の中で、川の先は多分海に続いていた。いや、その間には森があったのだ。はたしてどれだけが、沈んでいる拡大外殻に合流できるのだろう。わたしは暗い気持ちで前を向いた。

 この道を真っすぐ行けば良いはずだった。緩やかな弓なりになっている道。街灯の間隔が、遠くにいくに連れて、広くなっているみたいだった。距離は混乱していた。

 闇は次第に深さを増して行き、海溝のような色調を帯び始めた。わたしは、その下に沈んでいる、脱色された骨格の存在を感じ、それを見ないようにするために、意識を前に集中しなければならなかった。でも、濃くなる闇が俯いて何かを呟いているだけだった。不可聴のその囁きは、重なりを増して、呪いのような響きでもってこだました。わたしは、蟹に圧し潰されそうになって、海に飛び込んだ時のことを思い出した。あの時、わたしを燻らせていた海流は、ちょうど今みたいな調子で、わたしに囁きかけていた。

 時折、わたしは自分の首筋を撫ぜる冷たい指先を感じた。その度にわたしは振り返り、誰もいないことを確認したが、何者かはただわたしの死角に回り込んだだけかも知れなかった。そして、不意にわたしの唇を奪うのだ。あのわたしが、そうしたように。

 怯えて、しばらく立ち竦んだ。この不安はなかなか晴れなかった。引き蘢っていた日々がフラッシュバックする。今のわたしには、現実を遮断する本も音楽も手元にない。

 雨は強くなってきた。一つ地面を打つ度に、一人暗闇の中で存在が増えた。もはやいつ傘が破けるとも知れなかった。風がないことだけが幸いだった。

 震える足を前に出した。走り出すことはできなかった。わたしは地下で歩く練習をしていた自分の姿を思い出した。そう、あのわたしより、このわたしはもっと上手く歩けるはずなのだ。

 わたしは歌い始めた。父のよく唄っていた歌。わたしは、自分の名前を繰り返し呼んだ。自分が何者か、ちゃんとわからせる必要があった。その前の歌詞も、先の旋律も、わたしには思い出せなかった。だから歌は短いフレーズを何度も巡った。そのようにしてわたしは切り取られているのだ――とわたしは思った。あらゆる文脈からわたしは孤独だった。

「この道で合っているのかな、わたしの進む道って」

 声に出してそう言ったはずだった。でも雨の音が強くてよく聞こえなかった。自分の中で鳴るはずの音声も上手く打ち消されていた。

 靴はもはや誰のものでもなかった。炭酸水に浸したフランスパンに両足を突っ込んでいるみたいだ、とわたしは思い、そうすると途端に嫌な感じがした。

 わたしは靴を脱ぎ捨てた。それこそが相応しいように思えたからだ。靴を並べて、そのまま素足で歩き出した。探偵の履いていた靴下をわたしは履いていなかった。地面がわたしの足の裏を舐め、側面を薄い雨の皮膜が洗った。体温がぐっと下がったように感じられた。凍えながら、それでも、わたしは傘の柄にしがみつきながら、一歩また一歩と坂を上って行った。

 そのようにして、わたしは展望台に着いた。

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