第5章 殺人事件とロケット (6)

 わたし達は喫茶店に来ていた。議会庭園の近くにある、小さな喫茶店だった。ここは街の外れだったし、大雨ということもあって、客はほとんどいなかった。店の奥の方に、硝子の仕切りで区切られたスペースがあり、わたし達はそこへ座った。遮音硝子。

「いやー濡れたね」と白衣のわたしは言った。

「そういうきみはそうでもないみたいだけど」

「言ってなかったっけ、この白衣って、防水性なんだよ」

 一方のわたしはずぶ濡れだった。探偵の体温はすでに流されていて、今はわたしの体温が馴染んでいる。探偵は、その鳥打帽とパイプだけが特徴だったのだ。彼女自身は、一般的なわたしの格好をしていた。ただし、それはこのわたしの好みではなかった。ブラウスのボタン周りのフリルだとか、袖のステッチだとか……時代錯誤、とわたしは思った。

 ほどなく、給仕のわたしが二杯のコーヒーを持ってきた。彼女はわたしが殺人鬼と一緒にいることを知らないのだろう。訓練された盲導犬みたいな笑顔を置いて、彼女は個室の扉を閉めた。それで、音はすっかり消えてしまった。

「わたしも、あの半島に行ったことがあるんだよ。そう、わたしはかつてバレッド・ワンと呼ばれていた。エグゾゼは良い機体だね。他のバレッド達と共有したこともあるけど、やっぱりエグゾゼが一番だよ」

 そして、彼女は自分の歴史を語ってくれた。この船で生まれ、しるしの制度を聞いた時、彼女もまた地球に帰りたいと思った。「でも、誰かを殺そうとは思わなかったね。誰がしるしを持っているかもわからなかったし」。ただし、まだその頃は――と譲歩して、彼女は続けた。

「わたしは海が見たかった。あれは、あの子との思い出の場所だからね」

「水族館」

「そう、それと海岸ね」彼女は言って、懐から思い出したように煙草のケースを取り出した。それを机の上に置いて、しばらく眺めていた。まだセロファンが巻いてあり、一度も開封していないようだった。「わたしは魚を見たかったんだ。せめて、海鳥を。そうすれば、もっとリアルにあの子との思い出が蘇るんじゃないかって思った。でも、ここじゃそれは叶わないんだ。魚も鳥もいない」

 彼女は一度、生産プラントに潜り込んだことがあると言う。ロボットだらけで、鳥がいるとしても、それは鶏だけだった。工場化された農園、と彼女は表現した。

「雁字搦めの自由だけがあった。でもわたしの欲しいのはそれじゃなかった」

「わかる気がするな」とわたしは言った。わたし達は、この街からせめてイメージだけでも出て行くために、自由な生き物を求めているのだ。

「さて、そんな時に、わたしは海岸警備隊の存在を知ったんだよ、あの図書艦で。一緒に行ったよね?」

「うん、お蕎麦が美味しかったね」

「本当に」と白衣のわたしは笑った。遠い目をする。ステンドグラスの先に、過去を見ているような目だった。わたしも振り返って、自分の頭上にある色ガラスのパッチワークを見た。わたしには、その向こうに何も見えなかった。「はあ、もう一度お蕎麦が食べたいよ」

 わたしは何も言えなかった。彼女はもうあの蕎麦を食べることができないのだ。

「きみがあそこで何を考えたか、聞いてもいいかな」とわたしは尋ねた。

「本当に面倒くさい構造をしてるって思ったね。この世界は」と彼女は言った。「わたし達は疲れてる。もう楽になっても良いだろう、さすがにって。――ね、でもどうすれば良いんだろう? わたし達は皆、自分に割り振られた役柄に沿ってる」

「うん」

「ここから出て行くのは簡単だ。しるしを手に入れれば良いんだ」

 彼女は鋭い目つきでわたしを見た。でもわたしは明確な危機感を覚えなかった。

「でもきみはそうしなかったんだよね」

「そうしなかった」と彼女は言った。「なぜって、大好きだからさ、わたしは、自分のこと。わたし一人が自由になって、それで幸せになっても、結局は救われないんだ――って、そう思った。ねぇ、わたし。わたしにはさ、同志が必要だったんだ」

 彼女はそう言って、白衣のポケットから煙草を取り出した。まだ包装は解かれていなかった。彼女はテーブルの上に灰皿を探したが、そんなものはなかった。結局、彼女は煙草のケースを指で回した。

「革命のための」

「そう、ある意味では。わたし一人じゃ何もできなかっただろうね。誰かがこの宇宙船から出て行かなければならない。そのわたしはわたし達の代表なはずで――これってもちろん、副次的なものだよーーでも、その一方で、わたし達の世界の仕組みを変えるような事件が必要だった」

「それが殺人なの」

「永遠を続けることが〈猶予器官〉と〈枯れ井戸〉の第一の目的さ。機械によって規律されたわたし達の世界を、その生産品であるわたし達が否定する――それで良いんだ。その時、わたし達は初めて、自由を見るんだよ」

 彼女は疲れたような溜息をついた。そして、そのまま視線を落としたまま、煙草のセロファンを剥がしていった。でも、彼女はライターを持っていなかった。

 わたし達はケーキを頼んでいた。彼女はショートケーキを頼み、わたしにモンブランを頼んでいた。

「ところで」とやがて届いたケーキを崩しながら、白衣の彼女は切り出した。「きみは、わたしが真犯人だってわかった時に、あまり驚いていなかったようだけど」

「うん」わたしはモンブランを口に運ぶ。

「それはどうして?」

 彼女はフォークを口に銜えながら尋ねた。

「わたしがさ、しるしを持っているのを知ってるのって、きみだけなんだよ」

「ほう、そう思う?」

「――うん。わたし、他の人に肌許してないし、必ず着替えは一人でやってた。でもきみは、最初の日にわたしを着替えさせてくれたよね? あの時にしるしがあるって気づいたんじゃないかな」

「ふむふむ」彼女はショートケーキをまた一口崩した。

「ですわ姫が殺されたのは、あの後なんだ。あれはわたしが覚醒してすぐの事件だよね。きみがわたしにしるしのあることを知って、それで殺人をはじめた――そういうストーリーを立ててみたけど、どうだろう」

 白衣のわたしは、ケーキの上に乗っていたイチゴを摘まみ、それを口に運んだ。目を閉じたまま、それを味わっていた。

「うん、その通りだよ」

 と彼女は言って、また煙草の箱を弄んだ。 

「この後、どうするの」とようやく尋ねた。

「自首するよ」さらりとそう言った。「うん、それで本当の本当に全部が終わるんだ。”しるしを持った”わたしが、議会に裁かれることで――」彼女は首を切る仕草をした。「しるしはこの宇宙船全体に希釈されるんだ。意味を成さなくなる。後は、こんなわたしを生んでしまった重責に耐えられず、クローン・サイクルは切断される。わたしはもう生まれない。決断の時がようやく来るのさ、態度を示す時がね」

 それだけ言ってしまうと、彼女は再びグラスを持った。まだ指は震えていたが、それでもしっかりと。ごくごくと飲んでいった。細かい氷は噛み砕いた。わたしはそんなことをしない人間のはずだった。

 でも、そんなことを言ってしまうなら、わたしは人を殺すような人間でもなかったはずなのだ。ところが、このわたしにしたって、あの海の上で同じ自分を殺している。そして、その肉を食べている。このホイップクリームにしても、それはわたし自身の死体から作られたものなのだ。

「ああ、そうそう」と彼女は言った。「最後に一つ言っておきたいことがあるんだ」

「なに?」

「心残り」

「……うん」

 わたしは姿勢を正した。

「きみが花屋をやりたいと言い出した時、わたしは閃いたんだ。それをずっと考えていた。そのシーンが、わたしを支えてくれていたんだよ。殺しは確かにタフな仕事だった。でも、続けてこれたのは、そう、そういうわけだね」

「わたしにできることなら、引き受けるよ」

「ありがたい」彼女は微笑んだ。「地球に戻ったら、あの子のお墓に花を添えてくれ」

 わたしはマグカップを持ち上げて、まだ熱いそのコーヒーを一気に飲み干した。

「必ず」

 と答える。

 わたしは自分の膝を見ていた。綿のスラックスには、折れ目がついていなかった。視線を落とし、わたしの履いている革靴を見た。踵がすり減っていた。

 この石造りの建物の群生した街と、これを履いていた短い命の間で生じた摩擦が、靴の底をすり減らしたのだ。失われたものはなんだろう、とわたしは考えた。エネルギー。幽霊のようなもの。あのわたしが発散したそれは、今この宇宙船のどこを歩いているのだろう。わたしは、雨の中で濡れている幽霊を想った。それは一人だけでないはずだ。歴史が求めるだけ沢山のわたしが、今は亡霊となってこの宇宙船を巡っている。様々に姿を変えて。わたし達が吸っている空気でさえも、ひょっとしたらその一部なのだ。ここの空は閉じているから、とても、厳密に。

 だから突き抜けるものが必要だった。風穴を開ける必要が。でも、わたしは自堕落な人間で、勇気に乏しく、物事を先延ばしにする性質だったから、それが出来ずにいた。誰かが罪を引き受けなければならない――と彼女は言った。それも、わたしだ。わたしは一体誰を殺したのだろう?

「そろそろかな」

 白衣は言って、腕時計から顔を上げた。

「もうロボットがわたし達の死体を見つけた頃だと思うよ。あるいはとっくのとうに、ね。議会が帰還シークエンスを凍結するまでには、まだ時間があると思う。でも、もう行った方がいいね」

「……どこに」

「わたしは、議会に。きみは、展望台に。ここはわたしが払うよ。三途の川を渡るにしたって、大したお金は要らないだろうしね」

 わたし達は勘定を支払って、喫茶店を後にした。相変わらず雨は降り続いていた。白衣のわたしは、ここで待ってて、と言い、店内に戻った。わたしは一人で、店先の庇の下で、雨で煙の中にある街を見ていた。そこは坂の上だった。この街は坂が多いのだ。わたしの見下ろす坂道は、ずっと遠くに伸びていて、それはやがて海に続いていた。水平線は、わたしの目の高さにある。距離は丸みを帯びて、わたし達の視界を歪ませるのだ。

 ほどなく、白衣のわたしが戻って来た。傘を一本わたしに渡す。

「きみは濡れないで」と彼女は言って、白衣のポケットから何かを取り出した。「はい、ヨーグルト。好きでしょ、わたし」

 わたしはそれを受け取って、ズボンのポケットに入れた。

「ありがとう」とわたしは言った。

「どういたしまして」とわたしは言った。

 わたしは傘を差した。雨の中に入って行く。

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