第5章 殺人事件とロケット (3)
無数のボールをかき集めた後、わたし達は一緒に食事を取ることにした。そろそろ夕暮れだった。小さなレストランに入って、わたし達はステーキを食べた。牛肉の触感があったが、合成されたものに違いなかった。極端な話、それは死んだわたしの肉なのだ。カニバリズム。わたしは食卓に眼球やら爪やらが落ちているのを幻視したが、それを含めても、ステーキの美味しさは変わらなかった。思えば、海岸警備隊に所属していた頃も、あの地下都市においても、わたしはまともなものを食べてこなかった。不満は無かったが、喜びも特に無かった。
食事の間、わたし達は色んな話をした。自己紹介は、ここでは拡張された意味を持つ。でもどうだろう、それはあの地上においてもそうかもしれない。
彼女は賭け事が好きなわたしであり、最初の夜にバーで会ったわたしの一人だと言っていた。あの時一緒だった白衣のわたしに賭け事を持ちかけていたのは、彼女だったのだ。
「結局、一位はなんのネタをやったの?」とわたしは訪ねた。
「レオナルド・ダヴィンチ」と彼女は答えた。
「最後の審判?」
「いかにも。ちょっとした劇がついてててね、その後のキスするシーンまでちゃんとやったよ。ローマ軍も呼んだんだ。それが勝利の鍵だったね」
その際に、ユダ役に隠していた秘密がバレて、後々小さな問題が起こったのだ、と彼女は笑った。
「きみ達は何やったのさ」
F91、と彼女は小さく答える。
食事を終えて、わたし達は別れた。すでに夜だった。街灯が灯っており、石畳が微かに照らされている。人はまだ疎らにいた。夜空は透明で、ちゃんと星が見えていた。
彼女の言う通り、わたしには泊まるべき場所がなかった。花屋に戻るという方法もあったが、乾いた血痕と眠るのは嫌だった。
そういうわけで、わたしはホテルを探すことにした。この街はわたし達だけによって運営されているが、宿泊施設はちゃんとある。わたしには、ホテルを営みたい気持ちがわかった。誰か他人に尽くすというのは、気分の良いことだ。部屋をゲストの快適さのために組み替え、食事と熱い風呂を提供し、カクテルを作って、ピアノを弾く。
ホテルという場所は、文化の集合体と言える。朝食がビュッフェ形式なのには、ちゃんとそれなりの理由があるのだ。ホテルはそういうシステムを構成している。
ネガティブ半島から持って来たクレジットにはまだ余裕があった。わたしは、一番良いホテルに行く事にした。同じわたしが経営しているにも関わらず、ホテルにはちゃんと格があるのだ。多分、それぞれの星の数に合った魅力というのがあるのだろう。
いくらか自暴自棄なのかも知れないな、と、自分の部屋を手に入れたわたしは、ベッドの上に寝そべりながら考えた。お金があるからといって、無駄な出費をしてしまった。そんな人間じゃないはずなのだ。
大きなベッドで、マットは雲みたいに柔らかく、どこまでも沈み込んでいきそうだった。実際、わたしはどんどん沈んでいき、やがて突き抜けた。
だぶん、と水の中に。
わたしは慌てて目を覚ました。朝だった。
探偵がわたしの部屋のドアをノックしたのは、ちょうどわたしが二度目の食事を終えて部屋に戻って来た頃だった。
朝食と昼食に、わたしはサンドウィッチを食べた。具は両方とも同じであり、ハムとキュウリだった。それが基本であり、最高な組み合わせだ。たまに他のものが食べたくならないのか、と尋ねられることがある。しかし、そういう場合は全く別のものを食べれば良いのだ。サンドウィッチを食べたいという欲望は、ハムとキュウリをパンで挟むことと不可分である。これは法律だ。
探偵は鹿撃ち帽を被っており、パイプを銜えていた。火はついていない。ただのポーズのようだった。彼女の前髪は目にかかっていて、わたしは寝暗なしるし象を受けた。でもそれは間違いだった。髪の間で、わたしの緑色の目がきらりと光り、彼女はふっと笑う。
パイプを外した。
「いやいやどうも、こんにちは、探偵です」
とわたしは言った。
「まあ見るからにそうだよね」
「格好は大事ですよ」
「喋り方」
「それも」とわたしが指を立てて見せる。「大切な要素です。いいですか、ファッションは自身を守る術となり得ます。鎧の時代にこれは初めて認識された――と、わたしは個人的に睨んでいますがね――この比較的未来においても、それは有効なんですな。特に、正体を隠したい時なんかにはね……」
彼女はもう一度パイプを銜え、いくつか吸った。しかし煙は立たなかったし、やはりそれはただのポーズのようだった。わたしが肩すかしを食らった気分でその様子を見ていたので、彼女はまたふっと笑う。
「廊下は禁煙ですからね」そしてわたしの部屋を示した。「お邪魔ですか?」
彼女の視線がわたしの肩越しにさっと部屋を調べたのがわかった。鷹のように鋭い視線なのだ。ピアノ線のように煌めいた。わたしは自分の身体が切断されたような気さえした。それは、エグゾゼが行ったのとはまた別な感触だった。
「煙草を吸わないわたしだよ」
一歩下がりながら、わたしはそう言った。
「残念ですね。まあ、あなたの部屋ですから」
そして彼女は入ってきた。ずんずん進み、部屋の真ん中で立ち止まる。わたしがドアを閉めた。彼女はそのままふむふむと頷きながら、室内を見回していた。
「何かいる?」
冷蔵庫を開けて、さきほど買ってきたソーダ水を取り出しながら、わたしは尋ねた。
「真実」背中を向けていた彼女は、人差し指をピンと立てる。「それがわたしの求めるただ一つのものです」
「冷蔵庫にはないね」とわたしは言った。
「でも、ここにはあります」
彼女は両腕を広げながら振り返って、わたしを見た。そして下手なウィンクを打つ。
「ね」
わたしはあやうくソーダー水のペットボトルを落としそうになる。
「何の話をしてるか、わからない」
「あなたの話をしてるんですよ、ミクニ・ライカさん。いえ、延いてはわたし全体の話をしています。あなたはご存知ですか、今、この宇宙船には危機が迫っているのです」
「どういうこと」
「知らないわけではありますまい。それとも新聞はお読みにならない?」
「今日のはまだだね」
「良いでしょう。まあ、実のところ新聞なんかに新しいことは書いていないんですよ、本当の意味ではね。事件は日常的に起こってきたし、それはわたし暦開闢以来ずっと続いてきた。そして、それが、ついに閾値を越えてブレイクする――それだけのことなんです」
ペットボトルを開けて、わたしは炭酸水を飲んだ。口の中で弾ける気泡は、そのまま今のわたしの気分でもあった。彼女は実に刺激的だった。それはわたしの気分を向上させる。しかし、引きずられてはならない、とも思った。そのわたしは、胡散臭かったのだ。わたしは一気に液体を飲み込んだ。少し苦かった。
探偵がわたしに会いにきた理由について、わたしは少し考えてみた。真実、と彼女は言った。わたしの中に疑惑が萌していた。彼女は本当に探偵なのだろうか? 彼女はひょっとすると、探偵の皮を被った殺人鬼かも知れない。ありえない話ではなかった。
そんなわけで、わたしは黙っていた。
彼女は頷いた。
「あなたが、ネガティブ半島帰りだということは、ちゃんと知っています」
「え」
「海岸警備隊と議会の間には連絡があるんですよ。そして、その情報は、わたし達ミクニ探偵事務所にも知らされている。あなたがバレッド・ワンとして拡大外殻=エグゾゼのパイロットと入れ替わったことも分かってるんです」
彼女は勝ち誇ったような顔をする。彼女なりの確証があるようだったが、同時に問うような視線を発信してきた。
わたしは自分たちの間に強い共感作用があることを思い出す。わたし達は、自己同一性を獲得するために、合意の原則から外れるよう振る舞うし、その方法を学ぼうとする。しかし、逆にそれを特化しようとする者がいるとしたら。それは探偵という役には強力な武器となるだろう。
見透かされている――そう思った。しかし、目を背けることもできなかった。彼女の緑色の瞳は、わたしに、洞窟へ入って行く水路を連想させた。暗く、しかし引きつけるような瞳だ。
「大体二週間からこちら、今日に至るまでのあなたについては、我々は把握済みです。ネガティブ半島から帰ってきた人間は、要観察対象とされるんですよ」
「信頼がないんだ」とわたしは言った。海岸警備隊の基地で、わたしは半島での出来事について言いふらしたりはしない、と約束したはずなのだ。
「まあ、行政的な手続きですよ。議会はお飯事みたいな組織ですからね。さて、ともあれ、あなたの正体は分かっている。でも、これはほんの一部です」
彼女は人差し指を立てて、わたしに見せた。
「あなたの過去がわからない」
「わたしの過去」
「いかにも」彼女はパイプを揺らした。「あなたが海岸警備隊に所属する以前のこと。言い換えまして、あなたの正体。もっとも、議会は普通、個々のわたしについて無関心です。しかし、今回は――」
「異常事態」
「その通り。そして、そこにわたしが派遣された理由があります。可能性の探究係、探偵として。これは議会からの正式な依頼ですし、つまりわたし社会の総意です」
彼女はそう言って、パイプを銜え直した。
「ところで、わたしは一つの疑問を持っています」
「というと」とわたしは尋ねた。
「殺人鬼はなぜ繰り返し犯行に及んできたのでしょう? あなたが海岸警備隊に所属する以前から、殺人事件は起きていました。でもそれらは独立した事件です。しかし、あなたがこの街からいなくなってから、その数は急増している。まるで何かを隠すように、それとも何かを探すように」
わたしは黙って探偵の言う事を聞いていたが、ベッドの端に腰掛けた。炭酸水を一口飲んだ。それはいつもより強くわたしの口内を焼いた。
「一般的に支持されるだろう意見は、次のようなものです。犯人はしるしを狙っているのではないか。そして、この意見もまた強い人気を博しています――”犯人はしるしを手に入れたのではないか”。実際、殺人はここ数日起きていません。ですが、わたしはこの意見に反対しています」
「どうして?」とわたしは尋ねた。「犯人がしるしを手に入れて、満足したって線はないのかな」
「はっはっは」と彼女は笑った。「良して下さいよ、棚の上ってそんなに高いところじゃないですよ、お饅頭さん」
言っている意味がわからなくて、わたしは自分の頬を触る。そんなに太っていないはずだった。彼女は少しの間笑い続けた。
「いや、失敬――わたしに笑う資格はありませんね。ちょっとわたし達のことについて話ましょうか。ミクニ探偵事務所は、一つの思考体です。各構成員は、自身の直観によって動くことを許されている。論理を動かす前にね。なぜだかわかりますか? ある一つの問題に対しては、いくつかの解答が考えられます。わたし達の事務所は、並列演算型なんですよ。とまあそういうわけで――わたしは、一つの仮説を信じてここにやってきました」
彼女はここで、話す速度を緩めた。少し間を空けて、彼女は指を一つ立てる。
「”しるしは、犯人の手に渡っていない”」
もう一本指を立てて見せた。
「なぜなら、”あなたがまだ生きているから”」
そして二つの指を振り、ぱっと翻して掌をわたしに差し伸べる。
「どう思いますか、しるしを持ったミクニ・ライカさん?」
この質問を、探偵は一つ一つ確かに言った。彼女のパイプからゆったりと煙が上って、そこで散じたのをわたしは見た。もちろん、この部屋も禁煙だ。これは幻覚だった。彼女の視線がわたしの脳にそうして幻を見せるのだ。
わたしは、敗北感の中に立たされていた。腰掛けているベッドが不意に確かさを失くし、わたしをまた水の中に落とそうとしていた。あるいはわたしは無防備な気分だった。彼女とわたしの間にあった空白が、意義を瞬時に剥ぎ取られ、わたしは自分の分身の領域に飲み込まれてしまう。食われた。今は、相手の胃袋の中で、溶かされるのを待つだけである。
それでも、わたしは抵抗したかった。諦めの悪さはあの海上で学んだのだ。だから、彼女に尋ねることにした。言葉は、わたしと彼女をまた分離するようだった。ベッドには微かだったが確かさが復元したように思われた。
「その根拠はなんなのさ?」
でもこれは、彼女の里程を有効に分断することはできなかった。
「勘です」と言って、彼女は微笑んだ。「まあ証明は難しいですけど、目的の達成の前に過程は保留されるんですね。議会と事務所の目的は、もしもしるしを持ったわたしが別にいるならば、そのわたしに証言させることです」
「見えないな。もし仮に――きみの言う通り――わたしがしるしを持っていたとして、議会で証言することが、どうして必要なんだろう」
「連続殺人犯の行動から意味を奪うためです」と彼女は言った。
「わからない」とわたしは言った。
やれやれ、と彼女は呟いて、肩をすくめて見せる。少しイラっとした。わたしはそんな仕草をしたことがなかったし、このわたしに限って言えば、同じ自分を煽ったところで徒労に終わるだろうと思っていたからだ。でもそれは違うようだった。
「しるしとは、意思表示機会なんです。わたし=ミクニ・ライカという人間が、一体どんな人間であるか、何を考えているか、その態度を地球に報告するための機会なんですね」
それが今わたしの腕の中にある。ランダムの結果。どうしてそんな機構が組まれているかわたしにはわからなかったが、そのことを尋ねる気にはならなかった。
「議会が恐れているのは、連続殺人犯がしるしを持っている可能性であり、そのわたしが地上に帰還する未来なんです」
「わたしの代表が殺人鬼じゃ困るから?」
「Genau」と彼女はへたくそなウィンクをする。「それは、身内の恥、という奴ですな」
これは分かった。わたしにそういう暴力性があるとしても、それは一側面にしか過ぎないのだ。勘違いされては困というわけだ。
「したがって、議会は帰還シークエンスの凍結と、〈猶予器官〉の停止を検討中です。概ねこの方向で、議論は固まっています。勘違いされるくらいなら、一生口を閉じてしまおう、またそんな人間を生み出してしまったこんなシステムを放棄してしまおう、と考えているわけですね。絶望してるんです、わたし達」
地下都市の風景がわたしの脳裏にフラッシュバックした。あの水路はここにも繋がっているのだ。わたしは窓の外を見た。カーテンが未だに閉めてあったので、外の光は裾からこぼれ落ちているだけだった。外は曇りのようだ。雨も降っているかもしれない。床に広がる外の世界の断片は、まるで蜉蝣の羽のように弱々しかった。
議会と帰還シークエンスは、独立した機能だが、議会はシークエンスを凍結することができる、と彼女は説明した。またその場合、〈猶予器官〉も停止することになるとのことだ。
「永遠のモラトリアムは許されませんからね。意思表示の機会があるからこそ、わたし達はそれを続けることができるんです。人は、いつか何かを言わなければなりません」
わたし達はその機会を先延ばしにしてきたのだ。この数百年の間、ずっと。それはわたしのよくやることだった。先送り。それが必ずしも悪いことではないと、わたしは未だに思っている。けれども、今回は、逼迫の度合いが違っていた。
「あなたの証言が必要なんですよ。この未曾有の危機を回避するために。わたし達は、生き残らなければなりません、この災厄を。少なくとも、殺人鬼は野放しにできませんよ。いつだって、誰の心の中でだってね」と彼女は言った。「協力してくれますね? しるしを持ったミクニ・ライカさん」
わたしは小さく頷いた。
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