第5章 殺人事件とロケット (2)


・・・♪・・・


 のろのろと自分の部屋を逃げ出したわたしは、気がつくと河川敷に来ていた。それは、あの日と同じ道順で、違うことといえば、わたしの着ているのが麦わら帽子ということと、あの日に比べてずっと体力があるだろうということだ。少なくとも、引き蘢ってはいなかった。

 犯人は誰か――それは確かに問題だった。しかしそれ以上に、殺されたのは一体誰なのかという点が、わたしを悩ませていた。殺されたわたしは、王子様として殺されたのか、それともわたしのフリをしていたのから殺されたのか? もし後者なら、問題はまた少し入り組んだものになる。なぜわたしが殺されなければならなかったのだろう? わたしは何か個人的な恨みを抱いていたのだろうか。あるいは、この殺人は、しるしを目的としたあの事件の延長線上にあるのか。

 いずれにせよ、わたしはまた生命の危機に立たされている。ここでは、取捨選択というのは、より実質的な力を伴ってわたしを責め立てているのだ。そして、今のわたしには自分を守る殻がない。エグゾゼは置いてきた。新しいバレッド・ワンは仲良くやっているだろうか。

 高架線を抜けた先に広がる風景は、あの日とほとんど変わっていなかった。わたしはまたしても秋を幻視する。しかし、かつてよりはずっと弱く。そしてカーンという音を聴いた。誰かがバットを振っていた。

 白衣のわたしだった。白く長い裾を波打たせながら、彼女はスニーカーを一歩踏み出し、金属バットを薙いだ。緩やかに落ちていた白球は、突如閃いてカーンと鳴き、夏の分厚い空気を貫いた。余韻の中に彼女はバットを地面につけて、ボールの行方を目で追っていた。それは、茂みに落ちた。ホログラムの逆三角形が浮かび上がり、所在を報せてくる。フィールドのあちらこちらには、もうすでに無数のアイコンが並んでいた。彼女はしばらく打ち続けていたみたいだ。

 額の汗を拭って、溜息を一つ吐き、そして側のかごから新しいボールを取り出すわたしに、声を放る。

「やほ、わたし」

 彼女の肩が跳ねた。恐る恐る振り返り、しばらくの間、わたしを見つめてくる。何かを探るような視線だった。わたしは自己紹介をしようとして、有効な名前の死んでいることを思い出す。わたしはもうバレッド・ワンではない。自分がエグゾゼを着たままここにやってくるシーンを想像して、少し可笑しくなった。

「花屋を失った者です」

 とわたしは言った。

「ああ、きみがそうなんだ。いや参ったな」

 とわたしは白衣のわたしは答えた。目が泳いでいる。明らかに挙動不審だった。彼女は何度か大きな深呼吸をし、金属バットの握りを強くする。そして、そのままわたしに向けて歩いてきた。

「どういうことだろう」

「その前に」とバットの頭をわたしに向けた。「わたしが先に質問したい。きみは本当に生きているの? 幽霊とかじゃなく?」

 わたしは笑おうとした。でも否定の言葉を飲み込んでしまった。

「ちょっと難しいな」と素直に言う。

「難しくないよ。調べる方法は簡単だ。――動かないで。許可なく動いたら、多分わたしはきみをこれでぶっ叩く」

 バットが空を切った。わたしは怖じ気づいてそこに立ち尽くした。彼女はまずバットでわたしのお腹を押した。結構重く、みぞおちを刺激したので、わたしは嗚咽を漏らした。それで彼女は少し安心したようだ。ぐっと近づいて来て、わたしの頬に手を当て、

「――温かい」と言った。「幽霊では、ないみたいだね、とりあえず」

「疑惑は晴れた?」

「納得は仕切れてないけどね」

 彼女は唸った。

「いえね、待ってたんだよ、きみのこと。正確には、待っててくれって頼まれた。”花屋の主人を名乗るものが来るはずだから”――って」

 彼女はまだわたしの頬を弄んでいる。そしてわたしは為されるままにしていた。

「でもさ、考えてもみなよ。花屋の主人は死んでるんだ。殺された。じゃあ誰が来るっていうんだ? 幽霊は勘弁願いたいよ、怖過ぎる」

 わたしはホラーが苦手だった。

「納得できるわけないよね」

「聞かせてくれる?」

「ゾンビか入れ替わったか、だ」

「なんだ、分かってるじゃない」

 そう答えると、わたしは怯えた顔をした。距離を開けて、バットをしっかりと持つ。

「どっち?」

 わたしは笑った。あるいはそのどちらも正しいのだ。


 彼女は賭けで負けたのだと言った。それで、わたしを待っていたのだ。バットの頭で地面に図形を描きながら、彼女は教えてくれた。殺人事件が起こり、犯人はまだ捕まっていない。それでも裁判ははじまるのだ。犯人は捕まっていないだけで、容疑者は常に決まっているし、今回はその動機もはっきりしている。

「しるし目的」とわたしは繰り返した。

「そう。現場にね、そう残されていたんだって、書き置き。あとわけのわからない言葉も一緒に添えて。随分長い文章だよ。あれは頭がどうかしてるね。皆がそう思ってる。わたしの混乱している時の文体だってさ」

 その書き置きを要約すると、こういうことになる。そのわたしは、しるし目的で何件も殺人を起こしてきた。ですわ姫と、花屋のわたし(元王子様のわたしだ)以外にも、何人も殺してきたらしい。そして、ここ数週間の間に、その数は急増しているみたいだ。

 わたしは、海上での戦闘を思い出した。人を一人殺すだけでも、あんなに疲弊したのだ。それをこうして継続するには、一体どれほどのタフネスが要るのだろう。わたしは、そんなに強い人間じゃない。だからエグゾゼを下りたのだ。

「さて、そんなわけで……今回の裁判のトピックはこうなってる。”そんな人殺しのわたしが、果たして地上に帰って良いのか”――あるいは――”そんな異常が生じる可能性のあるわたしに、地上に帰る権利があるのか”、とね」

 彼女は籠の中からボールを取り出して、こちらに放り投げてきた。わたしはそれを両手で受け取った。

「ちょっと投げてよ。わたしが打つ。わたしの個人的な賭けに付き合ってくれ」

「いいけど――」

「わたしは正直言うと、きみを信じられていない。ネガティブ半島から帰って来たって? はは。きみは本物の花屋の主人? 証拠って、ないよね。――だから」

 彼女はわたしにバットの切っ先を向ける。

「プレイボール」

 そう言う彼女は疲れたような顔をしていた。それは次の瞬間鳴りを潜め、つまりはわたしの見間違いだったのだが、わたしはそこにより一般的な悩みを見る。他のわたしが彼女の表情に共鳴していた。

 それはですわ姫かもしれないし、あの王子様かもしれない。彼女とは別の白衣のわたしかもしれないし、このわたし自身かもしれなかった。ともかく、はためく白衣の中で、彼女は多重的なわたしとして、そこに顕現していた。

 その表情の意味を考えながら、わたしは彼女と距離を取る。草むらから生えている逆三角形のホログラムは、付箋のようにも見えた。あの茂みの中に、なにか琴線に触れる事実が隠されているのだ。あるいはそれは暗喩かもしれない。しかしその正確なところは、付箋を張った者にしかわからないのだ。

 わたしは振り返って、ボールを握った。ピッチャーをやるのは初めてだ。バットを構える彼女は、わたし独特の侍みたいなポーズで、そこに立っている。目つきは暗く、しかし鋭かった。闘うような目。

 彼女が背負っている青空は、その圧倒的な体積でもって彼女を押し潰そうとしていた。あの水路から溢れて、今彼女の暗がりを糾弾している。彼女の夜はこれ以上ないほど凝縮されていた。もう彼女は逃げることはできないみたいだった。

 その一方で、このわたし自身はそんな圧力を感じていなかった。空の重さを感じるためには、天蓋はあまりに遠過ぎるのだ。手を伸ばしても届かない物事の重さなど量れない。

 彼女のバットが、それでも、夏の日差しをぎらりと返す。それは彼女に残された風前の灯火であり、最後の領土だった。

「投げるよ」とわたしは言う。

「いつでもいいよ。心は決まっているんだ」

 わたしはボールを投げようとした。

「きみは、どうだい」

 彼女のその問いに、わたしは動きを止めてしまう。わたしの、覚悟。ぽつりと来た。頭の丁度真ん中を、雫が打った気がした。彼女の頭上の空はまだ明るい。雲は兆していない。わたし達の街は今日も快晴だった。そのはずだ。でも、今雨が降った?

「なに対しての」と尋ねる。

「これからどうするつもり? きみに帰る家はないでしょう、もう。あそこは閉じられているし、きみは死んでいる。殺されたのは、きみだ」

「でもわたしは――」

「――生きている。知ってるよ。さっき確認したし。でもね、お化けなんかいないんだ」

 むしろ、この宇宙船にはお化けしかいないということになる。生命が一回性を前提としているとすれば、わたし達はその外側にいて、人はそれをお化けというのだ。しかし、それを通常を逸したものとして新しく設定し直すなら、わたし達は誰もお化けでないと言える。ここでは、生き死には環を描いている。この環から抜け出す時というのは、わたしが初めて肉体を持つ時なのかもしれない。そしてその時、ミクニ・ライカという名前はただ一つの有効なものとして機能をはじめるだろう。

「きみは今、この街を彷徨う亡霊だよね。きみはこれからどこへ行くの? どこへ行きたい? ねぇ、わたしは本当に――”どこか”へ行けるの?」

「心が決まったか、って、そういうことね」

 わたしは言って、ボールを持ち替える。

 まだ答えは見つかっていなかった。わたしはまた名前を失ったのだ。「花屋さんを営む」という形容詞節は、機能を停止した。殺されたから。またしても、名前が死んだから。

 わたしは白球を振りかぶる。わたしの右腕で、しるしが伸縮するのを感じた。そう、この右腕だけが、わたしに残された最後の名前である。しるしを持ったわたし。

 これは対決だった。”白衣のわたし”もまた集合的な名詞なのだ。白衣を着ている人間などいくらでもいる。脱げば誰でもないわたしが残る。辛うじて、彼女はその薄布一枚でもって、自身を立たせているのだ。

 一歩を踏み出して、投げた。あらん限りの力を込めた。叫んだかもしれない。分からなかった。気がついた時には、手を離れる白球が、白衣のわたしの振るバットに当たるところだった。カーン。ボールは空を抜けた。わたしは翻る。そこには灰色の雲が敷いてあり、ボールはその下に紛れてしまった。わたし達は二人して、行方を見失う。ほどなく草むらの揺れる音が聞こえた。わたし達の決闘は、数ある付箋の中に紛れてしまった。

「コンティニュー?」とわたしは尋ねた。

「結構。――これも一つの賭けさ。わたしはきみを信じることにする。きみはネガティブ半島に行って、帰ってきた。OK、認めるよ」

 そう言って、彼女は金属バットを放り投げる。

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