第5章 殺人事件とロケット (1)

 海岸警備隊のコートを処分したわたしは、自分の部屋に戻ろうとした。コートがないだけで随分気分が楽になっている。両手が空いているというのは良い。わたしは空を仰いだが、初めて抱きしめることができたようなものだ。ふたりだけ。

 今や王子様の地位はあのわたしのものであり、わたしは再び平民に戻ることができた。後は、乞食に扮している本当の王子様を見つけ出して、この入れ替わりを解けば良い。とりあえず、この捻れを直したかった。コートの処分はその一環だ。

「一環?」とわたしは呟いた。「じゃあ全体ってなんなのさ」

 この世界には実に様々な形式の捻れがあるように思われた。即席の「王子様と乞食」劇、ポジティブ市とネガティブ半島の戦争、エグゾゼとわたし。これらはただの対比として置かれているのではなく、仕組まれたものなのだ。誰に? もちろんわたしだ。

「そうなのかな」

 しかしそこまで面倒な構造を、わたしが好んで作り上げるとも思えなかった。あるいはこれは与えられたものなのかもしれない。それとも、捩じれている事態が、正当な繋ぎ方なのだろうか。宙に浮いた蝶結びがあるとして、どちらが正面なのかと問われれば、きっとわたしは困惑するだろう。

 片手袋のわたしがくれたお小遣い代わりのクレジットを使って、わたしはいくつか買い物をした。麦わら帽子と白いワンピースとビーチサンダルを買い、試着室でそれに着替えた。わたしは単純な発想を愛している。元の服は全て捨てた。一度やってみたかったのだ、こういう浪費を。

 新しい服装について、わたしは少し女の子が過ぎるかなとも思い、照れくさくなったが、夏の気には入ったみたいだ。心無しか暑さも和らいだような気がした。わたしは別の店でラムネを買い、涼やかさを口の中で転がしながら、陽炎の街をぽつぽつと歩いて行った。

 時間はかかった。単に遠かったのだ。徒歩で行けるような距離ではなかった。わたしはしばらく抵抗を続けていたが、結局途中からトラムに乗った。その逡巡に時間を食べられた。

 トラムの停留所から、わたしの花屋へはまた少し歩かなければならなかった。車内は微かに冷房が効いていたので、その時のわたしはすっかり元気を取り戻していた。懐かしい風景。どこを行くにもまず通った道だった。右を見て、左を見て、自分が日常線に戻ってきたことを確認し、わたしは自分の花屋を遠くに認める。

 花はさすがに届いているだろうか。わたしは店内にいっぱいに置かれた花を思い浮かべた。悪い光景じゃない。その想像に集中することにした。脳を溶かすような暑さの中で、それはビー玉みたいイメージだった。

 わたしは自分の住むアパートについた。ビー玉なんて転がってなかった。口の中で転がしていたイメージは、こぼれ落ち、砕け、その破片は一瞬にして蒸発してしまった。更にわたしの魂は根こそぎ吸い取られてしまった。店の前には虎模様の紙テープが張ってあり、わたしは次の文字を読む。

 KEEP OUT――立ち入り禁止。

 わたしの王国は閉ざされていた。戸惑って周りに助けを求めるが、誰もいない。わたしの街は凪いでいた。トラムの中でも、服飾店でもわたしは自分を見た。だから誰かはいるはずだった。しかし、今は見当たらなかった。立て札も何もない。

 黄色い蜘蛛の巣を潜って、わたしは自分の店に入る。止められる筋合いはないはずだ。店の中は静かで、埃が積もっていた。少なくとも数日は経過しているようだったし、一週間は経っているかもしれなかったが、数十年ということはないのだろう――わたしは最初にこの店を開けた時のことを思い出した。

 冷蔵庫は死んでいた。中にはなにもなかった。誰かが処分してくれたみたいだ。では、そういう時間はあった、ということになる。閉鎖は時間をかけてなされたようだ。

 階段を上って、わたしは自分の部屋に向かう。埃が安物のマットレスのように敷かれている。わたしが踏む度に舞い上がった。サンダルの口から侵入し、指の隙間に引っかかる。シャワーを浴びたかったのだ。水はまだ通っているだろうか。わたしは否定的な気分だった。冷蔵庫さえ死んでいるのだ。水道だけが生き延びているわけがない。

 空気は淀んでいた。それは不吉な波長を帯びてわたしの肺に入り、不安を身体中に巡らせた。汗が滲み、あっという間に気化する。わたしは両腕を抱き寄せて、一つずつ階段を上っていき、叫びたくなるような心細さの中で、自分の部屋の前に立つ。

 扉は半開きになっていた。

 誰かがいるみたいだった――それは予感だった。でもより正確に言うならば、それは実体を持たないものの気配であった。かき混ぜられた意思のようなものを感じた。統合をなくし、無作為に配置された、前人的なものだ。

 わたしはそっと扉を押す。そして、予想が当たっていたことに、苦い溜息を吐いた。

 誰かがここで殺されたみたいだった。部屋は荒らされており、至るところに黒い染みがついていた。時間の経過のせいでそれらはすでに乾いており、ひび割れていた。辺りに曲がって置かれた枕とか、ベッドから落ちたシーツだとか、床に散らばった本の上全てに、乾涸びた斑点が付着している。それは、その物事自体がのひび割れに見えた。わたしの部屋を構成する要素が、汚され、殺されている。死は散在していた。

 それはわたし姫の死んだ現場と似た状況だった。殺されたのはきっとわたしだ。わたしは自分の両腕を抱く力を強めた。人殺しはここでも、まだ継続している。エグゾゼという名前の生きていたあの海上とはまた違った仕方で。特別な名前の奪われたわたしは、もっと根源的な脅威に晒されていた。死は唐突に降り掛かる――それがここのルールで、多分それは、ここだけに限った話じゃないのだ。

 犯人は、とわたしはまた尋ねてみた。わたし以外に誰がいるのだ。

 頭を抱えて、うずくまった。

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