第4章 ネガティブ半島・後編 (6)
・・・♪・・・
「きみは帰るべきだ」
と後ろからわたしが言った。
彼女は片手袋のわたしだった。あの後、中庭で訓練の様子を眺めていたわたしの下に、彼女は現れて、わたしをここに連れてきた。どうやら倉庫のようだった。あるいは格納庫。
彼女は折りたたみ式の椅子に腰を下ろしていた。革靴を脱ぎ、靴下を脱いで、素足を晒していた。肉と金属が溶け合ったような造形のそれは、異様だった。どちらがメインになっているのか、わたしにはよく分からなくなる。混乱した。
そこにはある種の魔法が通っていた。彼女は魔法を使ったのだ。この倉庫の扉を開けるためには、掌紋認証が必要だったが、彼女は掌の代わりに、機械の融合した足の平を使った。
掌でない理由は簡単だった。ここの機械は、ただの道具ではないのだ。むしろ、それは彼女たちと同じ地平に地位を置いている、大きな構造体の一部である。彼女の素足が特殊な風に置かれた時、そこに広がった光の模様は、まるで木の根のように見えた。
そういうことになっている。
「なぜなら、それがきみが生かされている理由なんだよ」と彼女は言った。
「どういうこと?」
「きみにはここの様子をきみ達の街の人々に報せて欲しい。今からきみは宣教師となる。わたし達の言う天国の意義を、〈猶予器官〉の停止を説いて回るんだ。これは新しい使命だよ」
そう言う彼女の目に一切の曇りはなかった。彼女は心の底からそう言っているのだ。かと言って、その使命とやらを妄信しているわけでもなかった。つまり、彼女はわたしが彼女の言う通りにするということを特に信じているわけではないのだ。
「わたしが黙っていたら?」
「可能性は拘束できない」とわたしは言う。「それに、きみが初めての人ってわけでもないんだよ、ここに来て、あの街に帰るのは」
「え、そうなの」
「歴史は長いからね」と言ってわたしは笑った。
「でも、なにも変わってないよ」
「きみはそう思う? どうだろうね。物事が変わるのには、とても長い時間が必要なのかもしれない。きみのお店に花はまだ届かないんだろ?」
「うん……」
「でも、きみは待ってる」
「うん」
「そういうことさ。わたしも待ってるんだ」
何を、とはもはや尋ねなかった。わたしはただ頷いた。
天井から吊るされているエグゾゼは、尾びれを床に向けていた。わたしがその腹を撫ぜると、エグゾゼは目を覚ました。掌の通った道に光の線が敷かれ、それが全身に広がっていく。植物が根を介して地中の水分や栄養を吸い込むように、情報が広がった。それは呼吸だった。
百年ぶりに水面に出た鯨みたいに深い溜め息をついて、エグゾゼが胸を開いた。内面は滑らかで、暗く、ひんやりとした空気が流れてきた。わたしのにおいがする。胸郭の内側には肋骨のように隆起しているものがあるから、わたしはそれに足をかけて上り、エグゾゼを着る。
「本当に行っていいんだね?」とわたしは肩越しに振り返って尋ねた。
「きみのいるべき世界へ、どうぞ」
わたしは別れの言葉を探した。奇妙な間があった。歯車が噛み合っていない――似た感覚は、ここに来てからずっとあった。わたしはここでは部外者なのだ。でも、この時に感じていたのは、それとは少し違っていた。わたしは、親しみを感じていた。この地下都市が、埋没しているというその状況が、わたしにはぴったりくるように思えていたのだ。わたし達は死んでいる。ゾンビのようなものである。ならば、この地面の下こそが、正しい場所なのではないか?
片手袋のわたしは、椅子を展開して床に置いた。革靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、秘密を露にする。
足の平を床に押し当てる。きゅっと捻る。倉庫に信号が走り、エグゾゼの正面で、鉄の扉が左右に開いていく。それと同時にわたしの周りに壁が生える。壁は一直線に並んでいて、扉の向こうへ続いている。また、そこにはレールが敷いてある。今はまだ電荷のかかっていない、金属の線。それらがわたしの進路を水路へ導いていた。
エグゾゼが胸を閉じる。わたしは暗闇に閉ざされる。エグゾゼの内面が膨らんで、わたしを圧迫するのを感じた。決して強くなく、包み込むような柔らかさがある。じわじわと温度は上昇し、やがてわたしの体温と平衡しする。わたしとエグゾゼの境界は意味を失くし、わたし=エグゾゼは目蓋を開く。
情報が流れてくる。赤く色の着けられた、エグゾゼの機械の言葉、視界、そして今はわたし自身の内側から生じる風景だ。わたしとエグゾゼのどちらからともなく、レールに電荷をかけることを要請する。倉庫は速やかに応える。レールが発光し、水路の先まで灯りが灯る。
進路はクリア、オールグリーン――そういう思念が沸き起こる。天候は? とわたしは自問する。わからない、とわたしの身体が答える。ここは地下だもんね、とわたしは自分に頷く。
「じゃあ、行ってきます」
そうわたしは言ったつもりだった。意識を翻して、わたしは片手袋の自分を見る。彼女はまだ、椅子の上に、素足を組んで座っていた。彼女にはわたしの声は聞こえないみたいだった。今のわたしは人間の言葉を発することができないのだ。
わたしは彼女に靴下を履いて欲しくなかった。
せめてそのまま靴下を履かないでくれと願った。あの幼い素足は、わたしに小さな頃を思い出させる。それも、借り物の記憶としてではなく、もっと実感のあるものとして。実際に今ここで、わたしは成長しつつあるのだ。あの中庭で訓練を続けるわたしが、その小さな足に象徴されている、そう思った。
わたしはエグゾゼのカメラを使って、彼女の足を撮った。それはウサギの足のように、わたしに幸運を授けてくれるかもしれない。
ファインダー越しに、わたしが手を振った。わたしはシャッターを切った。それで、わたし達の別れは済んだ。
前を向く。
「バレッド・ワン=エグゾゼ、行きます」
撃鉄が起こされ、わたし達は電磁の加速に打ち出される。
・・・♪・・・
そうしてわたしは再び海に出た。潮風のにおいを嗅ぐことはないが、それでも風の中の細かな粒子がエグゾゼを介して伝わってくるような気がした。わたしは身体を縮める。速度が空気を圧縮し、エグゾゼがそれに応えた、それだけではなかった。わたしは孤独だった。周囲を見る。誰もいなかった。海の中に魚影はなく、海鳥の一匹も飛んでいなかった。ここは静かな海である。誰もいない。どうにか生きているのはわたし一人だけだ。
わたしを巡る赤色を除いて、他の色彩は欠けていた。意識を引っ繰り返して、空を見る。遠いところに空はある。しかし、その天蓋と、地下の天井に映し出されていた映像との区別が、わたしにはつけられないでいた。ヒレを広げて、仰いでみる。わたしの腕は、その中で、機械に阻まれてしまう。この拡大外殻の中にいる時、わたしは自分の身体の限界をより強く意識することを余儀なくされる。わたしは限定的な存在なのだ。わたしは窒息しそうになる。
「この宇宙船の空気はいつまで保つんだろうね」と呟いた。エグソセはなにも思い出させてくれなかった。この身体にも知らないことがあるのだ。
わたしは自分の名前を歌い出す。鼻唄。それは、かつて様々な色彩のわたし達がやっていたようだった。今、あれらは全て散けている。海底に積もっている。この死んだ海を回す者なんていない。万華鏡は単調の内に、静止したきりである。夏はきっと、終わらない。
海を半分ほど行った時、エグゾゼが警告音を鳴らした。海中から浮上するもがある、と報せてくる。武装は全て外されていた。わたしは身構え、それに反応したエグゾゼが緊張する。しかし、同時に危険がないことがわたしにはわかってくる。
味方だ。
水中から鯨が飛び出した。鼻先を宙に上げ、ややあって水面に腹を打つ。潮を噴く。高い水柱が立つ。それもまたわたしの名前を歌う。口笛。呼ぶようだった。わたしは間欠泉を避けて、鯨の背中を通り過ぎる。
「迎えにきたよ」と白い声が聞こえてきた。「やほ、わたし。お帰りなさい。とりあえず、着艦してくれ。街に帰ろう」
そう言った。とても軽やかな口調で、戦争なんてなかったような言い方だった。わたしは自分のことが信じられなり、切り離したくなった。しかし、わたしのヒレはすでに去勢されていて、何かを切断する温度を得ることなんてできなかった。鯨の歌声が、エグゾゼに介入してきた。主導権がわたしから剥奪される。頭の中を占めていた赤が脱色されていくのをわたしは感じる。頭の中が白くなる。身体が右に旋回した。鯨が口を開けている。わたしは自分の身体を止めることができなかった。尾びれの後で、鯨の口が閉じた。
・・・♪・・・
会議室のドアが開き、わたしは中に通される。円卓が置かれており、その周りには当然わたしが座っていた。部屋の奥には水槽があり、仮想データの魚が泳いでいる。部屋は暗かった。水槽の青色の光を受けながら、一人のわたしが手を組んでこちらを見ていた。
「バレッド・ワン」とわたしを呼ぶ。「ちょっと尋ねたいことがあるんだ」
多分指の関節のにおいを嗅ぎながら、そのわたしは言った。
「なんでしょう」
「きみはあの半島で何を見た?」
すぐに答えることはできなかった。わたしは質問の意味を探して、暗がりの彼女の顔を見ようとした。でもそれは上手くいかなかった。緑色の目しか見えない。
「質問を変えよう。実のところ、きみがあそこで何を見たか、何を説得されたか、わたし達は知っているんだ」
「そうなんですか」
「長い歴史があるんだ」とわたしは言った。「図書艦に行って、探そうとすれば、記録だってちゃんと見つかる。あのネガティブ半島がどのようにしできていて、あそこにいるわたし達が何を考え、どんな気持ちで、何を目的としているかも、ちゃんと知ってる」
「じゃあ、わたしはなんのために――」
あの傾いた潜水艦の中に、わたしの経験してきたことも圧縮されて収められている。そう考えると、自分が道化のように感じられた。いくら自由に振る舞ったところで、他の人々はみんなわたしの運命を知っているのだ。わたしだけがそれを知らない。本当に知らないのだ。道化ですらない。わたしはちゃんと調べるべきだったのだ。本棚の巨大さがわたしを威圧してきていた。
「――そう、だからわたしはこう尋ねたいんだ。”わたしはこれからどうするつもりなの”、って」
「わからない」と答える。
「うん、みんな最初にそう言うんだ。だからわたしはまた質問を変える、わたし達の街を守るためにね。きみは、あの半島の出来事を、我々が闘っているものの正体を、天国という可能性を、街の人々に言いふらすつもり、ある?」
その言葉はわたしの視界に重ねられてた図書艦のイメージを打ち砕いた。立ち並ぶ本棚は消失し、代わりに石造りの建物が並ぶ。移ろいいく様は、あのバーで観た映像のようだった。そこには健康なわたしが歩いている。戦争を知らない人たち。あるいは、知っていてなお、知らぬふりを続けている人々。
あの街に終焉が来るとしたら、それは一体どんな仕方でだろう、とわたしは思う。突如、終わるのか。まさか。あるいは蟹が攻め込んで来るのか。わたしはあの飯事みたいな空中戦を思い出した。あの六色の色彩が線を引く空と海。しかし、その遥か下方で、パイプによって、こことあそこは繋がっている。
パイプ。
過去は常にわたし達の身体を流れている。わたし達の身体を構成している。一分一秒の出来事を、積み重ねてきた一挙手一投足を自覚を、活かしたまま生きていくことは可能か。それは、正気の沙汰じゃない。わたし達は、だから知らないふりをしているのだ。もちろん、忘れてはいけないことだろう。この手の中にある人を破いた感覚は、そう簡単に消えやしないのだ。しかし、それでも、目を瞑るということが、わたし達の結論なのだとしたら。
「――言わないよ」とわたしは答えた。
確認するように、しばらくの間、わたしが見つめてきた。やがて口を開く。
「助かる」
そして会談は終わった。
鯨が基地についたとき、わたしは一度エグゾゼの様子を見に行った。そうすべきではないとも思ったが、それは一時的であれ、わたしの大事な身体の一部だった。だから、別れの言葉を言っておきたくなったのだ。
わたしはもうエグゾゼを着ないつもりだった。確かに空と海の狭間を行く感覚は、あの波飛沫は心地よかった。わたしにきちんと機能する名前を与えてくれもした。しかし、そこには常に罪の意識と血の臭いがついて回るのだ。思い出は汚されている。
エグゾゼは悪くない。エグゾゼはただの機械であり、ただのレクリエーションのための制服なのだ。悪いのは歪なわたしという人間であり、この宇宙船の構造それ自体なのだ。
腹を閉じたエグゾゼの表面はやはり滑らかで、眠っているその身体は冷たかった。わたしは頬を寄せてみた。無音が聞こえるだけだった。それでも、わたしはそこに命を感じたし、空虚の中に機械の言葉を読んだ。エグゾゼは何も言わなかった。ただ、穏やかな静けさが、頬と金属の境界を溶かして、わたし達の間を泳いでいた。
それで十分だった。わたしは、エグゾゼの腹を撫ぜていた指を離し、背を向けて、歩き出した。もう振り返らなかった。格納庫の扉が開き、閉まる。溜息のようなその音が、重なって聞こえてきた気がした。
久しぶりに訪れたわたしの街は、そこに住んでいた時よりもずっと優しくわたしを迎えてくれた。相変わらず夏の空気は濃く重く、わたしは息の詰まる思いをしたし、汗は治まるところを知らなかったが、それでもわたしは随分リラックスしていた。不思議なものだ。身体中の感覚器がそこをホームだと認識していた。わたしは喜んでいたみたいだった。
拡大外殻用のスーツは着ていなかった。代わりにジーンズと白いシャツを着ていて、その上からオリーブ・グリーンのコートを羽織っていた。季節を間違えた。馬鹿だなあ、と苦笑する。しかし、実のところ、自分でもなぜコートを着てきたのかはっきりしていなかった。
長過ぎるコートの裾は、地面を引き摺りそうになっている。わたしはコートを脱いで、丸めて、脇に抱えた。それでも暑さは好転しない。記憶の通りだ。二週間前がそのまま継続していた。革靴の石畳を叩く音が懐かしかった。今のわたしはわたしは地面の上にいるのだ。水の上や土の中ではなく。
歩いている内に、わたしは落ち込んできた。ねっとりと絡みつくような暑さが、わたしの力を奪っていった。氷が溶けるようにわたしはくたびれていった。だから、路地裏に逃げ込んだ。
そこは涼しかった。わたしは建物の壁に背中をつけて、ずるずると座り込む。見上げると空は狭められていて、わたしは水路みたいだと思った。雲はなかった。だから空は停滞していた。薄くぼやけた青色が佇んでいる。どこにもいかなかった。
「どうしたの」
とわたしの声が聞こえた。見上げると、そこにはわたしがいた。
「泣いてるの?」
わたしは驚いてしまった。
「いや、ちょっと疲れただけだよ」口が勝手にそう言った。それはわたしの本心だったみたいだ。涙が溢れてきて、わたしは泣いてしまう。
「大丈夫? なにかあったの」
優しい声だった。何も知らない緑色の瞳。胸の中に意地悪なものが兆した。それは黴のようなもので、いやもっと正しく言えば、それは停電のようなものだった。わたしの中心を通っている煙突の各フロアが、段階的に暗くなった。明かり窓だけが唯一の光の入り口だった。そしてわたしの頭上には、か細い水路が敷かれている。青空がわたしを突き刺した。
「ねぇ、わたし。きみは空を飛びたくない?」とわたしは尋ねた。
「空?」とわたしが聞き返す。
答えを待たず、わたしは自分にキスをした。
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