第4章 ネガティブ半島・後編 (5)
エレベーターの開く音は聞こえなかった。角を曲がって、車椅子に乗ったわたしがやって来る。彼女は視線を落としながら、車輪をゆっくり回していた。床のタイルを数えているようだった。意味もなくものを数える時はあるものだ。わたしはその自分との距離が縮まっていくのを見ていた。彼女は、廊下の途中で左に曲がった。
そこに自動ドアがあることに、わたしは今まで気づかなかったのだ。
中庭。
わたしは驚いた。病院の外とは違って、そこには光が溢れていた。不思議なことに、わたしは今までその空間に気づかなかったのだ。ずっと光は窓を透かしてわたしに向いていたはずだ。
車椅子の彼女を追って、わたしも外に出た。降り注いでいる光の正体を知りたかった。ここは地下だったし、外は夜なのだ。
穏やかな起伏のある芝生の中に、石畳が、蜘蛛の巣状に敷かれてあった。ところどころに、ホッチキスの芯みたいな手すりが刺してあり、屋根のついたベンチが置いてあった。ピクニックに良さそうだ、とわたしは思った。
日差しは柔らかいようで、空気は春のようにふんわりとしていた。わたしは正体を見極めようとして見上げて、やはり驚いた。天井には空が貼つけてあったのだ。
呆然と立ち尽くしていたわたしに、声が放られた。
「百年前の空だよ」
それは車椅子のわたしからのものだった。自分の声なのに、よく届いた。病人のようなわたしばかり見ていたから、すっかり忘れていたのだか、元々わたしは声の大きな人間なのだ。彼女は、他のわたしより健康そうに見えた。少なくとも幽霊のような肌色はしていない。
わたしは近づいた。
「空の映像記録を投影してるのさ」と彼女は続けた。「わたし達は空の必要な人間だからね、そうじゃない?」
「そうだね」
とわたしは答えた。雲の多い空だった。大きな塊が重なっていて、その隙間から青色が見えている。素直に晴れているとは言えなかった。ただの映像にしては、もっと確かな感触があった。
彼女がわたしをじっと見つめていた。
「きみは外の世界から来たんでしょ?」
「うん――いや、連れて来られたんだよ」
「まあ、そうだろうね」と彼女は言った。「だってちゃんと立ってるし、歩けるみたいだ。羨ましいな」
なんと答えればいいのかわからなかった。
「不思議な場所だね」
「外から見ればそうかも」と彼女は微笑む。
「ここにきみは何しに来たの?」とわたしは尋ねた見た。
「きみがそれを訊くんだね」と穏やかな光に溶けるように、彼女は笑う。「なぜなら、訓練のためだよ」
「訓練?」
「そう。足がさ、まだ上手く繋がってないんだ」
「繋がってない?」
「ちょっと捲って見てよ」
わたしは彼女の言うことに従った。ロングスカートの裾を持ち上げる。それはかなり倒錯的なにおいがして、わたしは頬の熱くなるのを感じた。秘密の香りだ。石鹸と汗と、それから消毒液のにおい。
「ね、わかるかな。薄く繋ぎ目があるでしょ?」
彼女の言う通りだった。右足の膝のすぐ下に、破線が引かれている。その間隔は大分広かったが、境界線の上下では発達の度合いが異なっているようだった。
「ここには二種類のわたしがいるんだ。目指しているところは同じなんだけど、その達成度によって差が出てくる。わたし達は、自分たちの身体を繋ぎ合わせるんだよ。あのわたしの右足を、こっちのわたしの右膝に――という具合に。継ぎ接ぎなのさ」
わたしは彼女の破線をなぞってみた。子どもの足みたいだ。まだ細く、しっとりとしていた。
「わたしは新しい試みなんだ。パッチワークは成功してる。比較的、だけど。普通はさ、機械で補正をかけるんだよ?」
彼女は誇らしげにいった。あるいは少し照れくさそうでもあった。
「じゃあ、あのわたしはそういうことなんだね」
とわたしは呟いた。思い浮かべていたのは、片手袋の、足を引きずって歩くわたしだ。
「機械ってことは、義肢とか」
「そうでもあるし、正しくはちょっと違う。あれはしるしなんだ」
「”しるし”?」
わたしはドキッとした。思わず自分の二の腕を触りたくなったが、スカートの端を持っていたので、それはできなかった。
「そう――どうしたの」と彼女はきょとんとした目でわたしを見ていた。
「なんでもないよ。続けて。しるしだって?」
「そういう機能もあるってことさ」と彼女は納得できない様子だったが、やがて忘れることにしたらしく、先を続けた。「わたし達は自分の出自を忘れないようにするために、そういう措置をとるんだ。メモリアル。至るところにある。――あのうるさい歯車を見たよね?」
わたしは頷いた。
「わたし達一人一人もメモリアルなのさ。ここのわたし達みんながそう考えてる。わたし達の身体に組み込まれた機械はさ、自分たちが完全なミクニ・ライカじゃないってことを教えてくれる――んだってさ」
否定的な調子で彼女は言った。
「でも、仕方ないよね。それが〈枯れ井戸〉のオーダーなんだ。〈枯れ井戸〉は〈猶予器官〉に劣るんだ。システムはあえて、わたし達を完全なクローンとして製作しないんだね。それで、劣等感が生じることになる。だから戦争が起きる。起きた。で、続いてる。それでわたし達が何を得たんだろう? 何も。何も得てない。ただ疲弊しただけで――でも、この闘争を止めることはできないんだ」 「どうして?」
「それが、わたし達に与えられた役割で、もう一つの、そしてわたし達のものとしてちゃんと機能してる名前だからだよ」
かつてわたしはエグゾゼと呼ばれていた。彼女たちは、その身体の欠損によって自分たちを識別することができるのだろうか。できるだろう。しかし、総体としては、彼女たちに違いなんてないのた。あの羊は元気で、この羊は引っ込み思案――それくらいのディファレンス。毛を刈られ、食肉にされるかもしれない運命の下では、無差別だ。
「――とはいえ、この世界を作った人間にとっては、わたし達のこういう悩みも興味のないことかもしれないね……」
と彼女は言葉を再び紡ぎ出した。
「このディファレンスが生み出すものがちゃんとあるのかも」
「どういうこと」
「この宇宙船で開発された技術は、全部モニタリングされてるんだ。需要を発見するのはわたし達だけど、実際に製作するのは宇宙船側の機械だからね。やつらは、その情報を逐一地球に送信してる。向こうから返信が来たって話は聞いたことがないな。その必要がないのかも知れないし、返す人がいないのかも知れないよね」
無人の通信室を思い浮かべた。暗い部屋で、明るく点滅する画面の下から、紙テープが延々と吐き出されている。それはもうすでに膨大な量となっていて、部屋をほぼ埋め尽くしている。椅子は倒れている。異臭がしている。情報の海の底に、腐乱死体がある、そのせいだ。
わたしは馬鹿げたイメージを追い払った。このご時世に、紙テープだなんて。
しかし、どれほど否定できるだろうか、とわたしは考え直した。まさか腐乱死体はないとしても、地球にまだ十分な人間が生きているかなんて、わからなかった。あの子だって死んだのだ。
「――もういいかな?」
と彼女は言った。なんのことかと視線を追って、わたしは自分が彼女のスカートを引いたままであることに気がついた。
「ごめん」
「いいよ」
彼女はホッチキスの芯に両手をかけ、歩き始める。彼女の課題は、足を引きずらずに歩くことにあった。片方の足を上げ、その間はもう一方でバランスを取らなければいけない。
それは普段のわたし達が意識していない動作だった。ここは地下なのだ。あの街の地平からずっと下方、とても深いところに今はいる。
「なんのためにきみは立つの?」とわたしは尋ねた。
「きみ達の街に行くのさ」と彼女は汗を垂らしながら言った。拭うことはできなかった。彼女は両手で手すりを掴んだままだったし、助けは断られるに違いなかったからだった。
「それで」
「〈猶予器官〉を破壊する」
言葉を失った。どうしてそこまで、と思った。答えは彼女がすでに言った。それが、役目だから。わたし達に与えられた自由は、限られている。それが自分たちの意思によるものだと思っていても、誰かが与えたものかもしれず、わたし達がそうと信じたいだけかもわからない。
幸運なことに、これは自由劇だ。
わたし達は、舞台の上で、好きに振る舞うことができる。自分たちの力で幕を引くことができる。それだけの余地は残されている。彼女は――つまりそれもわたしだ――この疲弊した物語を終わらせようとしているのだ。
「とは言うものの」と彼女は手すりに寄りかかって息をついた。「ねぇ、わたし。わたしが〈猶予器官〉を壊したいってのは、別に強い意志があってのことじゃないんだ」
わたしには自分の言っていることがわからなかった。
「わたし個人としては、きみ達に恨みはない。たださ、役割に従って、与えられた命令にだけ沿って、そこに全力を賭すのは気分が良いんだよ」
白球が閃くのをわたしは見た。
「正しいかどうかなんて、わたしにはわからない。手に余る。だから、とりあえず生きてみてるんだ」
と彼女は言った。
「でも死ぬために。ちょっと変かな」彼女は笑った。「最後に気持ちは変わるのかも知れない。義務なんかじゃないよ。ただほら、明日の朝ご飯を考えながら眠るみたいにさ、夜を繋ぐものが欲しいのさ」
近くのベンチに座って、しばらくそれを眺めていた。彼女は微妙な線上を歩いていた。辿るように、探るように。
ねぇ、わたし。きみは地球に帰りたくない? わたしはそう尋ねたくなった。それは切符のようなもので、わたしを殺せば手に入るらしいんだよ、と。
頭のてっぺんから言葉がすとんと落ちてきて、それはわたしの身体を透過し、地面に転がった。この時わたしは一本の筒で、足下には隙間があった。吹き抜けを、光のように言葉は通り抜け、地面に当たってそこで砕け、破片は辺りに散らばった。わたしは底の抜けた万華鏡みたいだった。
しかし、そのアイディアはわたしを通り抜ける際に、わたし自身の熱狂的な支持を持って迎えられた。そして、結局砕けてしまっても、歓声は止まなかった。まるで状態には興味がないみたいだった。ただその意思決定だけが重要だった。とはいえ、こういったテンションは、決して表出しなかった。わたしの空洞の内面が励起状態になっただけだ。つまり、こうしているわたし自身は冷めた目で自分の中に起こった変化を眺めていたし、それを不自然なほど客観的に捉えていたのだ。「わたしは、こう考えている」という認識だけが浮いていた。ひゅー、すとん。何かが通り過ぎ、砕けた。OK。ひゅー、ときて、すとんとなった、以上。この時のわたしは、植物としても死んでいた。
「ねぇ、空を飛ぶってどんな気分?」
彼女はそうわたしに声を放る。
「わたしにもさ、訓練が終わったら与えられるはずなんだ。
「気持ちよかったよ」とわたしは答えた。「生きてて良かったって思えた。なによりあの時のわたしは自由だった」
「それは良いなあ」
そう言いながら、彼女は空を仰いだ。わたしも釣られて上を見た。相変わらず空は閉じている。積み重なる雲が、でも高さを感じさせた。どこまでも――続くとはやはり思えなかったが、それでも、地上に想いを馳せるのには十分だった。
わたしの意識は分厚い雲を何枚か突き抜ける。その先、星々の間でしばし漂い、身体を捻る。下を見る。するとそこには青い惑星が置いてある。わたしは自分の身体が、透明な糸に絡められるのを感じている。少し恐怖を抱く。緊張している。でも本当は怖がることなんてなにもないのだ。引力は、わたしを優しく抱きしめる。わたしは加速する。空気の層に染みいって、やがて酸素圏に入る。地表が近い。緑で満ちている。わたしは尚も下降する。そして、ふわりと、着地する。そこには一つの四角い石が置いてある。墓標。あの子の名前が彫ってある。
そういうイメージを見た。
「ねぇ、わたし」と彼女は声をかけて来る。「きみはさ、地球に帰ったら何がしたい?」
わたしは密かな計画を彼女に話した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます