第4章 ネガティブ半島・後編 (4)

・・・♪・・・


 そして、わたし達は壁に辿り着いた。とても強固で、周りの岩肌よりもずっと確かに見えていた。一白く、漆喰に似ていたが、もっと違う物質から成っているのかもしれなかった。建物の前には街灯が並んでおり、花壇があった。でも花は咲いていなかった。その代わり、卵灯が差してあった。

 わたしは見上げた。壁は高く、しかし天井には届いていなかった。その隙間は実に狭く、鳥の一匹も通れそうにない。もちろん、こんな地下世界に鳥なんているはずはなかった。その閉塞感に、わたしは胸の詰まる思いがした。ここは本当に窮屈な場所なのだ。

 海の向こうのあの街には、それでもまだ空があった。それだって紛い物に過ぎないけれど、腕を伸ばして足りない広さがあった。空気は澄んでいた。たとえどんなに夏が濃く、重苦しかったとしても。

 無数に並ぶ四角い窓がわたしを見下ろしていた。人影は無い。人の気配はなかった。窓には十字架が嵌め込んであり、それは墓標のようにも見える。あるいは、あの一つ一つが棺なのだ。ここは死体安置所であり、あの窓は葬儀を待つための引き出しである。

 すっかり気が塞いでしまって、わたしは黙り込んでしまった。

 扉の入り口は、回転扉になっている。傘に守られている硝子製の歯車。わたし達が近づくと、それは静かに回りはじめた。ここにも歯車がある、とわたしは思った。この半島は、このようにして、機械仕掛けを隠していない。剥き出しの構造の中をわたし達は来たし、行く。それは、わたしのいたあの街とは対称的だった。

「工場へようこそ」とわたしは言った。

「工場?」とわたしは聞き返す。

 そこは、どうみたって病院だった。滑らかな床が敷いてあり、神経質なほど清潔感のある光が降っている。カウンターがあり、看護服のわたしがいた。あまり上等でなさそうなマットの椅子が並んでいて、そこで待っている人々はみんな楽な格好をしていた。色褪せたトレーナーとか、スウェットとか、ロングスカートを穿いていた。着方に気を使っている風では全くなかった。みんなくたびれた雰囲気を纏っていて、わたしは病のにおいをそこに嗅いだ。

 わたしは母のいた市立病院を思い出した。ここは、あそこに似ている。レイアウトは全く同じと言っても過ぎなかった。

「同じようなものさ」とわたしは答える。「自虐的ってわけでもない。表現をどうしようが本質は変わらない、でしょ?」

「はあ」

「ここは、工場だし、きみの思ってる通り病院だし、さらに跳んで死体安置所って言ってもいい。自由にしてよ。全部求める真ん中は同じなんだ。イメージの源泉は共通している」

 彼女はカウンターのわたしに挨拶をする。二言三言を交わし、わたしを振り返った。

「わたしは少し用事があるから、ここで失礼するよ」

「ええ?」わたしは驚いてしまった。案内人を失うのは不安だった。

「心配しないでよ。ただいくつか申請しなきゃいけないことがあるんだ。すぐ戻る。自由行動しててよ。はい、小銭」

 そう言って、わたしにクレジットを渡して、そのわたしはカウンターの向こうに消えた。

「はあ……」

 取り残されたわたしは、少しの間そこに立ち簿受けていたが、やがて待合室の端に自動販売機を見つけた。少しだけ喉が乾いていた。病院という場所は、なぜかいつも少しだけ喉が乾く場所なのだ。わたしは、紙パックのヨーグルトを買った。がたん、と落ちてくる。わたしはちょっとそのまま待ってみた。もう一つ落ちてくることはないだろう。そんなことを期待していたわけではない。ただ、自動販売機がものを落とした後には、物言いたげな余韻が残るのだ。

 しかし、自動販売機はそれ以上何も言わなかった。ストローを差しながら、わたしは椅子を探した。

 そこにいるわたし達は、ある者は雑誌を漫然とめくっており、ある者は爪の長さを見比べていた。

 誰もがチャイムを待っていた。とはいえ、特別待ち望んでいる風ではない。あのチャイムは、雲の切れ間から雨が降ったり日が覗くのと同じように、副次的なものなのだ。ここは病院だ。でも誰も急がない。急患はいない。静かに時が過ぎていた。

 結局わたしは窓際に座って、足を投げ出し、ヨーグルトを啜っていた。そんなことができるのは、ここではわたしだけのようだった。わたしだけが健康体なのだ。

 わたしは母の診察が終わるのを待っていた時のことを思い出した。母の体調がまだそれほど悪くなかった時は、わたしはこうしてヨーグルトを啜っていたものだった。あの時はどうしていただろう。確か本を読んでいたはずだった。

 幼い頃に何度も母にねだった本を思い出す。長い長い梯子を立てて、父が星を取ろうとしてくれる話だ。わたしはあれが特に好きだった。母もあの絵本が好きだった。なぜなら、あの父は本当にわたしの父に、彼女の夫に似ていたからだ。

 お父さんはね、わたし達に星を持ってきてくれる人よ、と母は言った。わたしはそれを信じた。彼女は繰り返しそう言ったはずだったが、わたしがこの時に思い出したのは、個人用の病室で寝そべっている母の姿だった。

 点滴の管を腕から生やした母ははにかんだ。

「わたしはそれを待っているの。待つーーって存外幸せなものなんだね。わたしはそんなこと知らなかった」

「そうなの?」

「そうよ。あなたのお父さんはいつだって先にいたわ。待つのはいつもあの人のものだった。ね、わたしは一度、二時間前に待ち合わせ場所に行ったことがあるの」

「どうだった?」

「やっぱりあの人はそこにいたわね。もうプランが台無し。近くのコーヒースタンドでキャラメルマキアートを頼もうと思ってたのにね――しかも、できるだけ不服そうな顔で」と母はおかしそうに笑った。「でもあの人は意地悪だったね」

「パパは意地悪なの?」

「いつだってね。本質的にね。エゴイスティックな人なのよ。――でも悪い気分じゃなかったね。そんなわけなかった。待っててもらうって、それもそれで幸せなことなのよ?」

「ふうん」と答えたわたしはあの時、どんな顔をしていたっけ。

「まあともかくね、わたしは一度でいいから、あの人のことを待っていたかった。今はそれ、叶ってるんだなぁ」

 彼女は空咳をいくつかした。わたしは心配になって母を覗き込んだが、彼女は爽やかに笑った。

「――ねぇ、ライカ。今回のわたしはきっと勝てるわね」

 その時のわたしは、なぜかはわからなかったが、次のように尋ねた。

「ママは、星が欲しくないの?」

「それはあなたにあげる。わたしも意地悪ね――あなたのパパに、わたしのあの人に勝てるのがとても嬉しいの」

 彼女の言葉には悲しい色なんて微塵もなかった。わたしはその後、なんどか、彼女がその時強がっていたのではなかったかと考えてみた。しかしこの目論みは尽く上手くいかなかった。

 結局、彼女は勝った。わたしの母は病気で死んだ。

 あの絵本はその後――どこにいってしまったのだろう。記憶はそこで途切れている。星の行方もわたしは知らない。

 環の中心には届かない。母にとっての星がそうであるように、わたしの花屋にとっての花もそうかもしれない。その到着を待つことを、母は幸せだと言った。 

 わたしは母を信じたかった。

 お母さん。

 わたしは泣いていたようだ。涙がぽつりと当たって、手の甲が濡れた。それは、掌を透かして、そこで体積を増した。またしても滑り気のある液体が零れ出した。

 くるっと返して、見てみた。思った通り、そこには傷口が開いていてた。また幻だ。わたしは人間を殺したことを思い出した。歪な状況を、いずれかのわたしは、病だと呼んだ。母は病で死んだ。病に殺された。

 じゃあ、母を殺したのは――遠くわたしということになるんだろうか……。同じ”病”という曖昧な名詞の下で、このアイデイアは存在感を持っているように、わたしには聞こえた。

 気分が悪くなった。わたしは小さく唸ってみたが、声をかけてくれる者はいなかった。

 刻一刻と視線が集まってきているようだったと。わたしは辺りを見回してみたが、誰かがじっと見つめているわけではなかった。それは仮想的な線なのだ。ひゅっと伸びてきて、わたしに触れる。蜘蛛の糸みたいに。その一本一本は空気のように軽いのだが、全体は次第に重さを増していく。わたしは外にいた時とまた変わった窮屈さを感じはじめていた。

 ここでは、わたしは部外者なのだ。

 ヨーグルトを飲み終わると、消毒液のにおいがした。わたしはこの宇宙船に目覚めた時を思い出した。あの時のわたしはあの目覚め方に不思議を抱かなかった。しかし、あれこそは異常な事態だったのかもしれない。わたし達はこういうにおいの中でこそ生まれるはずなのだ。消毒液と、そこはかとなく漂う不健康のにおいの中で。

 ついにわたしは我慢できなくなり、立ち上がった。紙パックを畳んで、自動販売機の横に置いてあるゴミ箱に投げ入れ、歩き出す。じっと待っているのは嫌だった。ここにいたままではわたしも病におかされてしまうだろう。もちろん、自身も病的な状況に置かれていることは十分わかっているつもりだった。わたしは空が見たかった。

 わたしが待合室を横切ると、一斉に視線が集まった。もはや遠慮はなかった。わたし達の視線は、全身を舐めるように纏わりついてきた。彼女たちはわたしの身体に故障を求めていた。しかし、それが思うように見つからないので、彼女たちは狼狽しているようだった。待合室の空気はぶよぶよしていた。ゼリー状。彼女たち基準がわたしを捉えようとしている。

 わたしは逃げ出した。ここではわたしが一番早く歩けるのだ。この意地悪な発想にわたしは悲しくなる。

 廊下を進む。身体が勝手に進路を決めていた。それは思い出が要請してくる道順だった。廊下を曲がり、いくつか診察室を横切った。その風景には見覚えがあった。

 これは、母の病室へ向かう道だ。

 そう気づいた時、わたしは足を止めた。目の前には、まだ廊下が続いている。母の病室へは、ここをもう少し行かなければならなかった。その先には階段があり、それを二つ上らなければならない。踊り場が二つがあって、次の階には子ども用の遊び場と売店があるはずだった。

 記憶は次から次へと蘇ってくる。遊び場では、小さな男の子が四つ上の姉と一緒に遊んでいるはずだった。いつもそうだった。売店では同じおばさんが売り物の週刊誌を読んでいた。

 わたしは混乱していた。この先に待っているのは、はたしていつなんだろう。そこにいるのは、どの時点の母なのか。入院しはじめた頃のまだ明るい母か、気丈な母か、それとも冷たくなった母か。圧縮された時間がわたしの頭の中で万華鏡みたいにちらついていた。

 それで、わたしはもうそれ以上そこを動くことができなかった。

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