第4章 ネガティブ半島・後編 (3)
・・・♪・・・
わたし達を乗せたゴンドラは水路を行く。
蛇の腹の中を行くようだった。脊椎からはいくつか卵灯が吊り下げられていて、それが暗い水面に影を落としていた。水面に揺れるそれを繋いでいくように、小舟は進んだ。
舵を取るのはわたしの役目だった。彼女がオールを渡してきた時、だからわたしは異議を唱えなかった。わたしはここでは捕虜なのだ。弱い立場にあるのだ。
とはいえ、わたしがろくに操作をしなくても、小舟は勝手に進んだ。わたしはただオールを持ったまま立ち尽くしてただけだった。
「舟歌は歌わないの」
そう尋ねてきたのは、片手袋のわたしだ。
「……お望みなら」
とわたしは答えたが、もちろんそんな気分ではなかった。
「そもそも歌えるの?」
「ううん」
「だよね」と彼女は笑った。「じゃあわたしが話そう。この水は、きみ達の街から通っているものだよ」
その割には済んでいるように見えていた。
「実はわたし達の半島にも、〈猶予器官〉に相当するものがあるんだ」
と彼女は言って、足を伸ばした。金属の擦り合う音が聞こえてきたが、それがどこから来るのか、わたしには分からなかった。
「わたし達は〈枯れ井戸〉って呼んでいる。そこから汲み上げられたものが、ここでは栄養として用いられているのさ」
「植物みたい」
「それが根とすれば、ここに通っている管は、細かな脈だね」
「ふうん」とわたしは応えた。「でもそれは枯れてるんだね――こんなに水があるのに?」
わたしの中で、二つのイメージが捩じれており、上手く結びつかなかった。大地から栄養を汲み上げる根と、枯れた井戸は、正反対の状態のように思えた。
「言ったでしょ、わたし達は保たないところまで来ているんだって」
それからわたし達は黙って水の揺れる音を聞いていた。穏やかな音色だった。海の上ではそうはいかなかった。
わたしがその水流に慣れて少しして、向こうから光が漏れてきていた。卵灯のものとは違っていた。もっと柔らかく、洗い立てのタオルのような感触があった。水面を泳ぐように近づいて来る。日向ぼっこを終えて湖に飛び込んだ子犬のようだとわたしは思った。一匹や二匹ではなく、十や二十の集団で。
そう考えると、少しおかしかった。身体に張りつめていた力場がふっと緩む。春なのだ、とわたしは思った。ゴールデン・レトリーバーも日に溶けるような季節なのだ。
懐かしい気分がこみ上げてきた。記憶の中のわたしは地上で何度も春を過ごしていたはずだ。当然だ。元々のわたしは四季のある国の生まれである。あの子とはどういう風に過ごしていただろう。わたしの要請に答えて、記憶は自然と浮かび上がってくる。わたし達はよく散歩に行ったものだった。近くの湖へ。
湖。そのイメージは、しかし、すぐにあの広大な海原によって侵蝕される。この宇宙船で目覚めたその日に観た、あの風景映画のように。二つのシーンの差異から溢れた違和感が、わたしの各部を混乱させる。わたしの背後に伸びている水路の奥には、あの海がとぐろを巻いていた。わたしを冷たい目でじっと見ている。わたしは振り向かなかった。
逃げるように、ぐっと船を押した。
少しだけ速度が増したゴンドラは水路に添って曲がった。広い空間に出た。それでわたしの目は眩んだ。
「外?」
「残念、ここはまだそうじゃない」
筒状の世界があった。中心は吹き抜けになっていて、上から光が差し込んでいる。水路は螺旋を描くように各フロアを繋いでおり、そこをわたし達は緩やかに下っていった。
各フロアには、人の気配がしていた。パン屋とか、床屋とか、そういう都市生活を構成する部品単位が、そこにも並んでいた。けれども、全体としてあまりに静かで、生命の気力に乏しかった。だから、わたしは病院を連想したのだろう。
「あれを見て」
そう言って白い手袋が、ドームの天井を指差した。そこから落ちてくる光はとても強かった。わたしは目を細めながら、それを観察した。確かに、日の光などではなかった。天井には硝子の海があった。
「外から降り注ぐ光は、あそこに蓄積される。いつも晴れるとは限らないからね。備えないといけない。硝子の技術は本当に進歩したよね。わたし達は、あそこで、日光を培養してるんだ。助かってる」
彼女はそう言いながら、ゴンドラから身を乗り出して、水をすくって見せた。水はとても透明で、光を閉じ込めているみたいに見えた。
「夏ほどってわけには、もちろんいかない」と彼女は言った。「でも、天国って呼ぶには最適な温度だね」
そして、掌の水を飲んだ。
「そんなにきれいなの」
とわたしは尋ねた。
彼女は答えず、笑って、手袋に浮いた水滴を飛ばした。
ゴンドラは途中のフロアに停泊せず、最下層まで降りてきた。そこには中心に広大な湖が広がっていて、いくつか小さな島があった。本当に小さな島で、ゴンドラを留めておくためだけのものみたいだった。島と島の間には桟橋がかけてあった。
もう一度見上げると、あることに気づいた。各フロには、空洞を遮るようにとても薄い皮膜が張ってあった。それは数階分重ねられた結果、わたしに一つの絵を見せていた。
天国の絵だった。とはいえ、未完成のようで、寂しい絵だった。画面のほとんどは黄金色の雲で占められていて、中央のカウチソファに、一人の女性が寝そべっている。それが誰かはすぐにわかった。あの子だ。
でも、どうしてわたしはそれがあの子だとわかったのだろう。抽象的な像だったし、特徴というべき特徴なんて無かった。顔はほとんど判別がつかず、彼女に独特の栗色の巻き毛だって、靄に紛れてよく分からなくなっていた。ゆったりとした青い布を羽織っていたが、彼女がそんな服を着たことはなかった。そもそも、彼女の家は仏教徒だったのだ。
あの子は神様を信じていたっけ、とわたしは考えてみた。そういう話をしたことはあったかもしれない。しかし良く思い出せなかった。
ゴンドラは岸に止まった。陸に近づいた時、小舟の脇からは機械の腕が伸びて、係留を掴んだ。意外な機能にわたしは驚いたが、そんなわたしを見て、彼女が言った。
「それくらいの芸当はやるよ」
言われてみれば、そんな気もした。
係留を支えに彼女は岸に上がり、足を引きずりながら、歩きはじめた。わたしはその後を着いていく。辺りに人は少なく、ほとんどわたし達だけのようだった。ここが栄えているシーンなんて、想像できなかった。そこはとても静かで、水の流れる音だけがしていた。風が吹いていた。でもどこから来るのだろう、とわたしは思った。
「こっちだよ」
とやがて彼女は言った。わたし達は壁の前に立っていた。卵が埋め込まれていた。水生生物のものみたいに、透明でぶよぶよとしていた。高さは二メートルほどあった。
「ここを降りていく」と彼女は言った。
彼女が近づくと、卵の透明な皮膜が破けた。上下左右に、それは破裂したと言った方が適切かもしれない。とにかく、わたし達は乗り込んだ。
卵の床は濁っていて、下の様子は見えなかった。意外としっかりしていて、そのことにわたしは安心した。
ほどなく、彼女の指示で卵の綻びは修復され――それは時を巻き戻すみたいだった――エレベーターは下りはじめた。厚い岩盤を抜ける間、彼女は壁に寄りかかっていた。背中を押し付けるようにして、足に力をかけないようにしているようだった。
「足が悪いの」とわたしは尋ねた。
あまり深いところまで聞こうとは思っていなかった。それは、同じ自分とはいえ、マナーに反するように思われたからだった。おかしな話、とわたしは自分を笑おうとした。
「わたしは、そうね」
と彼女は答えた
「きみは?」
「そう。ここの皆はどこかおかしいのさ。わたしの場合、それは足だね。あと手だ」
彼女はそれ以上説明しなかった。ただ、彼女は引きずっていた方の足の爪先で床を叩き、手袋の人差し指をこめかみの近くでくるくる回しただけだった。それは少しやりすぎな仕草に思えた。
彼女は力なく笑って、
「きみ達の街の名前はなんて言うんだっけ」
そんなことを尋ねてきた。
思えば、今までそのことを考えたことはなかった。
「わからない」とわたしは言った。
「そんなことあるんだね」
と彼女は確信に満ちたような笑い方をした。自嘲的な響きがあった。
「わたし達の街――この地下空間を、わたし達は〈枯れ井戸〉と呼んでいるんだ」
カレイド、とわたしは口の中で転がしてみた。
「……どうして?」
「いくつかの意味がある」と彼女は言った。「その理由もすぐにわかると思うけれど――そうね――ここにいるわたし達は断片的な存在で、それがくっついたり、離れたりしてるから、かな」
彼女は両手で筒を作り、それを覗き込みながら、くるくると回す仕草をして見せた。片手袋で、機械がわずかに擦れる音がしていた。それはわたしにモーターとかギアといった小さな部品を連想させた。
わたしの頭の中に閃くものがあった。
「万華鏡」
「その通り」彼女は下手くそなウィンクを弾いて、笑った。「きみは勘が良いね」
「いくつかの意味があるって言ったね」
「うん」
「それはどういうこと?」
「ここはさ、井戸なんだ」と彼女は言った。「井戸が何をするものかは、知っているよね?」
「水を汲み上げる」
「一般的にはそうだね。稀に溢れることを除けば――そういう時ってやっぱりあるんだよ――わたし達も汲み上げてる」
「何を?」
「きみ達の街が忘れてしまったことをさ。罪の意識とか、あるいは怒りとか。いや、こういう風にすぐ名前をつけるのは良くないかもしれないよね。きみ達はわたし達の住むここをネガティブ半島って言うでしょ? だったら、これは恨み節かもしれない……」
彼女は消え入るようにそう言った。
ちょうどその時、わたし達は分厚い岩盤を抜けた。宇宙に出たのかと思った。暗く広大な空間のそこかしこで、橙色の小さな光が瞬いていて、それが星空のように見えたのだ。エレベーターが下りるに連れて、その点は大きさを増していき、やがて卵灯であることが分かった。規則正しく並んでいて、列を作っていた。細い光の点線が合流して一つの流れとなり、それは更に集まって川となり、その先、岩肌に埋め込まれた壁へ注ぎ込んでいるようだった。
眼下には、一面に水田が広がっていた。いや、それは水田に見えたが、きっと違っていた。穀物が植えてある風ではなかった。鏡のように張られている水面をさざ波が走っていたが、その下では卵灯とは別に輝くものがあった。それこそが星みたいだった。クラゲのように浮き沈みしていた。
水田の――暫定的な名前はいつだって必要だ――それぞれの区画には、巨大な水車が組み込まれていて、それは水道橋に接続されていた。石造り。その肌には等間隔に卵灯が埋め込まれていた。わたしはその風景に圧倒された。
「こんなの、誰が作ったの?」とわたしは尋ねた。
「初めからあったんだ」と彼女は言った。
光がわっと強くなり、わたしが目をくらませた時、エレベーターは止まった。そこが終点だった。
エレベーターの個室を出ると、海のようなにおいがした。魚のにおい。水族館のにおいだった。ペンギンが歩いているのをわたしは幻視した。もちろんこのイメージは長く続かなかった。いや、正確にはわたしはすぐにこのイメージを捨てた。わたしがいくらペンギンが好きだったとしても、この夜の中をヒタヒタと歩かれては、堪らない。
だから、わたしはただ思い出の影を見ただけだった。あの子とよく通った水族館の風景が、目の前にオーバーラップした。この誘うようなにおいを、ここの人間は毎日嗅いでいるのだろうか。であれば、ここのわたし達は毎日あの子のことを思い出しているということになる。この記憶に訴えかけてくる海のにおい。それは、多分一番強いにおいだった。
酷い音がしていた。地面を揺るがすほどの、歯ぎしりにも似た音だった。水田に組み込まれた歯車がその原因だった。なるほどここは地面の下で、地獄のようなものかも知れないな、とわたしは思った。巨人が踠き苦しんでいるのだ。
「あれは何をするためのものなの」
と、わたしは若干声を張り上げて、歯車を指差した。
「何も」と片手袋のわたしは首を左右に振った。「何もしないよ。あれはただの象徴なんだ。メモリアル」
確かに、巨大な歯車は何も汲み上げていなかった。それだけ巨大な設備であるにも関わらず。だから、ずっと奥の建物に向かって伸びている水道橋も乾いていた。それは、砂漠で焼かれた骨みたいな色をしていた。
「象徴」とわたしは舌の先で転がしてみる。
「そう、忘れてはならないものを思い出させるためにはね、一見無駄に見えても動かしておかなければならないんだ。うん、恐竜の骨格標本みたいなものだよ――機械仕掛けのね――それともオルゴールみたいなものかな。とにかく、わたし達はここで鳴らしているんだ」
「うるさくないの」
「本当に大事なことは、いつだってそうだよね」
と彼女は言った。
それにしたって限度がある、とわたしは思った。歯車は、わたし達人間には出来ない声の出し方をしていた。それこそが狙いなのだろう。というよりも、ここにいるわたし達は、そう考えることにしている。
暫定的な話に過ぎないんじゃないか、とわたしは思った。突然閃いたこのアイディアは、わたしの頭の中を熱くさせた。マッチを擦る音が聞こえ、蝋燭に火が灯った。
「この音を、止めようとはしなかったの」とわたしは尋ねた。
「なぜ?」と彼女はきょとんとした。少し考えてから、「わたし達はここで生まれたんだよ。この騒音の中で。生まれる時は叫び声と一緒だし、そうあるべきさ。赤ちゃんはどうして泣くんだろうね?」
わたしはちゃんとは答えず、彼女の軽口を黙殺した。口の中で念仏は唱えたけれど。
「あの悲鳴は義務なんだと思うな」と彼女は続けた。
「――”忘れないようにするための”」とわたしはその言葉を引き継いで、「いいよ。それは正しいと思うし、立派だと思う。でもさ、あれは所詮機械だよね?」
彼女はむっとした顔でわたしを振り返った。そうするとわたしの方が少しだけ背が高いことに気がついた。履いている靴の底もあったろうが、彼女が引きずっている足は、わたしよりずっと未熟だったのだ。
「ごめん」とわたしは謝った。「きみ達にとって大事なものだってことはわかってるつもりだよ。井戸の一部だもんね。でもさ――ねぇ、わたし――きみ達はこの音が不快じゃないの? 苦しくない?」
彼女は再び前を向き、足下を見ながら歩き始めた。両足を交互に引きずるようにして進む様子は、わたしに思案中のカタツムリを思わせた。彼女はそれとも、誰かの落としたパンクズを探しているのかもしれなかった。
わたしは彼女の言葉を待っていたが、やがて帰ってきたものは、期待はずれのものだった。
「上に行けば、聞こえない。回避はできてる」
くぐもった言い方だった。わたしには辛うじて意味がわかった。
「本質的な話をしてるんだよ」とわたしは言った。「改善できる余地って、あると思うんだ。あれを壊せば、わたし達は平穏に過ごせるんじゃないかな。少なくとも騒がしさからは解放されて――」
「革命的」
と、彼女は手袋の人差し指を立ててみせた。はじめそれは元気に立ち上がったが、ややすると萎れてきてしまう。
「そんなこと、考えたことなかったな。ねぇ、わたし。きみは自分が何を言ってるかわかってる? それって難しいよ。頭の仕組みを変えるなんて」
彼女は悲観的だった。彼女の後ろ姿は寂しげだった。そこにわたしは個人的な感情の色を見た。それは周囲で騒がしく鳴っている歯車の悲鳴とはまた別の色彩をしていて、ほとんど掻き消されてしまってはいたが、まだ薄い靄のように彼女の表層で揺らいでいた。
劇場はまだ終わっていない、とわたしは思った。いや、それは終わった。しかし、それもまた大きな劇場の内側の中の話なのだ。この宇宙船わたし号という、一つの頭蓋骨の内側の。そんなことは、前からわかり切っていたことだ。でも、それは今、改めて浮上してきていたのだ。わたしの内側から、こみ上げてきた。この地下で。
「きみ達は自由になりたいと言ったよね。でもさ、その拘束だって、わたし達が望んだことじゃないんだよ」
ここが万華鏡なのだとすれば、覗き込むのは一体何者だ、とわたしは思った。この上には湖が広がっている。下から見上げればそこには、あの子の姿があるはずだ。まさか彼女ということもないだろう。わたしのここが悩んでいるこの仕組みを創造した者がいるはずだ。
「言い切るね」と彼女は言った。投げやりな、無気力な言い方だった。彼女は絶望している。それは、この宇宙船全体を占めるムードだ。ここにもそれがあった。でも、なぜだろう、わたしは彼女の背中に、多分それは心臓の辺りに、光るものを見た気がした。
革命。わたしが、このルールを打ち壊すとしたら、何が必要だろう。閃いたのは、エグゾゼだった。あれは今どこにあるのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます