第4章 ネガティブ半島・後編 (2)

「天国へようこそ」とそのわたしは言った。

「天国?」とわたしは聞き返す。

 そのわたしは答えなかった。わたしが手にしているコーヒーの缶を見て、頷く。

「ああ、コーヒーを淹れるんだね。わたしのもお願いできるかな?」

 そして横倒しになっている椅子を立ち起こしながら言った。

「でもマグカップが一つしかないよ」

「ちゃんと持ってきてる」

 そのわたしは、ポケットからマグカップを取り出して、わたしに手渡した。何かを隠すように、手袋をしていた。指の動きはどこかぎこちなく、かといって緊張してる風ではなかった。

「質問があるだろうし、答える人がいると思って」と、彼女はコーヒーを啜りながら言う。

「質問……」

 そうできるほど十分なインクが、わたしの身体にはまだ足りないみたいだった。まだ熱いコーヒーを、わたしは大きく飲む。そして案の定舌の先を火傷する。

「まさか何も考えなしに生きてるってわけでもないでしょ?」

 わたしは苦笑し、キッチンから言った。

「なんでそこまで言われなくちゃいけないかな」

 わたしは笑った。

「糾弾されるべき人間だからさ。違うかな、わたし? 人殺し」

 うっとりするような調子で、その単語はその場に弾けた。

 わたしはぎくっとした。居心地の悪い思いにさせられたが、しかし否定はできなかった。同じ人間であるという事実を盾に取ることもできた。自分を見て言え、と。でもそれはそのままわたしに返ってくるのだ。鏡に囲まれている気分。ここは、無限鏡の狭間である。

「天国って言ったね」とわたしは切り出した。

「うん」

「それってどういうこと?」

 わたしはマグカップを置いた。

「そういう名前をつけたのさ。この二進も三進も行かない状況にね」

「わたしはこの部屋に閉じ込められてる」

「そう、そうね。でも、きみだけじゃないよ。わたし達みんながそう。この宇宙船は一つの牢獄さーーきみも知っているように。ね、ここで生きて、それから死ぬことについてどう思う? ついでに生まれ変わるってことについても」

 そのわたしは別にこのわたしの答えを待っているわけではなかった。それは顔を見ればわかった。余裕があった。自分の中でちゃんと答えは出ているのだろう。わたしは、だから、黙っていた。

「欺瞞だよね」とわたしが言った。

「欺瞞」とわたしは繰り返す。

「わたし達は騙されている。復活なんてありえないよ。そういうことをするから、わからなくなるんだ。生きているのか――死んでいるのか――」

 そう言いながら、そのわたしは立てた人差し指を右から左に動かしてみせた。

「そういう生死不明の状況を、わたし達は天国と呼んでみた。わたし達は死んだようなものだけど、こうして考えることができるからには、生きている。少なくとも、意識は」

「肉体は?」

「その辺りの判別は、難しいね。でもわたしは死んでると思う。知っての通り、わたし達は誰が死んだのか良く分からなくなってるんだ。死体にナンバーが振ってあるわけじゃないし、もしそうしてもそれはあんまり意味ないよね」

 わたしは草原に置かれた無記名の墓標を思い出す。あの立ち並ぶ大きさの不揃いな墓石の群れ。今でも、あそこにあるのだろうか。あるのだろう。それはわたしを少し元気づけた。

「死それ自体は、集合名詞さ。たくさんの羊も一匹の羊も同じように羊って呼ぶんだ。それは、個人的なものじゃない。我々は死を自分のものにできない。ブラックホールの特異点に触れないようにね。ただ、儀式を通して、わたし達は死を個人に返す――それにしたって便宜的なものさ」

「ああ」とわたしは言った。「ここじゃ上手くいかなさそうな話だね」

「その通り」とわたしは、両方の人差し指を並べて立てて見せる。「ここでわたし達が儀式を経て、死を個人に返そうとした時、そこには齟齬が生じる。わたし達は死に切れない。ブラックホールとはまた違った意味で。時を重ねるほどに、わたし達は分裂していく」

 わたしは海の底に作られる地形を思った。

「コーヒーの底に砂糖が積もるように?」

「良い喩えだね。そういうことだよ」とわたしは笑う。

「でも、じゃあどうして――ねぇ、わたし――わたしはわたし達が死んでいるって思うの?」

 とわたしは尋ねた。

「だってまともに生きてないもの」と簡潔に言ってから、彼女は声に出して笑う。「これが正しい生き方だなんて、わたしには到底思えない。ちゃんと葬式を挙げることができたとすれば、それはオリジナルのわたしだ。わたしは死んだ。死んだはずの人間が、生きている。しかも無数に蔓延って。このわたし達は、みんなゾンビみたいなものなんだよ。わたしはそう感じるね」

「でもわたし達の身体はちゃんとしっかりしてるよね。腐ってないってことだけど」

 ここで、向かいのわたしは含み笑いを浮かべる。「ふうん、そう思うんだ?」

「どういうこと」

 尋ねると、そのわたしは手袋をつけた方の手の甲を見せる。指を下りた畳みながら手を返し、指を開けて平を見せた。手品のようだったが、ぎちこない動きだった。何も現れなかったし、何も消えなかった。

「それは後々詳らかになりましょう」と言う。「とはいえ、そうだね、確かにわたし達はゾンビじゃなさそうだ。仮にそうでも、そうは言いたくないよね」

「わたしはゾンビが嫌いだしね」

「そういうこと。彼らは身だしなみに気を使うべきだと思う」

「本当に」

 そしてわたし達は笑った。

 日に二度以上シャワーを浴びるわたし達にとって、あの存在は相性が悪いのだ。わたしは背を伸ばして歩くし、歩調確かに進みたいタイプだ。わたしはスタイルというのに拘る人間だ。好きな男性はジェームズ・ボンドみたいな人だ。しかしながら、ゾンビという輩は、ジェームズ・ボンドと真逆の存在である。恐ろしい。

「というわけで、他のアイディアを連れてこなきゃならなくなるね。死んでいるはずなのに、生きている――そういう重ね合わせの状態が許される状況ってのがあるとしたら……なんだと思う?」

 わたしの頭の中で、言葉が繋がった。

「それが天国なんだね」

「Genau」とわたしが頷いた。「死後の世界でのみ、それは可能になる。天国か、地獄か。でも、地獄って言うほど落ち込んだ毎日を過ごしてるわけじゃないよね。毎日楽しい! なら残された名前は一つだけさ。それともわたしは語彙が足りないのかな」

「どうだろうね……。わたしも他に思いつかないな」

 とわたしは答えて、わたし達はコーヒーをもう少しだけ飲んだ。同時にカップを置く。

「ねぇ、わたし。クローン・サイクルなんてのがあるから、わたし達は途方に暮れることになるのさ。面倒くさいことにね。今のわたし達は、もうダメだ。生きていることと、死んでいることの区別がついていない。それは、病だよ。人間は歪な状況をそう呼ぶんだ。生命への冒涜。その典拠がどこにあるかは知らないけれど、わたしはそう感じている。きみはどう?」

 静かな怒りの籠った口調で、そのわたしは言った。それはとても微妙な差異だった。

 室内の空気は、コーヒーの香りがする以外は透明で、わたし達の身体をその表層を溶かすようだった。温度はわたし達の体温とほとんど変わらず、湿度は適当だった。変化に乏しい空間。しかしだからこそ、そのわたしが些細な変化を発信した時、それはわたしに大きく変化として伝えられるのだった。

「というよりも――」

 とそのわたしはふと張力を緩めた。マグカップの取手を指先で押し、くるりと回す。中の液体はずっと少なくなっていたから、波の頭は見えなかった。ただ音だけを聞いた。溜息は、海の上を行く風のようだった。そこに沈んでいるものたちから逃げるように、諸々のことを考えないようにするために、走るように。歯を食いしばり、眉根を寄せた風だった。

「――疲れてしまったんだよ、わたし達は」

 海のイメージから、わたしは逃げ切ることができなかった。泡がわたしの足下で沸き、鉛のように床を潜行していくのを聴いた。幻聴には違いなかったが、かといって追い払うこともできなかった。細かい気泡がわたしの踝に蟠る。それがその内、もっと具体的な枷になるだろう予感をわたしは抱く。それが当然だとすら思ったし、そうなった方が楽な気もした。

 すっと床が透明になり、そこに海底が見える。わたし達は海溝の上に座っている。その裂け目は、どこまでも続いているように見えた。泡はその奥下へ沈んでいる。鎖のように、わたしを招く誘導灯のように。すっと、血の気が引いた。

「ねぇ、わたし」と尋ねられる。わたしは顔を上げる。疲れたような熱い目で上目遣いのわたしがいた。その熱量に、わたしは自分の頬が照らされるのを感じる。しかしながら、目は冷えきっていた。雪山の小屋に置き去りにされたビー玉のような目だった。

「きみは違うのかな……。ねぇ、考えない? いつまでこんなことを続けるんだろう、とか、なんのために、とか」

「いつだって考えてる」とわたしは言った。

 わたしはもう一人の自分を見ながら、足下の海溝を考えずにはいられなかった。そこに潜む引力と。繊維状の亡霊が、わたしの足下を撫でている。調べるように踝を触り、時折小さな泡を一つ増やし、そして元の場所に戻っていく。暗がりの底へと。一つ一つの卵は、全く違う機能をしており、多分全てのパーツが揃ったとき、それは爆弾になるのだろう。そうしてわたしは海溝に引きずり込まれる。

「”生まれ変わって”」とわたしが蟹の手を作って言った。「それで、わたし達が何を続けているんだろう……。箱を開けてみれば、なんと戦争だよ。馬鹿げてる。そう思わない?」

「そう思う」とわたしは言った。

「どうポジティブに見ても、これは喪失なんだ。自分自身と闘って、殺す。死ぬ。同じ人間なのにね。この無駄な消費が何を生み出すんだろう? 疲れるだけさ。実際に疲れてる」

 そしてまた溜息をついた。

 しばらくわたし達は黙っていた。わたしはコーヒーのマグカップに口をつけたままで、しかし一滴も飲まずにしばらく過ごしていた。が、やがてコーヒーを一口だけゆっくりと口に含んだ。

「こんなバカバカしいことはもう止めよう――と、わたし達は考えている。そしてこれは、きっと、この船にいるみんなが思っていることだ」

 その言葉の過激な色に、わたしは戸惑った。

 思想の対立がここにあるのだ。いや、それは対立ですらないのかもしれない。片方にはちゃんと組織化された意見があるが、もう一方のあの街で、わたしはそういう意見を聞かなかった。アンフェアだ。あの街のわたし達は、復活について言わなかった。それはあまりに普通のことで、意識の底にすっかり埋没していた。そして、だからこそ、わたし達は日々を気楽に過ごせていたのだ。

 わたしの中には、片手袋のわたしに共感いる部分もあった。そうだ、と。それがテーブルの向こうに現前している。わたし達は疲弊しているのかも知れない。あの夏の変わらない暑さに、街並さえ溶け出してしまうのだ。

 この海溝の上で、水の中で、そういった事柄について考えるのは、少し骨だった。

「本当に」とわたしは呟いた。

「間違いなく」とわたしが頷く。「もう保たない時が来てるんだよ。というか、これが無駄なことだってことは、薄々わかってるんだ」

「わたしのいた街では、誰もそんなこと言わなかったよ」

「でも、わかってたでしょ? 薄々感じてたよね?」

 わたしは答えることはできなかった。この場合、それは自分の言うことに同意したことになる。そして、その通りだった。

「ねぇ、わたしは天国って言ったけど、それも不完全なんだよ。あの子はどこにいるんだろう? 頭の中? 心の奥? 違うよ、そんなところにはいない。そこにあるのは、ただのコピーされた記憶だ。本物じゃない、借り物さ。本物のあの子がいるとしたら、それはあの集合名詞の向こう側なんだよ」

「死後の世界?」

 とわたしは言った。口に出して見ると、それは苦いしるし象があったが、それでいて酔わせるような響きがあった。わたしは好きになれそうになかった。年数を経たところで、その味わいが分かるとも思えなかった。ワインとは違うのだ。どこか腐敗した味がした。わたしは口の中をもぐつかせる。

 しかし、手袋の人差し指はピンと立てられて、嬉しそうに、左右に揺らめいた。わたしが言葉を続ける。

「そう。ここにいてはあの子に近づけない。今よりもっとワンランク上の、きちっとした、死後の世界にこそ希望がある。もうわたし達は自分を欺けないことを知っているんだ。全部徒労に終わってる。だったら……」

 そこで、不意にそのわたしは言葉を切った。言おうとしたことが立ち消えたみたいだった。あるいは、海溝に引きずり込まれたのかもしれない。

 そのわたしは、辺りを見回した。憑き物が落ちたような、あるいは自分が迷子だと気づいたような目だった。そうして見ると、わたしという人間は、思っていたよりも幼い人間のようだった。わたし達に教えを授けてくれる者は、ここにはいないのだ。記憶を頼りに、何かを考え、行動に移してみる。しかし、それが正しいかどうかはわからない。基準が無い。軸がないのだ。だから唐突に不安になったりもする。持続性の乏しさは、根拠の欠如にも由来していた。

「どこまで話してたっけ、わたしは?」と手袋のわたしは首を傾げた。

「わたし達は疲れていて、保たない時が来ているってきみは言ったよ。生きているかどうか自信がなくて、死に切ることもできないって。あの子のいる天国に行くために――」

 ここでわたしは言葉を切って、そのわたしが言おうとしたことを考えてみた。

「それで、きみ達ネガティブ半島の人たちは、《猶予器官》を壊そうとしているんだね」

 この言葉は、自分の言葉のようには聞こえなかった。どこかに無理があった。わたし自身の考え方から離れているような、あるいは層がズレていた。だから、頭の中でずっと軋むような音が鳴っているのだ。それはあのエグゾゼの最後の悲鳴にも似ていた。剥奪されて尚、わたし達の間には絆のようなものがあるみたいだった。それは、あれはわたしの味方だった。

 今、わたしは壁の前に立っている。一人だけで。背後にはわたし達の住んでいるあの暢気な街がある。思想が地面に埋もれた街。わたしは、ふと、自分が最後に残った沿岸警備隊なのだ、と閃いた。

 わたしは内心でくすりと笑う。違うでしょ、そういうシーンじゃないでしょ、と。

 向かい合うわたしは、ほっと一息ついた。自分の辿るべき文脈を手繰り寄せて、不均衡に笑う。人間だから、完全な左右均衡で笑うことはできないだろう。そうは思っても、やはりそのわたしの微笑みは少し不自然だった。力の伝わり方がまちまちだった。

 その理由が気になって、わたしはしばらく自分の顔を眺めていた。そうしてまじまじと見ているというのは、やはり不思議な体験で、中々慣れないものだった。やがて、わたしは違和感の正体に思い至る。それは初め単なる予感に過ぎなかったが、ついに確信に変わった。否定し難くなってきたのだ。わたしとそのわたしでは、顔の形が少し異なっている。

 これは大きな驚きだった。表情に表れていたのだろう、そのわたしは笑みを深めた。待ちわびた友人に向けるような笑顔だった。その通りと言うように頷いて、そのわたしは両手を合わせる。

「これは、わたし達の出自によるバリエーションさ」と言いながら、そのわたしは両手で自分の頬を挟む。「わたしと、きみでは、生まれが違う。きみが純正の成功品であるのに対して、わたし達は失敗作の紛い物だ」

 そのネガティブな物言いを否定しようとして、わたしは自分の思いついた言葉にギクっとした。それは彼女を慰めるためのものではなく、自分の正義を守ろうとする言葉になり兼ねないからだ。

 わたしは逃げようとしていた。目の前の現実から、より上位の価値観に。綺麗事の領域に。でも、そんなことは不可能なのだ。

 ここは、もう劇場ではない。あれは滅びた。そんな言葉は効かない。

 わたしの分身は人差し指を立てる。満足そうに。

「でも、次に移ろう」そう言いながら立ち上がった。「きみも来なよ。いつまでも部屋に引きこもってちゃいけないぜ」

「閉じ込めたのはきみでしょ」とわたしは辛うじて言う。

 みっともない反抗だった。

 誰が言おうと、正しい意見というのは存在する。わたし達は晴れているという事実に、そして、だから洗濯物を干すべきだという主張に対して、無防備だ。文化が異なれば、事情は変わるかもしれない。しかしながら、わたし達は同じ文化圏にいた。

「あるいは、それは、きみだね。そして、そう、それはわたしだ」

 彼女はそう言った。

 具合が悪くなった。

 椅子から立ち上がったわたしの前で、彼女はマグカップを振った。カップに残ったわずかなコーヒーを捨てるためだった。

 黒い雫は、白い床に点々と線を引いた。わたしは海の上で流された血液を連想した。彼女はマグカップをポケットにしまった。

 わたしはそういうことをしない人間だった。ありえない。でもどうだろう、これも可能性の一つなのだとしたら。

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