第4章 ネガティブ半島・後編 (1)

 透明の中で目を覚ます。室内を満たしている水塊は冷たく、だからわたしは身震いをした。正確には、そうしようとしたのだが、それは十分に実現されることはなかった。わたしの身体は損なわれている。眠っている間に、何らかの事件が起こり、その結果わたしの身体を構成する重大な要素が奪われたようだった。たとえばそれは大事な骨であり、あるいは神経の束かもしれない。もっと曖昧な、力場のようなものかもしれない。それら一切を含めて、わたしはこう感じていた。

 色調が失われている。

 もしくは、それらは、一晩の内にわたしの身体から溶け出して、この室内に拡散してしまったのかもしれない。わからなかった。

 わたしにわかるのは、わたしが酷く孤独で虚脱した状態にあるということだった。それはわたしの望んだことではなかった。権利の問題は知らない。そんなことが許されるのか、誰がわたしにエグゾゼを脱がせたのか、それはどこにも書いていなかった。この部屋は空っぽだ。横倒しの視界には、何も置かれていなかった。床と壁がある。

 硝子細工の人形。そういう気分だった。糸の尽く切断されたマリオネット。わたしは床の上に放り出されている。いや、この表現は適切でないかもしれない。わたしはこの室内を占める水塊の一部であり、身体など持たず、ただ思考だけがこの場に残されている。

 ゲル状の思考。わたしは瀕死のクラゲだった。

 わたしの沈んでいる場所は、まるで水族館の一区画のようだった。ここには水が満ちている。もちろん、仮想的な。空気は水のように重く、また抵抗が大きかった。呼吸はできる。わたしは概念的な水没状態にあった。起きながら夢を見ている。こんな脱力は初めてのことだった。少なくとも、借り物の記憶には見当たらなかった。けれども、わたしは別段怖いとは思わなかった。布団の中にいるように、安らかな気持ちだった。

 室内はとても静かだった。横倒しになっているわたしには、壁と床がその役割を逆転させているように見えていた。しかし、仮にそれが本当だとしても、何の不都合もなさそうだった。椅子と机は床に倒されている。そして、それらはリラックスしているように見えた。そういう場所のようだ。こうして寝そべっているのも、きっとこの部屋の文脈に添っているのだろう。そう考えると、より穏やかな気持ちになった。

 そうしてわたしは自分の身体が溶けていくのを待っていたわけだが、わたしの身体がそれを許さなかった。胸の奥底からこみ上げてくるものがある。それは細やかな反抗の衝動だった。あるビジョンだった。記憶だった。空だった。海だった。

 エグゾゼの中でそうされていたように、わたしの視界に、海が、空が、潮の匂いが侵蝕してくる。

 わたしはあの戦闘を思い出さずにはいられなかった。

 わたしは殺し、わたしは殺され、わたしは死んでいるが、わたしは生きているーーそのように考えられうる可能性は、一体誰のものなのだろう? わたし達は交換可能な同じ人間だった。

 あの死は、そして生は、その所有権は誰に属しているのだろう。わたしの名の下に、いつくもの状態が重ね合わされている。わたしはすっかり自信を無くしていた。

「わたし、ちゃんと生きてるよね?」

 問いはちゃんと言葉にならなかった。声は出なかった。声の出し方を忘れてしまったみたいだった。言葉はわたしの中で小さく発火しただけだった。泡すら作らないわたしの声は、この空間に何の影響も及ぼさなかった。肺の中まで水で一杯なのだ、とわたしは思った。

 生命とは、と考えた時、ここでそれはただの可能性に他ならないのだ。可能性。本当なら、それは、シャツを選び、髪型を弄ぶ時にこぼれ落ちる、他の選択肢と同じ程度の価値しか持たない。取るに足らない事柄。でも、この船の中で、問題はもっとデリケートだ。それらは肉体を持っている。

 機関銃の放った弾丸の反動は、影としてわたしの中に刻まれていた。あの時、それはただの力だったが、わたしの身体に潜伏する内に形を獲得していた。文字。あるいは言葉。わたしは、自分の身体を貫く空洞に、潮風の吹きすさぶのを聞いた。

「人殺し」

 ギクっとした。

 それはわたしの中で浮かんだ声だったが、まるで外から囁かれたように聞こえた。手が震えはじめた。別の自分自身を切断した時の感覚が蘇ってきた。

「ぬるぬるする」

 と意思に反して、わたしは呟いた。

 その言葉に導かれるようにして、掌が裂け、そこから赤い色が溢れ出した。それは流血のように見えた。紫煙を吐き出すようにして、血煙は立ち、水の中に拡散していく。わたしはもう一方の手で傷口を探した。指先に触れるものは何も無かった。

 幻を見ている。

 海上の経験は、新しい意味を携えて、と幻覚としてわたしの身体から湧き出ていた。ひどく複雑な浄水器に繋がれた水道みたいだ。わたしは蛇口。しかし、バルブを捻ったのは、別の誰かである。それはきっと、この室内を埋める水だった。


 エグゾゼを着ていた時、発砲と切断、そして飛行は、純粋な喜びを生産していた。でも今では、それはすっかり腐敗してしまい、姿を変えていた。生き物の腐る臭いをわたしは嗅いだ。それはただの死の臭いではなく、錆びた鉄をわたしに連想させた。荒れ果てた鉄の大地に充満していた臭い。罪の臭い。

 わたしは息苦しくなった。

 あの時のわたしは自由だった。あれは、わたしにしかできないことだった。あの時、わたし=エグゾゼはこの船にたった一人の存在だった。それは与えられた役柄であったとしても、確かに自分の心の命じるままに行動したのだ。

 しかし、今は違う。わたしはエグゾゼを着ていない。だから息苦しいのだ。名前は奪われた。わたしは辺りの仮想的な水分子からさえも自分を分離できなかった。戦争は終わり、劇場は開かれた。ここに残されたのは、誰でもないミクニ・ライカだけだった。

 一度、魔法が縫解けてしまえば、わたしは、自分が殺したのは、肉を持った人間であることから目をそらせなくなる。姿の無い幻覚の視線がわたしを貫き、縛り付けていた。

「仕方がなかったんだ」

 そう亡霊たちに呟いてみた。

 この言葉は虚ろに反響した。

 嘘が含まれていた。仕方の無いことなんてなかった。ただ、それはわたしの圏内の外側にあっただけだ。劇場は、わたしの生まれる前から、劇を続けてきていたのだ。その慣例を、わたしが、今更帰ることなどできたのだろうか?

「それが仕事だったし、じゃなきゃわたしが死んでたかもしれない」

 劇場の経営学なんてわたしは知らなかった。

 しかし、それで許されることでもないのだ。

 わたしの寝そべる床から、不安が泡のように沸き起こった。時間の流れは、きちんとした歩調を保っていないかった。瞬間を繋ぐはずの連絡は統率を失って、拡散し、実態は滅ぶしかなかった。

 わたしの分身の死は、あの殺人事件は、このわたし自身にもやがて降り掛かることかもしれない。

 その恐怖から逃れるためには、有効な名前が必要だった。でも、それは一体どこにあるのだろう。わたしは不当にエグゾゼを奪われた。そして、わたしも多分そのようにして、あれらの命を奪ったのだ。

 命が誰の持ち物か、わたしは知らない。生を受けると同時に与えられたものものという言説を、わたしは信じきれなかった。わたし達はクローンである。大量生産される工業製品の一つに過ぎない。

 《猶予器官》に愛はあるのだろうか? 愛、それはわたしの抱える一切の悩みを、預かってくれるに違いない概念だった。わたしが、正しく生まれてきたのだとすれば、それだけで、わたしは生きていけるだろう。わたしのお父さんとお母さんーー彼らは、オリジナルのわたしのものだ。このわたしのものではない。

 この船が地球を離れてから数世紀に渡って続けてきたように、わたしは自分の名前を探してもう一度室内を見回す。視線は水に溶け、先まで見渡せない。倒れている机と椅子。厚い氷のように不透明な壁と床。わたしは自分の手を目の前で開いて、閉じてみた。大丈夫、力はある。人間の手をしている。掌を床へ。冷たくはない。氷ではない。力を込める。力は入る。わたしは腕に力を入れて、身体を持ち上げた。持ち上がる。身体は人の形をしていた。いつまでもクラゲでいられないのだ。

 拡大外殻を着ていたことによる後遺症は、未だに抜け切らなかったが、それでもわたしは自分の身体感覚を取り戻しつつあった。成長の過程を辿り直すように、わたしは這い、壁に手をついて立ち上がり、少し歩く。壁から手を離す。わたしはそのようにして、ようやく人間を取り戻した。でもこれは、自分に肉体があることを引き受ける作業なのだ。つまり、ああして死んだ=殺した肉体と同じ存在であることを認めるという手順に他ならない。身体の各部分が産声を上げる度、わたしは胸の痛むのを感じた。腹の辺りに、引き裂かれるような傷を空想した。

 まだ名前がない。

 わたしはエグゾゼを求めていた。そうでなければ、あのように単体で機能する自分の名前を。それは、この罪の意識から逃れるための手だてだった。

 わたしは室内を探検することにした。まだ空気は重く、わたしは泳ぐように歩く。

 わたしは卑怯だろうか、と自問する。擁護の仕様なんて微塵もなかった。わたしは卑怯者だ。悪者だ。人を殺しておいて、その罪から逃げようとしている。しかし、いつまでも逃げ切ろうと思っているわけではなかった。とりあえず今は、距離を置きたかった。離れなければ見えないものもあるのだ。

 この部屋は1LDKであり、全ての区画は一直線状に置かれていた。居間に併設してユニットバスがあったが、そこには石鹸もタオルもおいていなかった。ただ水道を見つけた。

 バルブを捻った。

 水は通っていた。

 透明な水が溢れ出して、排水溝に飲み込まれていった。わたしはそのループに手を滑らせた。

 ちゃんとした水だった。

 わたしは手を洗った。傷口はいつまでも血に隠れて見えなかったが、そうして祈るように手をこすり合わせることは、わたしに身体があることを思い出させていった。

 キッチンは、部屋の行き止まりに置かれていた。よく磨かれた鍾乳洞みたいな場所だった。あるいはそれは、本当に鍾乳洞を削り出して作ったのかもしれない。冷たく、湿っており、暗かった。わたしは乳白色の冷蔵庫を開けた。そこには何も無かった。他の棚や引き出しを開けても、そのほとんどは空だった。やがて、わたしはおそらくこの部屋唯一の色を見つけ出す。

 電子コンロの上の棚には、小さな缶が一つ閉まってあった。わたしはそれを取り出し、振ってみた。さらさらと粒子の流れる音がした。蓋を開けると煎ったような香ばしい匂いがふわりと待った。よく嗅ぎ慣れた匂い。それは鼻孔から入って、わたしの脳にぽたりと染み入り、また肺から全身に駆け巡っていった。わたしの身体に色が蘇る。

 インスタント・コーヒーの粉末だった。

 わたしはあの花のない花屋で、他の自分たちと話していたことを思い出した。あの時も、わたしはコーヒーを飲んでいたのだ。この宇宙船で目覚めてからこの方、わたしの血液の大半はその黒い液体で構成されているかもしれない。そのインクのような黒い匂いは、白紙のわたしにじわりと染み込んでいった。文字が浮かんできた。それぞれのセンテンスは、折り重なるようにして互いを食っていたから、わたしは一文一文を読むことができない。しかし、それは潮の満ち引きのように、わたしに風景を蘇らせ、そこにわずかな水位を残していった。あの視点が、風景がーーそういう交換不可能な物事がーー曖昧なままにわたしの身体中に広がって、そこかしこの細胞と手を繋いだ。

 ドアがノックされた。わたしが返事をする前に、それは開く。すっと横にどけて、壁に吸い込まれた。

 そこに立っていたのは、わたしだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る