第3章 ネガティブ半島・前編 (6)

・・・♪・・・


 わたし達は蟹の上に降り立つ。レイエの撃った主砲の熱は、金属の地平をすっかり変形させていた。内部でいくつか爆発を起こしたようだ。接近した時に見た、なだらかな表面はもうほとんど残っていない。あまりの荒廃具合に、わたしに別の惑星の大地を連想した。

 エグゾゼは、すでに落ち着いていた。わたしは、今の今まで自分を昂らせていた感情が、すっかり消えてしまったことに驚いていた。余韻すらもない。これまでの時間がなかったことのように思われた。

「管制室、我が方の勝利だ」

 とレプンが言う。今、拡大外殻の頭は背中の方に倒れていて、裸の頭が剥き出しになっていた。彼女はヒレから分化した機械の腕を耳に当てていた。それで、管制室と連絡が取れるはずだった。

「ナーヴァルは死んだ。レプン、エグゾゼ、レイエは信号あり。多少のダメージは見られるが、帰投に問題なし。敵機は全て撃墜した。……あれ、繋がりが悪いな……ハロー、管制室? ハロー、ハロー」

 上機嫌にレプンは語る。

 わたしはそこに複雑なものを感じながらも、まだ降りてこないレイエに声をかけた。信号はあるはずなのに、なぜかこちらに来ないのだ。

「大丈夫? 降りてきなよ」

 反応は無かった。

 蟹の死骸は、レイエの狙撃のせいでひどい有り様だった。中央に巨大な穴が空いてあり、クレーターの淵は融解している。瘴気に満ちていた。レプンは魚の身体から二本の足を生やして、ペタペタと歩く。

「ペンギンみたいだ」とわたしは言った。

「良い勘してるよ」と彼女は言った。「拡大外殻は、今でこそこういう形してるけどね、元々はペンギンだったんだよ。でも、海にいる時間が長過ぎたんだね」

「それは正しい進化なの?」

「さあね。とりあえず言えるのは、選択の結果だということさ。わたし達は海の上で闘うために、そこに棲む生き物の姿を借りた。絵的にね。モチーフとして」

「じゃあ意味なんてないんだね」

「あるさ。でも、こうして作業するためには、魚じゃだめなんだよ。歩かなきゃ」

「作業?」

 レプンのわたしは得意そうに鼻を鳴らした。機械の手を再びヒレの中に戻し、それを器用に暑かって、蟹の装甲を剥いでいく。彼女は実に慣れている様子だった。

「レイエは良くやったね。蟹の脳を撃ったんだ」

「そう……」

 わたしは自分の視界にまだ薄く赤い色がかかっているのを認める。それは本当に弱い変化で、わたしにはちゃんと空の青さが分かるし、この大地の色もちゃんとわかる。でも、赤色を連想せずにはいられないのだ。わたしの半身はまだ拡大外殻に浸かっていて、感覚を分離することは容易でない。わたしは、まだ機械だ。

「ーーさて、ということは、心臓はまだ生きてるかもしれないってことだ。こっちにおいで。これがわたし達の戦っているものだよ」

 そう言って、レイエはまた一枚の歪んだ鉄板を取り去った。それが最後の一枚だった。下には空洞があり、そこから翡翠色の液体が溢れ出した。わたしは嫌な予感がして、たじろいだが、レプンに急かされてそこを覗き込んだ。

 繭のようなものが浮かんでいた。蓋を取り除かれたことで、それはぷかりと浮かんできた。繭には細い管が、しかし密になって張り付いていた。

 レプンは委細構わずに繭にヒレを差し込み、こじ開ける。今度は透明な、粘り気のある液体が湧いた。レプンはなおもヒレを突っ込む。何かを見つけたようだ。乱暴にそれを持ち上げる。ぶちぶちと繊維の千切れる音がした。

「はい、こちらでぇす」

 そうしてすくい上げられたのは、当然わたしだった。ただし、右半身をほとんど持たず、頭部の大きく陥没した姿の。左目の瞼は癒着しているようだったし、唇は斜めに走った切り傷のようだった。わたしが今まで鏡で見てきた姿とはかなり異なっていた。でも、わたしにはそれが自分自身だということがよく分かった。直観が先に立ったが、すぐに根拠が現れた。レプンは癒着していた目蓋をこじ開ける。緑色の瞳。わたしの目だ。

 ぐっと吐き気を覚える。それは、肯定的に捉えるなら、わたしの身体が自身を意識させるために起こした反応だった。緑色の目は、光を小さく反射するだけだったが、それでも鏡のように働いた。

「ね?」とわたしが、さっぱりとした青色の声で言った。「こんなの、わたしじゃないよね」

 そう言いながら、彼女は崩れた身体のわたしを繭から引き千切った。背中から生えていた管が破け、血液が飛び散る。レプンの手の中で、そのわたしは息を引き取った。彼女は、死体となったわたしを、ゴミをそうするように、海へ放った。とぷん、とまたしても小さな音がした。

 わたしにはどうすることもできなかった。

「出来損ないのわたしはこうして殺さなきゃならない」レプンは神妙な風を装って言った。「未熟な可能性なんていらないよ。そういうのは摘まなきゃね。浄化だよ、浄化。綺麗な身体になって帰りたいでしょ、地球。ね、わたし?」

「浄化」

「そ。でもわたしは向こうの人たちより優しいよ。来たものだけをそうする。来なければそうしない。ね、良心的でしょ」

 海の臭いと焼けた鉄の臭いが混じる中で、彼女のその清潔な言葉は、酷くわたしを不安にさせた。もう我慢ができなかった。わたしはその場にしゃがみ込んで、吐いた。

 レプンはそんなわたしを見て笑う。

「あーあー、しょうがないね。でも、みんなはじめはそうなんだ。わたしも吐いたさ。だから恥ずかしくないよ、落ち込まないでね」

 闘うのは自分自身、と言った王子様の言葉を思い出した。

「どうしてそう簡単に言えるのさ」とわたしは尋ねた。

「あっあー、やめてよ、そういう目。傷つくなぁ」と彼女はまた笑う。「でもさ、他のわたしも死んでるんだよ。死の形は尊重すべきだって思う? じゃあわたし達のやってることはどうなるんだろう? わたし達はクローンだよ。徒らに生まれて、徒らに死ぬんだ。まともな死に方じゃないよ、まともな生き方じゃないのと一緒で。どこもかしこもグロテスクさ」

 わたしはなぜ言い返さなかったのだろう。

「ねぇ、わたし。あれはねーー」とわたしが海を指す。もうそこには波紋すら残っていない。「ーー《猶予器官》の失敗作なのさ。わたし達みたいに比較的ちゃんとした人間の身体を持たないで生まれちゃったもの達。失敗作はね、宇宙船の底の方の管を通って、半島の方に流れるんだよ。そこにいる頭のおかしなわたし達が、こうして拡大外殻のコアとして使う。ねぇ、わたし。わたしはどう思う?」

「……何が」

「わたしはあんな身体を持って生まれたくなんかなかったよ。もしああして生まれてたら、一刻も早く殺してくれって思うだろうね」

 潮風が吹いた。それはこのささくれた金属の地形に悲しい音を鳴らす。海の底にも口笛は鳴るだろうか、とわたしは思った。あそこにも沈んだ拡大外殻があるはずだ。しかも、無数に。歴史が要請する数だけ。

「……それは狭い考え方じゃないの」

「同じわたしだろ。わかるよ。これは間違ってない。わかるでしょ?」

 わたしの内部は分裂しかけていた。悔しいことに、そのわたしの言うこともわかってしまうのだ。いくら酷いことをしたとはいえ、その対象はわたし自身なのだ。他の誰かではない。怒りは持続し難い。

 追い打ちをかけるように、わたしは言う。

「ねぇ、他の可能性を切り捨てる時、きみはそうして真剣に考えた? たとえば朝どのシャツを着ようか迷った時? ねぇ、わたし。どんな気持ちでサイコロを振るのさ。その度にきみは別の可能性を思って泣く? 違うよね、そんなことないよね。そういうことなんだよ、所詮ね」

 そんなわたしがいることを、わたしは認めたくなかった。しかし、どうやって否定すればいいというのだ。わたしは何も思いつかなかった。そのわたしを責めようにも、わたし自身、すでに自分を殺しているのだ。浅葱色のわたしは緑色のわたしを殺した。それで? それで罪は消えるのか。わたしは自分に対して優越を持ち得ない。

 となれば、罪は消える他ないのだ。この風のように、捉えどころのないものとして、わたし達にその思い出を、わずかな感触を、呼び起こしたものとして。そうしてすぐに忘れ去られてしまうのだ。自分を殺してしまった。誰がこの苦悩を知り得るだろう。誰も、誰もいないのだ。なぜならそれは一人の人間の中で起こった出来事で、外から見ればナンセンス極まりない事態だからだ。

 ”わたしはわたしを殺しました。しかしこう言うわたしは生きています”。

「それにしても、遅いね、レイエ」

 もう一人のわたしが言った。わたし達は見上げた。透明な傘を見つける。遥か上空に、ビニール傘が引っかかっているようだった。持ち手はない。小さく浮き沈みしている。

 わたし達の横に、コバンザメーーエチェンがやって来る。二匹の。それぞれわたしたちに鼻先を向けて、宙に浮いていた。

「お前たちのご主人様はどうしたんだい?」わたしが尋ねた。

 わたしはレイエを探そうとして、フードを被る。警告音。危険を感じたエグゾゼが、突然スラスタを起動、わたしは後ろに吹き飛ぶが、何かにぶつかって止まる。見えない壁でもあるかのようだ。

 何してるんだ、ともう一人のわたしは笑わなかった。そんな暇などなかった。突如そこに、光の柱が立てられる。上から降ってきた。わたしの目の前に。エグゾゼを介してわたしは見る。その柱は、もう一人のわたしの身体を削った。視界に重ねられるレプンのイメージ映像が、三日月状になる。柱は海に飲み込まれた。視界が晴れた。

 新しくできた穴の淵で、レプン=わたしが立っていた。右半身を綺麗に失ったまま、そこに。わたしは言葉を失った。透明な呼吸音が聞こえていた。潮風がわたしの身体を柔らかく押す。それだけで、彼女は大きく体勢を崩した。

 わたしはスラスタを切って、そのわたしの手を取ろうとする。左手。ヒレは宙を切った。スラスタを噴かし、もう少しだけ近づいて、ヒレから素手を出す。その手は冷たかった。ぶらりと、わたしの身体が穴に吊り下げられる。エグゾゼは、そのわたしが瀕死であることを告げていた。分かっていた。もう助かる見込みはない。

 歌が聞こえてくる。わたしの名前を繰り返す口笛。わたしの意識は見上げる。エグゾゼの目は、上空を漂う透明の傘に一つの影を認める。即座に認識ーーレイエ。発砲はあれからなされた。

「なんで……」

 警告音。衝撃。わたしを挟むようにして浮いていたエチェンが口を開いていた。喉奥から機関銃を覗かせている。発砲。エグゾゼは悲鳴を上げる。わたしは推進機構が死んだことを知る。

「どうして!」

 連絡を取ろうと試みる。失敗、というメッセージが網膜に表示された。レイエとのチャンネル確立に失敗しました。

 あれはレイエじゃないの、とわたしは頭の中で呟く。エグゾゼがわたしに思い出させるのは、それが前のヴァージョンのレイエだということだった。沈んだはずの。炭汚れた浅葱色や桃色のわたしと同じように、復活したもの。

 嘘だ、とわたしは思う。では、先ほどまでわたし達と一緒に戦っていたレイエはどうなったのだ。しかし、同時に、わたしは思い出した。レイエのコバンザメは二機だけであることを。あの爆発を。あのレイエは、誰から砲撃を受けたというのだ?

 エグゾゼは、高高度に浮かぶレイエを適性と判断する。犯人は、あれか。

 わたしの身体は動かなかった。推進機構が死んでいるからだけではない。そうでなくても、わたしには足がある。ヒレがある。では恐怖だろうか? それは多分に考えられることだった。わたしも沈められてしまうのでは、という? 

 わたしはこれが戦争であることを思い出す。自分が捕虜を取るような優しい人間ではないことを、他の誰でもないわたしが一番よく知っている。

 見えない圧力がエグゾゼの装甲を軋ませていた。何かに締め付けられている。

 その理由は直ぐ明らかにされた。風景が剥がれ落ちていく。薄氷を割るようにして、がらがらという音を想起させつつ、その実、無音の内に。

 そこにあるのは透明な触手だった。クラゲの長い足だった。わたしは檻の中にいたのだ。意識を上へ。クラゲの傘はもうずっと近くにあった。わたしが遠くに見ていたのは、傘のほんの一部であり、レイエの影はそれが自分の内側に映し出したものだったのだ。その向こうに影を見た。レイエは、クラゲの足の隙間から、わたし達を狙撃したのだった。

 それは精密なチームワークだった。ちゃんと思考しているのだ、彼女たちも。いや、それはわたし達だ。わたし達がすれ違いの中で自分たちを殺したように、彼女たちもまた、わずかな隙間を塗って、光の柱を立てた。

 わたしはそのことに感動に似たものを覚え、同時にやるせなくなった。

 クラゲが動き出した。ゆったりと。しかしその進行は不意にぐっと止まる。わたしはまだレプンの手を握っていた。レプンの身体が穴に引っかかっていたのだ。冷たい身体が、抵抗するように、固く。

 エチェンが口を開く。機関銃の放つ断続音が、レプンのたった半身を細かく崩していった。それでもしばらく、わたしは手を握っていた。しかしやがて、力が抜け、右手は離れてしまった。わたしはクラゲに連れられて金属の地平を去りながら、そのわたしの身体が、深い穴に落ちていくのを聞いた。

 すうっと意識の薄まるのに気づく。貧血みたい。エグゾゼがどうにか教えてくれたのは、クラゲがわたしの身体に介入しているということだった。意識に。眠りに。脳のようなもの、とエグゾゼはわたしに思い出させる。このクラゲは、わたしの外部に置かれた、より上位の脳みそである、と。抵抗はできない、とエグゾゼは怯えるように震えた。それが最後の衝動だった。わたしは眠る。海の温度は、感じない。

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