第3章 ネガティブ半島・前編 (5)

 エグゾゼの目を使って、わたしはレイエを追う拡大外殻を捉えた。ウミガメ=トルトゥ。海底から引き揚げられ、墓場から蘇ったそいつは、煤を被ったように汚れていた。エグゾゼの記憶では、元々鮮やかな桃色をしていたはずだった。

 円形の身体からは二対のヒレが生えており、その付け根には機関銃が吊り下げられていた。今は丸い頭をその家の中に隠している。その暗がりの中で、両目の光るのをわたしは見た。

『遅いぞエグゾゼ!』と青い声が責めてくる。

『ごめん』とわたしは返す。

『言い訳は聞かない』と言って、レプンは指示を続けた。『エグゾゼはレイエの援護。囮になれ。トルトゥを引きつけろ。その間にレイエは高高度から蟹を撃つ』

『了解』

『エグゾゼ、トルトゥは落としても構わない』

 冷たく、決意するような調子だった。そこには妙なテンションがあった。あれが本当に生き返ったわたしなのだとしたら、それはかつての仲間だったはずだ。

『正気に戻すって線は無いのかな』橙色の声が割り込んできた。『操られてるだけなんだったら、もしかして』

『そうしたかったら、わたし達が落とす前に、レイエ、きみが蟹を止めてみせろ。わたし達は待たない』

『……了解』

 橙色の抗議するような沈黙が後を引いて、聴覚から消える。

『レプン、やるんだね』とエグゾゼわたしは尋ねた。

『もとあるべきところに返すだけだ』少し思いを馳せるような間を置いて、『きみは、あの二人に会ったことがない。だから頼むんだ。レイエには無理だ。同じ人間なのにおかしなこととは思ってるけど』

 わたしは異議を唱えなかった。レイエには、と彼女は言った。でもその裏には、彼女自身の戸惑いが透けていた。

 残酷な言い方を、彼女はあえてしたのだろう。でもその通りだ。わたしはあのわたし達を知らない。だから撃てるはず、ちゃんと。

 エグゾゼの機械の身体をアドレナリンが通う。猛々しいムードが、わたしと機械の間にあるべき障壁を易々と突破して、流れ込んで来る。発砲を、分断を、もっと速く飛ぶことを! 欲望がわたしとエグゾゼの壁から意味を奪って、わたし達はより深く溶け合った。

 レイエが来た。

『じゃ、頼むよ!』

 通り過ぎるレイエの腹から、小さな魚のようなものが外された。自律砲台エチェンーーコバンザメは、わたしの後を着いて泳いでくる。

『Good luck!』

 わたしそう叫んでから、レイエの背後からやってくる桃色のウミガメに狙いをつける。火器を待機状態から戦闘モードに移行、機関銃を放つ。これは、喜びの言葉だ。弾丸の破線は湾曲しながらウミガメに向かう。トルトゥはそれをひらりと躱して、わたしとすれ違う。

『エチェン、追って! 奴を逃すな!』

 速やかにエチェンは方向を変え、加速する。喉奥に備え付けられた機関銃を撃ちながら、トルトゥに肉薄していく。

『機関停止、キック・ブレーキ!』

 方向転換。わたし=エグゾゼは収納していた両脚を前に蹴り出す。魚の身体の脇からスラスタが飛び出した。ノズルを前方へ、噴射。速度が落ちる、その中で、わたしは両足を軸に身体の向きを修正する。背後を見る。全身の火を同じ方向に整えて、再度加速した。

 わたしなら追いつけるはずだ。

 トルトゥを捉えた。息継ぎを一度。そしてわたしは、トリガーを引く。発砲。機関銃の音は顫動音に似ている。Rを続けて鳴らすように、わたし達は弾丸を散蒔く。

 ウミガメは、わたしの言葉を無視する。装甲が厚い。丸みを帯びた甲羅は、細かな弾丸を全て弾いてしまう。距離はあっという間に詰まる。わたしは両翼のブレード始動、それで切断を試みる。

 エグゾゼによる警告音。亀の甲羅が開いた。そのハニカム構造から、火を噴き、ウミガメは高度をがくりと落とす。わたしはその上を通り過ぎてしまう。再び、キック・ブレーキ。警告音が覆い被さってくる。意識を先行させて振り返れば、トルトゥの甲羅から射出されるものがあった。ミサイルーーエグゾゼは教えてくれるーー分裂型。

 小魚の群れは、わたしを睨んだかと思うと、こちらに飛んできた。トルトゥ自身よりずっと早い。わたしは前に蹴り出していた足を折り畳んだ。

 距離を取らなければならなかった。

 コバンザメがわたしとミサイルの間に立ちはだかる。小さな機関銃でもって応戦、その内のいくつかを落とし、魚群に襲われ、爆発する。時間を稼いでくれた。そのおかげで、わたしはギアを最後まで入れることができた。

 爆風の中からミサイルが突き抜けてくる。そして、そこで魚群が展開した。思い思いの進路を取って、わたしまでの距離を詰める。その後ろからは、トルトゥが追いかけてくる。ウミガメは桃色の声で歌う、嬉しそうに、思い出に溺れるような調子で。

 戦闘こそ、機械仕掛けのわたし達の生まれた意義であり、喜びだ。今のわたし達は、等しく拡大外殻を着た誰かである。

 そこにわたしは親近感を覚える。

 ライカ、ライカ、夏が来るーー父の声が聞こえてきた。

 父。

 本が好きで、大学の先生をやっていた人。幼い頃に、母が亡くなってから、彼の仕事は突然波に乗り始めた。そのことを、彼は、妻の死と関連づけて、落ち込んでいた。母は病弱だった。母はいつも、自分が夫の足を引っ張っているのではないかと悩んでいた。父には才能があった。しかし中途半端な。彼はその精力を二箇所に出力できるような人間ではなかったのだ。研究か、家庭か。どちらかを捨てれば、彼は満足できただろう。でも結局、両方を取ろうとして、彼は燻っていた。父はよく大きな夢を語った。母はそんな父が好きだった。だから、ごめんなさいね、とよく言った。父はそういう時、必ず言った。「今に見てなよ、きみに最高の世界を見せてやるから」。

 父は母のためにも、彼女の笑顔のためにも、成果を欲した。それは彼の才能の外側の物事だったにも関わらず、彼もそれを知っていたにも関わらず。彼は信じたくなかったのだ。彼は否定したかったのだ、彼女の言うことを。きみは重荷なんかじゃない。彼は、けれども、母の言葉に勝利しえなかった。みんなは彼の敗北を万雷の拍手をもって迎えた。彼の寂しい笑顔をわたしは今でも憶えている。

 母を失って、父は仕事に没頭した。わたしは家政婦に養われた。しかし、ある日の昼、父は大学から戻ってくるなりこう言った。旅に出よう。そうして、父は大学での仕事を辞め、研究を捨て、全ての時間をわたしに費やしてくれるようになった。わたしは喜ぶしかなかった。母と同じように、わたしも夢に向かって邁進する父が大好きだった。家政婦のお姉さんは優しかったし、父と話す日が少なくても、我慢できていたのだ。理解していた。父が大好きだったし、母も彼を愛していたから。でも、あの頃のわたしはあまりに幼すぎて、夢を選んでと父に言う資格が自分にないことを、それでもちゃんとわかっていたのだ。

 だから、わたしは宇宙飛行士を目指した。父のかつての夢だったから。そして、母に会えるかもしれないと思ったからーーそれもまた、父のためだった。

 俺の愛しい娘、可愛いライカ……

 爆風に回想は押しのけられ、わたしはエグゾゼが背後のミサイルを自動的に撃墜したことを知る。

 また、トリップしていた。

『ぐぅ……っ』

 どうして、今思い出すんだ、父さんのことを! 

 わたしは頭を振って、スラスタに意識を集中し、ちゃんと加速する。わたしは拡大外殻の中で泣いていた。そんな気がした。そして、涙の減った分だけ、桃色の歌声が染み込んでくる。それはわたしを切なくさせる。武装の衝動と心が矛盾していた。

 真っ直ぐ飛べば、わたしのエグゾゼは逃げ切れる。しかし、少しでも進路を曲げれば、そこに追いついたミサイルに身体を焼かれるだろう。わたしに選べる進路はなかった。

 それはかつての父みたいだ。

『そういうことなの……』

 その奇妙な一致にわたしは愕然とする。もう一度頭を振る。馬鹿げてる。

『コアを確認、チャージまでもう少し時間がかかりそう!』

 と、橙色の声。

 色が着いても結局は自分自身の声だ。聞き飽きた。

 わたしはあの子の声が聞きたかった。もっと聞きたかった。それがたとえ想い出の中だけものだとしても、何度繰り返してきたものだとしても。だからわたしは死にたくないのだ。必死で、わたしは逃げた。背後に機関銃の弾をばら撒きながら、わたしはとにかく真っ直ぐ飛んだ。機関銃は発砲の度に喜びを生産する。それからもわたしは逃げたかった。

 でも無理だった。同じ身体の一部だ。意識はここから出て行けない。

『だから』とエグゾゼが、わたしの思考を先導する。『闘わなければならないのだ。思考を捨てろ。没頭せよ。わたしの役目は立った一つである』

 トルトゥは背中を開き、歌の合間にミサイルを放つ。応えるように、わたしは弾幕を張る。光が弾けた。小弾頭の内には幾つか閃光弾が入っていたようだ。目が眩む。後方の視界が白く染まる。

『背後の視界を遮断、再起動』

 わたしは背後に対して盲目になる。闇が訪れる。未来方向に広がる数秒間を思って身内が震えた。

『早くしてよレイエ!』とわたしは叫んだ。

『急かさないで! チャージは終わった、撃つよ!』

 レイエがトリガーを引いた、とエグゾゼが報せてくる。

 直後、二つの爆発が重なった。

『きゃあ!』

 橙色の悲鳴が聞こえた。拡大された感覚の一部を割いて、わたしはレイエを探す。ぐらつく蟹が見えた。わずかに軋んで、やがて動きを止めた。

『レイエ!』

『――大丈夫』ノイズで汚れた橙色の声が聞こえてくる。『エチェンがやられただけ――』

 わたし達は安心し、レイエを忘れることにする。他のことなんて考える暇もなかった。

 すでに後方への視界は戻ってきている。わたしは意識を翻して後ろを見る。

 トルトゥは、健在だった。わたしは驚いたが、ウミガメはスピードを緩めない。そしてそれは、彼の従える無数の小魚についても一緒だった。彼らはまだ生きている。

『どういうことさ!』とわたしは叫んだ。

『プリスティも生きてる!』青い声。

『蟹を落とせばって――』

『現実だ、集中しろ!』とレプンの怒声が飛んでくる。わたしは背後の魚群に向けて、機関銃の弾丸を撒き散らす。いつまでも逃げているわけにはいかないということは分かっていた。でも、どうすれば。

 そこに、青い声が割り込んで来る。

『ーーエグゾゼ!』

『なにさ!』

『そのままこちらへ飛んで来い、”スイッチ”だ!』

 エグゾゼが、レプンの位置情報を優先的なものとしてわたしに伝えてくる。レプンの進路はわたしの直線上にあった。

『サッカーのあれのこと!?』

『バスケでも構わない!』

 わたしは意識と身体の捩れを解消し、落ちた分の速度を取り戻す。ぐっと慣性が働く。拡大外殻の内部がそれを吸収し、わたしは速度の中で解放される。ミサイルとの距離がまた少し離れる。

 レプンが来る。背後にプリスティを引き連れて。レプンはすでに最高速だ。わたしは背後への射撃を止め、正面に集中する。それで、速度がもう少し伸びる。それがわたしの最高速。標的を補足。わたしは両翼のブレードを温める。加熱し、刃は白く光る。エグゾゼは、レプンと瞬間的に通じる。進路固定、わたし達はすれ違う。

 レプンが過ぎ、プリスティが来た。わたしは浮遊機構の左面を弱める。と同時に右のスラスタを強くする。左半身が沈み、機体は反時計回りに回転する。プリスティの振る吻の先端が、裏返るわたしの背中を裂く。

『浅い!』

 それは狂喜の叫びだった。わたし=エグゾゼの機械の身体が、悲鳴じみた奇声を上げた。甲高い口笛だった。興奮が絶頂を極めた。いや、まだだ。今にも爆発せんばかりに温まったわたしのブレードが、プリスティの肩に触れた。もう意識が散り散りになりそうだった。そのままプリスティは裂けていく。機械の身体を切断するその瞬間毎に、わたしの頭の中で喜びの火花が散った。

 すれ違いが終わり、後方には二分割されたプリスティが残される。わたしはパッと意識を反転させて、その後ろ姿を見た。

 濃紺を背景に、燻った浅葱色が滑っていく。それぞれの半身は、その距離を段々離していく。機械の身体を動かし、慣性から守っていたはずの液体が、軌跡を描いていく。あれはしばらく宙に漂った後、やがて魔法を失って、海に落ちるだろう、雨のように。

『ああ、わたしが雨雲を生んだのだ!』

 エグゾゼが喜びを掻き立てる。

『そう、これこそがわたしの役目だ!』

 その時、聞き覚えのある問いが、わたしの脳裏で明滅した。赤色のわたしは、どんな気持ちで浅葱色のわたしを切断したのだ? それは色の名前こそ変わっていたが、わたしがさっき確かに抱いた疑問だった。

 わたしの耳から機械の歌声が遠のいていく。エグゾゼが戦闘モードから通常モードに移行するに連れ、喜びもまた薄れていった。わたしの機械の皮膚を過ぎる冷たい潮風だけが、感覚として残される。

 遠くで爆発が起こった。

 青く翻訳された喜びの声が聞こえて来る。

『一機撃墜!』

 それに共感を寄せることは難しかった。

 桃色のウミガメが海に落ちるところだった。両手足を捥がれ、乱暴に食われた林檎の芯みたいな姿となって、遠くの海に投げ捨てられる。浮遊機構は死んでいるようだ。とぷん、と呆れるほど小さな音を立てて、そのわたしは没する。

 あれも海底の地形となるのだろう。骨が海流に現れる様子をわたしは想像する。それは冷たく寂しい光景で、わたしはむしろこちらの方に共感を寄せた。わたしは死んだのだ。わたしが殺した。

 でも、わたしは生きている。

『本当に?』

 とわたしは尋ねた。答えは浮かんで来なかった。

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