第3章 ネガティブ半島・前編 (4)

 海の中。そこは死の世界だ。液状化した黄泉の国が広がっている。そこにわたしは自分の過去を見た。かつての自分自身。実に長い間続けられているこの戦争の歴史が、そこに堆積し、地形を作っていた。あそこに転がっているのは、かつてのエグゾゼ、かつてのレプン――拡大外殻シェルフリッパー。あの中にまだわたしはいるのだろうか。

 ここは大きな胃袋。この宇宙船全てがそうだと、勿論わたし達は言うことができる。しかし、この海は特別だ。ここには、消化しきれなかった物事が沈んでいる。あのわたし達は、再びこの艦内を巡ることはない。サイクルから外れている。

 あの死は、しかし、あの消化不良は、一体何を表しているのだろう? それとも意味なんてないのか。そんなことはないはずだ、とわたしは反抗期的に思った。このわたしの身体を燻らせる海流が、わたしに聞こえない言葉でもって、外殻を撫でているように感じられていた。

 街に住むわたし達は、この感覚を知らない。しかし、いつまで、わたし達は、目を逸らし続けることができるだろう。不意に蘇る感覚があり、わたしは不安になる。

『なに、あれ』

 ふと割り込んでくる視界があった。淡い緑色と橙色に縁取られた視界。海上にいる二人のわたしが、蟹の身体が震えるのを見た。暗い海と、その空の映像が重なる中をわたし達は、泳ぐ。蟹の影から抜けて、外に戻るために。

 四人のわたし達は、同じシーンを見ている。稜線に添って割れ目が走った。

 わたし達は、緊張の高まりを共有していた。誰が最初に感じたのだろう、不吉な予感があり、それはわたし達の胸中を騒がせた。

 劇場の扉が開く予感があった。

 蟹の背中が左右に弾けた。ブレイク。何かが飛び出した。二つの影。白い煙を引きながら、飛び立ち、空中で向きを変える。その軌跡は翼を連想させた。天使の? 骨格だけの翼を持つとしたら、それは、そうではなく。

『あれ……拡大外殻じゃないの、わたし達と同じ……』とレイエが橙色の声を震わせた。

 二つの影は、キラリと陽光を反射して、身を翻した。点と点の間を飛び越えるように、ぐっと加速し、距離を詰める。着色された警告音。重ねるように、機関銃が火を噴いた。懐かしい響きをわたし達は聞いた。忘れようがない。その話し方は、わたし達の使う言葉だ。

 エグゾゼが無感動に思い出す。

 あれは、わたしだ。

 先日の戦闘で落ちたはずの、三人のわたしのうちの二人。

 動揺が走った。わたしもその波に攫われた。

 死者が蘇った。

 そんなことは今までなかった。あのわたし達は、海に沈んだはずなのだ。消化されえないものとして。故にもう再会できないはずだと信じていた。他のわたし達は悲しんだ。同じ人間とはいえ、わずかなりとも違う経験を持った者だった。愛していた。二度と会えないはずだからこそ、違った形でその死を悼んだのだ。

 裏切られた気分。反古にされた。絶対的な死が。永遠の命を繰り返すこの艦の中における、唯一の例外が。劇場は破綻した。

『まだだ』

 それは誰の声だったろう。

 青い憤りの色がわたしの身体に滲んできた。困惑は橙色をしていて、わたしの頭の後ろ辺りで震えている。緑色――ナーヴァルは――両手を広げ、向かってくる浅葱色の拡大外殻に呼びかけていた。

『久しぶりだね、わたし!』

 プリスティ、とエグゾゼは認識する。ノコギリザメ。浅葱色の拡大外殻の全体は、炭をかぶったように暗い色をしている。しかしエグゾゼは、それをわたし達の仲間だと認めたし、その声をわたし達に伝えてくる。プリスティは唄っていた。口笛。

 ライカ、ライカ、夏が来る……。

 わたしは戦慄した。青い声が怒りをもって言う、早く浮上するぞ。わたし達は全身のスラスタを強く噴かした。

 ナーヴァルの緑色の視点。そのわたしは宙に留まって、身体を縦にしている。長い角のついたフードは、今背中に倒れていた。わたしは素顔を出していた。ヒレを脱ぎ、素手を大きく広げている。全ての武装が解除済み(オフライン)ーーそうエグゾゼは報せてくる。

 プリスティは、速度を緩めない。頭頂部から生えた吻の縁が光りはじめる。その周りに並ぶ無数の刃が高速で駆動していた。

「ねぇ、わたし、話したいことがたくさんあるんだ!」

 わたしは確かにそう言った。

 わたしは大きく首を振った。

 巨大な鋭角三角形の鋸が、わたしの身体を刎ねた。力強いスイング。わたしはいつかの野球を思い出す。白球が空を行くように、いとも容易く、ぽーんと撥ね飛ばされた、わたしの、上半身。浮遊機構に留められた下半身がぐらついた。血痕が、点々と空に置かれていく。外に向かう足跡のように。

 三人のわたし達の間に悲しみと驚きが共有される。裏切られた気分? またもや? いやそれは単なる思い込みに過ぎないのか? わたしは見失っていた。エグゾゼは、緑色の言葉を聴かせてくれない。混乱に頭がぐらぐらしていた。

 浅葱色のわたしは、どんな気分で緑色のわたしを殺したのだ? わたしはプリスティの言葉を探す。でもダメだ。聞こえてくるのは口笛だけ。父が作った、わたしの名前を唄う歌が繰り返される。

 ライカ、ラーイカ、夏が来るーーここで、それは、悲痛な叫びに他ならなかった。ずっと夏なのだ、ここは。夏が来るーー新しい日を望む声。夏が来る、夏は既に来ている、それでも、なお、夏よ、来い、強く、今日この日ではない夏こそ、来たれ。妄想的な、病の声。腐った茹でキャベツのような声で、わたしは唄い続けていた。自暴自棄に、上機嫌に。

 機械の雲が空を滑って行く。切断されてなお、ナーヴァルの浮遊機構は死ななかった。だから、わたしの身体はそれぞれ空に引っかかったままとなる。上半身はそのまま空を漂い、下半身はそこに小さく浮き沈みしていた。人の血の赤と、拡大外殻の翡翠色の液体が、ぽつぽつと降っている。

 海面に出たわたしは、素早くフードを開けた。嘔吐する。大きく息を吐く。吸う。また吐いた。ヒレから手を出し、海の水で口を濯ぐ。辛かった。そこにぽつりと雫が落ちる。わたし自身の血が波に洗われて消える。

 死は本来の姿を取り戻していた。

 わたしの頭の中では、劇場の扉を力強く叩く音が聞こえていた。その向こうにいる何かは、怒濤の勢いで押し寄せてきているのだ。スポットライトに追いやられたはずの闇が、扉の向こうと通じ合っていた。魔法は危機にさらされている。わたし達の自前の物語は、すでに風前の灯火だった。

 すぐ側で水柱が立った。レプンが海面に出たのだ。素早くスラスタを切り替えて、身体中から火を噴きながら上昇する。何かを吠えていた。彼女の強く否定するような言葉が、機関銃から歌われる。排出される薬莢が、涙のようにも見えた。

 青い火を吐きながら、レプンは真っすぐプリスティに向かっていた。

 わたしは見上げる。ほとんど近くに蟹がいた。

 その巨大な影の中で、わたしは怯えていた。唐突に途切れた緑色の声と、その余韻がわたしの中を冷たく浸していた。恐怖は黴のようにわたしの中で兆して、その勢力を拡大していた。

 蟹は、わたし達の街へ向かっていた。距離が離れていく度に、わたしは自分が安心して行くのを感じていた。そう、そのまま行ってくれ。そうすれば、このわたしは死なないで済む。

 レプンほど任務に忠実になれないでいる。あのわたしはなぜああまでして毅然と飛ぶことが出来るのだろう、とわたしは思った。

 わたしは、死にたくなかった。

 このわたし。ではあのわたしは?

 蟹の向こう側には、四本の線が引かれていた。わたしの分身が描いたものだ。拡大外殻の残す白い飛行機雲。それが複雑に絡み合っていく。わたしの頭の中のようだ。そしてこの類推は正しい。この宇宙船も一つの巨大な劇場なのだ。

 あのわたし達はなぜ飛んでいるのだ、命を賭けてまで?

 その疑問を打ち砕くように、声がわたしの脳に割り込んで来た。機関銃の発砲音に押し出された刃のように、ぐっと突き刺さる。

『役割を果たせ、エグゾゼ! 劇は続けなければならないThe show must go onって言うだろ!』

 エグゾゼのフードが背中から立ち上がり、わたしの頭を飲み込んだ。このわたしの指示じゃない。レプンの青い声を聞いた。

 The show must go on――わたしの目の前に文字列が流れて来る。それは、わたしに一つの衝動を呼び覚ました。闘いたい、という気持ち。エグゾゼの身体全体が、そこに封じ込められた武装が、自身の存在意義を求めていた。

 恐怖に震えるわたしの心が、自分の身体の衝動に抗っていた。わたしは部屋に閉じ篭っていた時を思い出した。身体と精神の分裂する感覚。卵の中で浮いている胎児のような気分だった。

『わたし達は、闘わなければならない』と、わたしの中で声が鳴る。

『何のために?』とわたしは問う。

 エグゾゼがわたしに使命を思い出させる。

 わたし達の死の先には、銀幕の向こう側には、あの街の崩壊が待っている。自前の物語を否定されたわたし達に残されたのは、あの子の思い出という灯火だけだ。せめて、それだけは守らなければならなかった。それを失ってしまえば、わたし達はわたし達でなくなってしまうのだ。そして、それが残されているならば、新しい劇場を作ることも可能だ。

 わたしは分裂していた。でもそれは、はじめてのことではないのだ。拡大外殻を着るとはそもそもそういうことだ。卵はまず分かれるものである。

 フードからわたしの声が聞こえてきた。

『エグゾゼ、何してる! レイエを助けろ! レイエが蟹を撃つ。蟹がこの二機を、わたし達の亡霊を操ってるんだ。よりにもよってあの子に仇なすものとして! 蟹の背中は開いているんだぞ!』

 熱に浮かされたような声だった。彼女に割り振られた役柄が、彼女を狂わせていた。

『早くしろわたし!』

 悲鳴に近かった。ここのわたし達は死にかけている。

 わたしは死にたくなかった。

『プリスティとトルトゥを適性と判断』

 わたしの視野に表示されている情報が書き換えられていく。

『エグゾゼ、飛ぶよ!』

 浮遊機構を駆動、海面から少し離れたところで、推進機構を空にシフト、スラスタに火を灯す。わたしの身体エグゾゼは昇っていく。

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