第3章 ネガティブ半島・前編 (2)

 裁判裁判と歌いながら、もうひとりのわたしはスキップで路地裏を出て行った。熱い日差しの中を、自由を楽しむように、踊りながら去る。わたしも昔はああだっただろうか。少女の頃を思い出した。

 その一方で、わたしはスーツの性能に驚かされていた。それは踝から手首までを覆っているにも関わらず、全く暑くなく、随分と快適だった。気温の変化から遮断されている。コートを羽織ってもこれは変わらなかった。

 わたしは建物の壁に寄りかかって、夏の街を眺めていた。今のわたしは何者だ。”王子様”のわたしはいなくなった。けれども、あのわたしが与えてくれた情報は、記憶は、確かにそこにある。奇妙な感覚だった。わたしはこの記憶を知らなかったことを知っている。

 コートのポケットで、何かが振動した。取り出してみれば、携帯端末である。小さな板で、細長い液晶が嵌め込んであり(随分古い型だ。骨董品だった)、そこにカタカナが流れていた。

 曰く、「スミヤカニキカンセヨ」。

 帰還せよ、どこに? 自然と答えは浮かんできた。基地へだ。

 その場所もわかっていた。海辺に行くのだ。ここからトラムに乗って、一時間ほど。何度か乗り継ぎをしなければならない。このわたしとしては、それでも良かった。車窓から見る風景の記憶はある。しかし実際に見たことはないのだ。今や裁判から解放されたわたしは、随分と気楽な気持ちでいた。

 しかし、結局のところ、わたしは「スミヤカニ」の文言に従った。わたしは路地を出て、バイクを探す。王子様はそこから八〇〇メートルほど歩いたところに白馬を留めていた。

 今まで乗ったことはなかったはずだが、その経験は蘇ってきた。自分でも驚きながら、わたしは慣れた手つきでエンジンをかけ、そして走り出す。


 イントロダクション。

 それが王子様のわたしと共有したものだった。技術的なものと、要約された経験談。わたしはどこに行くべきかわかっていたし、そこで何をすべきかは知らされている。けれども、それだけでは決して十分ではなかった。そこで何を見るのか、何を感じるのか――そういったことは、これからのわたしに預けられている。

 未知の領域。

 だからわたしはわくわくしていた。

 この高い鉄柵の前に立つ前までは。

 その鉄柵はわたしがこの街で見たどの構造物より重々しく、しっかりしていた。数世紀経ったヌガーの化石みたいだ。柔らかさという言葉を一度だって聞いたことがないに違いない。瞬間ごとに堅固さを増していくようにも見えた。わたしの知らない方法でもって、分子の結合は複雑さを追究している。

 かといって、その鉄柵は、わたしの方に何らかの影響を及ぼすわけではなかった。一見完成しているように見えた。しかしそうではなく、より正確には、それは閉じこもっているのだ。自分の中に。

 仙人的。

 わたしには出来ない芸当だった。とはいえ、ふとこうも思う。巨視的視点から見れば、わたし達のやっていることも同じようなことかもしれない。だとすれば、わたし達が忘れてしまった言葉、聞いたことのない言葉とは一体なんだろう。そんなものが存在するだろうか。わたし達には、それを知らないがために、感知できない真実のようなものがあるのか?

 この無駄な思索は、不意に現れた驚きによって、断ち切られた。目の前の扉が開いたのだ。何の合図もなかった。無音の内に切れ目が入って、招き入れるように、向こう側へ道を開ける。異邦人が思いがけず、我が祖国の言葉をきいたような衝撃だった。彼が無口だとわたしは思っていたし、わたしの国の言葉で話すわけがないと信じていたのだ。裏切られた気分だった。

 光が漏れてくる。どうしてそちらから光が漏れてくるのかわたしにはわからなかった。その強い逆光の中で、一人が腕を組んで仁王立ちになっていた。わたしは目を凝らす。そんなことをしなくても、それが誰だか勿論知っていたが、迷ってしまうほど奇妙な格好をしていた。

 そのわたしは軍服を着ていた。オリーブ・グリーンの。肩から胸にかけて、無数の紋章が並んでいる。帽子を深く斜めに被っていて、その下から緑色の左眼がわたしを見ていた。

「無断外出とはいい度胸だな」と言う。

 わたしは、いつも通りの挨拶をしようとしていた手をそろそろと下げた。このわたしはどうやら、他のわたしと違うようだった。やほ、という民族ではない。

「しかしのこのこ帰ってきたことは、褒めてやろう。良心が疼いたか? あるいはマゾなのか」

 そのわたしは怒っていた。これは珍しかった。勿論わたしも怒りを覚えることはある。しかし、わたし一般に共通する問題として、わたしはそれを持続することができないのだ。途中で、怒ることに飽きてしまう。わたしが今まで継続できた感情は、あの子へのものだけと言って過言はない。

 そんなわけで、わたしは素直に驚いた顔をしていたのだと思う。軍服のわたしは、やがて自分の怒りがあまり効果のないことに気づき、腕組みを解除した。

「お前は、レッドではないのか?」

 レッド……それがわたしと入れ替わった王子様の識別名だった。そして今ではわたしの名前というわけだった。わたしは答え方に困ってしまう。王子の振りをするべきか、それとも正体を明かすか。

「同志ライカ、万歳」

 わたしは試しにそう答えてみた。わたしが怒ることを止めて、ため息をついた。


 海岸警備隊。それが今のわたしの所属することになる組織だ。

 わたし達の都市に面している海岸の治安を維持する。

 今わたし達はその海岸を歩いているが、そこに争いがあるとは思えなかった。あるいは、起こるとも。実に静かな浜辺だった。砕かれた砂糖菓子が一面に敷かれていて、打ち寄せる波に洗われている。

「しかし、ちゃんと敵はいるんだ」わたし隊長はそう言った、「きみはそんなことも忘れてしまったのか」

「そもそも知らないんだよ」とわたしは答える。

 王子様のわたしが与えてくれた情報は、ここの砂浜のように乾いている。同じ砂浜を構成してはいる。しかし波打ち際からはほど遠い部分のものだった。何かからわたし達の街を守らなければならない、そういう使命感だけがある。

 しかし、何から――それがわたしの疑問でもあった。これから知るべき事柄だ。既知ではない。

 情報の恣意的な隠匿。わたし間通信にその機能があったことを思い出した。あの王子様は、これから戦うことになる正体を意図的に隠したことになる。思いつく理由は、その方が面白いからというものだったが、本当にそうなのだろうか。

 この街に攻めくる敵とやらについて想いを馳せるとき、口の中には曰く言いがたい味が広がる。ひょっとすると、あの王子様のわたしも、どう理解していいのかわからなかったのかもしれない。

 わたしは、海に向かって突き出た建造物に入る。灯台。仰角70度で傾いている通路があり、その先に灯室がある。そこまで続く通路は、段の無いエスカレーターになっていた。わたし達はそれに乗る。静かなエスカレーターだ、と感心した。無言のうちにわたし達を運んでいく。

 ここはまだ砂浜の上だろうか。わたしがふとそう思ったとき、不意に足下が透けた。わたしは悲鳴を上げて、手すりにしがみついた。もうすでに大分波打ち際を過ぎているようだった。

 高さなど知りたくなかった。

「五メートルほどだね」

 わたしなんか嫌いだ。

 わたしは悪戯っぽく笑ってから、語りだす。

「宇宙船わたし号は、一つの頭蓋骨だ。そして、あの都市は……」

 そう言って後ろを向いた。山肌に生えている石造りの街並、そちらを仰ぐ。

「……生きているわたし達。永遠の命なんだ。あの子への答えを出すべくずっと悩み続けているわたし」

「じゃあ敵は――」

「そう、敵は、そういうわたし達を破壊しようとしてやってくる。意識の外側からね。エロスに対する、タナトス。永遠の命に対して、それを遮断しようとするもの。そういったネガティブなものが、奴らだよ」

 エスカレーターが終わった。わたし達は踊り場に出る。灯室をぐるりと回るように、狭い通路が敷かれていた。潮風は手すりをすっかり錆に変えてしまっていたので、不安を覚えたわたしは、壁に背中をつけて立っている。しかしもう一人のわたしは、自然な様子で、その錆びた手すりを掴み、あろうことか寄りかかった。

「きみにも見えるかな」

 そう言って、わたしが呟く。わたしの視線は海の方に向けられているようだ。自分の背中が邪魔で、そこに何があるのか見えなかった。わたしは勇気を出して、壁沿いに移動する。それでも見えなかった。ついにわたしは大きく一歩を踏み出して、自分の隣に並ぶ。

 それで風景が劇的な変化を起こしたわけではなかった。そのことにわたしは少なからず拍子抜けする。海が広がっている。青く、また所々には緑色の染みがある。しばらく眺めていると、波線は一様に惹かれているわけでないことに気づいた。海底の地理を思う。山や谷があるのだろうか。

 とはいえ、それが正解だとは思えなかった。

「何が見えるって?」とわたしは尋ねる。

 わたしが指を差す。水平線が引かれている。無言の指先を辿って、そこに横たわっているものに気づいた。あまりに遠いせいでわからなかったのだ。それは、地形だった。峰のようにも見えた。しかし、より正確にはそれは異なっていた。

「半島だ」とわたしが言った。

 では地続きなのだ、とわたしは思う。

「ネガティブ半島」とわたしが言い直した。「夜になればもっとよくわかるよ。あそこにも火が灯る」

「人が住んでいるの」とわたしは尋ねた。

 住んでいるのだとして、それはもやはりわたし自身ではないのか。王子様の言葉が蘇ってくる。自分自身と、闘っていた。

 しかし、わたしは否定した。

「人じゃない」灰色の声でわたしが言う。黒とも白ともつきかねない、あるいは、どちらも示している、ひどく曖昧な言い方だった。「あんなのは人じゃないよ」

 憎しみを込めて。わたしは唐突に放射される感情に動揺した。咄嗟に手すりから手を離す。その突然さに、この手すりも崩れるのではないかと思ったからだ。

「どういう意味なの」

「それはすぐにわかることになるよ」とわたしは息を吐きながら言う。振り返り、エスカレーターに戻ろうとする。「開戦は一週間後だ。生き残りたければ、訓練に励むんだね。そして、奴らに見せてやるんだ、わたし達の生きる意思ってのをさ。Sounds good ?」


・・・♪・・・


 少佐。あまり意味のないことだとは思うけれど、わたし達はそのわたしのことをそう呼んでいた。少佐、あるいは、隊長、と。海岸警備隊という組織において、そのわたしは一番の権力者であり、また飛行部隊のリーダーでもあった。わたし達はごく少数のグループだった。管制室という部署があり、実践を担当する部隊がいる。総勢10名程度の小規模な組織。それでわたし達の街を守ることができるのか、不思議に思ったが、他のわたし達は誰一人として疑いを持っていなかった。何人かのわたしにその理由を問えば、そう法律で決まっているからだ、とわたしは答えた。ここでは、戦争というのは、極めて厳密なルールに基づいたゲームなのだ。サッカーとかバスケットボールと変わらない。数学の計算問題みたいだ、とわたしは思った。

「ただ技術だけは進歩している」と少佐兼隊長は言った。「だから結局予測はつかないんだ。何人ものわたしが死んだし、わたし達はいくつもの敵を打倒してきた。誰が、とか、どのように、はいつもわからないままさ。ね、戦争でしょう?」

 他の喩え方だってもちろんできるはずだった。でも、そのわたしはそうしなかったし、他のわたし達もしなかった。

 ここに来てから三日目辺りで、わたしはその言葉がただの暗号に過ぎないと気づいた。もっと微妙なニュアンスが隠されているような気がしたのだ。恋愛事を政治と呼ぶように。しかし、それからまた三日経った時には、この発見も間違っていたのだとわかっていた。ここでは、戦争という名詞は本来の意味を剥奪されている。

 そういうことが起こりえるのだ。

 しかし、このことは特別不思議なことでもなかった。というのも、この宇宙船の中では、一人称すら解体されているのだ。「わたし」と誰かが言った時、それは単数形にも複数形にも聞こえるし、二人称としても三人称としても聞こえる。

 「このわたし」とわたしが言ったとして、しかし、わたしは一体どこまで「この」を守りきれるのだろう。自信はなかった。ここのみんなが自分をそう呼ぶ。わたし達は一つだ。宇宙船の空は有限で、地球のそれより、遥かに狭い。夏は閉じ込められている。どこにもいけない。

 自由は地上にいた記憶の中よりも、もっと限定的な意味を持っていた。圧縮された綿のような言葉。これでは安らぎになどならない。

 それでも、あるいはそれだからこそ、わたしは自由を求めた。海岸警備隊に来たのは、それが理由だった。

 ほどなく、わたしには一つの翼が与えられた。拡大外殻――シェルフリッパーと呼ばれるその機械の複合体がわたしの新しい身体だった。

「エグゾゼ」

 と彼女は言った。

 それが、新しい名前だった。

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