第3章 ネガティブ半島・前編 (1)

 しばらく引き蘢る日々が続いた。その間、毎日、階下からは、他のわたし達がコーヒーを飲みながら談笑する声が聞こえてきていた。何を話しているのかはわからなかった。しかし、それが陰謀であるように思え、わたしは憔悴した。わたしの外側で勝手にリファインされる自分の声なんて聞きたくなかった。それで、メディアの中に引き蘢ることにした。

 シャワーを浴びる時以外は、わたしはヘッドギアを装着していた。耳元では大音量で音楽が流れ続け、目の前では文章が流れ続けていた。音楽と小説ーーそれらの喚起する想像力の世界が、わたしの癒しの場だった。

 飽きに気づくまでわたしは同じ音楽を聴き続け、本を読んで疲れればそのまま眠った。意識がそうしてぷつりと途切れる時だけは、リラックスすることができた。眠っている間に何者かが侵入して、そしてわたしが死んだとしても、無自覚ならば辛くならないように思えたからだ。

 とはいえ、時には、突然不安が襲いかかってくることもあった。それは朝方の痙攣にも似ていた。何者かの気配をわたしは感じ、慌ててヘッドギアを取ることが何度もあった。そして、その場で目を凝らし、耳をそばだて、在るはずのないものの気配が去るのを待った。それは、数分で消えることもあったが、多くは数時間に渡ってわたしの周りを踊り続けていたように思う。

 やがて食料が尽きた。元々貯蓄は十分でなかったのだ。冷蔵庫の中が空になってからは、水道水で空腹を紛らわそうとし、本を齧った。でもそんなことをしても腹は満たされなかった。わたしはついに諦めて、部屋の鍵を開けた。 

 あまりの空腹に集中力は散漫だった。音楽がないのは久しぶりだった。まだ客は来ていないようで、階段は静かだった。足音がよく響く。わたしはもう何日ぶりだろう、かつては慣れていたはずの靴音を新鮮に思いながら、店に下りた。

 そこには白衣のわたしがいた。

「やほ」と手を上げる。「久しぶりだね」そしてコーヒーを啜る。

「……」答えようとしたが、声が上手く出なかった。追って頷いた。

「何してたの?」

 その言葉に監視の色を聞いて、わたしは身を強張らせる。考え過ぎだ、と考える暇もなかった。わたしはすっかり臆病になっていたのだ。そのわたしの言い方が、親愛から発せられたものとはわかっていた。しかし、それでも。

 白衣のわたしは、わたしの様子を見て異変を感じ取ったのだろう。それ以上、ここ数日のことについて尋ねることはしなかった。わたしは、自分と距離を保ちながらキッチンに行き、冷蔵庫を開けた。中身はちゃんと補充されていたので、わたしはハムとキュウリを取り出し、齧りはじめる。

「みんな心配してたよ」と白衣のわたしは言った。「この世界では、他人事なんて状況が起き得ないからね」

 わたしはまた頷いた。

 店内はあの野球の日とほとんど変わっていなかった。花もまだ届いていない。

「まあいいや」と白衣のわたしは言って、机の上に置いていた封筒を掲げた。「裁判所からの手紙だよ。これについて説明がいるかと思って」

「……裁判」

 わたしは自分の中で呟いたつもりだったが、白衣のわたしはちゃんと拾ってくれた。

「そう。ですわ姫殺害事件に関して、きみも出廷を求められている。裁判は議会が仕切っている。きみは何もやっていないと思うし、したらちょっと話をするだけだと思うな」

 わたしは自分が容疑者扱いされていることに驚いた。両腕を抱きしめる。二の腕を身体にくっつけた。そんなことせずともーー長袖を着ているのだーーしるしが見えるはずはないのだが。

「容疑者はわたし達全員だよ。普通なら、裁判なんて行われない。特定は本当に難しいからね。でも今回は、しるしが関わっているかもしれない。だから裁判。きみ達が呼ばれているのは、きみ達がですわ姫の死んだ直前に生まれたからだよ」

 と白衣のわたしは説明をしてくれる。

「目覚めたばかりのわたし達は、一番地球に帰りたがるんだ。この世界を認められない者、クローンだなんて信じられない者……色々理由は考えられるけどね。で、きみもその内の一人だ、と」

「でもわたしは……」

「知ってる。きみはやってない。地球に帰りたいけど、自分を殺してまで帰りたくはない。わたしもそうさ。ほとんどのわたしがそう。だからこの裁判には意味なんてないのさ。犯人が捕まるなんて、誰も信じちゃいない。ただのレクリエーションだよ。遊びのひとつ」

 そう言って白衣のわたしはコーヒーを飲み終えた。わたしはまだハムを齧っている。飲み物を探して再び冷蔵庫を開けた。炭酸水があった。迷わずそれを開栓する。

「犯人は捕まらないの」とわたしは呟く。

「捕まるかもしれない。探偵気取りのわたしだっているんだ。そういうのが、真犯人を探してる、いつもね……」

 立ち上がる音が聞こえた。恐る恐るキッチンから顔を出してみると、白衣のわたしが店を出ようとしていることろだった。ドアを開けて、しかし振り返る。すまなそうな顔をしていた。

「ねぇ、わたし。予言というわけじゃないんだけど、きみが殺されることはないと思うな」

 歯切れの悪い言い方だった。しかし確信に満ちていた。わたしはただ曖昧に頷くだけである。どういうことだろう? そのわたしの言いたいことが上手く見えなかった。

 ドアは閉まる。


・・・♪・・・


 時間が停滞している。わたしが自分の部屋に隠れていた数日間、この街はほとんど変わっていないようだった。少なくとも、そう見えた。何人かのわたしが死に、何人かのわたしが新しく生まれたかもしれない。けれども、それが一体どれほどの差異となりうるだろう。

 大きな魚が泳いだところで、水面は平静そのものだ。そういう深い湖なのだ、この街は。わたしは水中にいて、同時に水面に立っている。この矛盾が、わたしを混乱させていた。常に二つの場所に在らねばならない。この身体は、意識は、決して単体たりえない。

 気持ちが悪かった。夏は鋭利な日差しでもって、わたしの意識を寸断していく。茨をハサミで切るように。絡まった繊維だけが、辛うじて発火を続けている。統合されることのない、微弱な衝動がわたしの中でちらつく。それは言葉にならない。ただ目眩だけを覚える。

 わたしは路地に滑り込んだ。それ以上この日差しの下に立っていられなかったからだ。建物と建物の隙間は、暗く少し湿っていて、とても心地よかった。だから仕方ないだろうーーそこには先客がいた。

 黒髪は日陰に溶けていたので、輪郭は定かではなかった。わたしの足音を聞いて見上げる、その目はやはり緑色をしていて、黒がりの中にも関わらず光を放っていた。猫みたいだ、と言われたことを思い出す。アーモンド型。そのわたしは泣いていた。

「どうしたのさ」とわたしは尋ねた。

 わたしは鼻を一度啜って、涙を拭った。コートの袖が濡れる。そう、そのわたしは真夏だというのにコートを着ていたのだ。オリーブ色の。

「暑くない?」と訊く。

「中にスーツを着てるから大丈夫」とわたしは答えた。

 スーツ。普通と少し違った発音だった。仰角七〇度に投射するような。

「そうなの」とわたしは適当に言う。「それで、どうしてきみは泣いてるの?」

「泣いてなんか」

 そう言いながら、そのわたしはまたも涙を拭った。言いたくないようだ。わたしにもそういう時がある。強がる必要なんてないのに、と思いながらも、認めたくない時だってあるものだ、とも苦笑する。たとえば、わたしはホラー映画が苦手で、特にスプラッターなものが弱点だが、自分でそうと認めたくないために、平気な顔を繕って、それらを定期的に観ることにしている。わたしは努力をする人間なのだ。

 わたしはそこに座った。ここにも石畳が敷かれている。ざらつく地面は涼しかった。ようやく本来の呼吸を取り戻せた気分で、しばらく建物に狭められた空の水路を眺めていた。四階建てのくせに、やけに空が遠く見えた。

 やがてわたしは落ち着いた。

「……闘いたくないんだ、これ以上」

「どういうこと?」

「言葉通りの意味だよ」と不貞腐れたようにわたしが言う。

「比喩じゃないってことだね。何と闘っていたの?」

「……わたし自身と」

 やはりこれは喩えなのか、とわたしは混乱した。なんと言ったものかわからなくて、わたしはまた水路を見上げた。細波一つ立たない、静かな空だった。

「ねぇ、わたし。あなたのことを話してよ。あなたはこの後予定あるの? しばらく暇な日が続かない?」

 割りかし強引な質問をしてくるわたしの目には、新しい煌めきが生まれていた。それは涙とは全然違う色をしていた。一縷の希望が緑色をしていて、わたしは自分も捨てたものじゃないな、と思う。可愛くないわけではないのだ。

「裁判があるよ」

「何か悪い事したの?」

 膝をついたまま、身を乗り出してくる。コートがはだけて、その下の衣装を露になった。”スーツ”。昔に言うところのダイビングスーツか、記憶の告げる限り最新式の宇宙服のようだった。身体にぴたりと吸いついており、わたしのあまり豊かでない胸が強調されている。

「してないよ」

「じゃあ問題ないよね」とそのわたしは呟く。

 なにが、という疑問は、その首を刎ねられた。

「ねえ、わたし。空を飛びたくない?」

「空」

「高高度ってわけじゃないよ。海の上を滑走する。気持ち良いよ。水しぶきは爽やかだし、どこまでも水平線は続く。何より海の季節だし……」

 わたしには自分の言わんとしていることがわからない。

 しかし、そのわたしの言ったイメージはとても魅力的だった。

「……良いね」とわたしは言う。

「やっぱり」とわたしは微笑んだ。「そう言ってくれるって信じてたよ」

 そして素早くわたしの首の後ろに手を回し、そのまま寄りかかってキスをした。わたしは押し倒される。驚きのあまり目を見開いて、しかしすぐに閉じた。ぬるりと舌が入り込んでくる。呆然とするわたしを他所に、温かな器官がぐるりと回った。微弱な静電気に似た刺激がわたしの脳を刺し、そこで情報が花咲いた。わたしの中に流れこんでくる光景、しるし象、体感。息の仕方がわからなくて、わたしは苦しくなる。頭がぼうっと熱くなった。白熱灯みたいだ。フィラメントが焼け落ちる。

 その瞬間、頭の中で光が弾け、そこに海が広がった。

 わたし達は再び二人になる。勝ち誇ったように見下ろすわたしが、口の周りを拭った。漣の音が耳の奥に残っていた。わたしの周りで鳴る機関の空気振動と共に。

「これであなたが王子様」と馬乗りになっているわたしが言う。「裁判は任せてよ。無実の役はこの乞食めがちゃんとこなして見せるから」

 情報を供給されたはずのわたしは、しかし途方もない脱力の中に横たわっていた。自分の満足げな笑顔を見上げている。その向こうにある青い水路は、きっと海に続いているのだろう、というようなことを考えながら、わたしはファーストキスの味を噛み締めていた。

「ねぇ、わたし。悪くなかったよね」とわたしが唇を舐めた。わたしは否定しなかった。

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