第2章 殺人事件とプレイボール (4)
「みんな帰りたがってるんだ」と白衣のわたしが言う。
わたし達は街を歩いていた。いつも通り暑かった。昨日までと同じようにわたし達は歩いていたし、喫茶店の外側でコーヒーを飲んだりしていた。密度の濃い空気の中で、変わらず談笑し、キスをしていた。ですわ姫一人の欠損は、この街において、大した意味を持たないようだった。
あまりに交換可能な世界。
昨日と同じ一日が継続中だった。時の線が丸く閉じている。日が昇って、街を加熱し、日が沈んで、少し冷える。あの一人のわたしが欠けたところで、それは変わらないサイクルなのだ。わたしがシャワーを浴び、汗をかき、そしてまたシャワーを浴びて眠るように。
心の空白を思う。わたしが一人死んだ。わたしはどう思っているのだ? 動揺していた。しかしそれを持続することも難しいのだ、この真夏の溶けるような暑さの下では。集中力を維持することができない。それには冷房がいる。しかし、わたし達は歩き続けた。
足は勝手に進むのだ。
「どこに帰りたがっているのさ?」とわたしは尋ねる。
「地球に」と短く白衣のわたしは答えた。「でも、積極的じゃないね」
「しるしの話?」
「そう、ですわ姫の話。そしてつまり、わたし達の話だね」
人の気配が次第に少なくなってくる。向こうに高架線が見えた。それを境界にして街は終わり、わたし達は川に出会う。畔には秋を知らない薄が敷き詰められるはずの。耳を澄まさずとも、そこを行く風のざわめきが聞こえてくるような気がした。わたしは感傷的になっている。秋を聞く。それは幻聴だ。ここは夏の都市である。
「ねぇ、わたし。どう思う? あのわたしはしるしを持っていたのかな……」
「そうかもしれない。でも、そうじゃなくても人は殺されるし、簡単に死んじゃうんだよね」
そう言ってわたしは額の汗を拭う。夏の青空を恨むようにして見ていた。重い生理痛に苛まされている者の目。あるいはひどい風邪を引いた、しかし体力はまだある者の。
「わたしはあのわたしのことが嫌いだった?」とわたしは尋ねた。
「殺してもいいほど嫌いってわけじゃなかった。でも死んで悲しいほど好きでもなかった」
同じ人間だ。それはシャツの色が違うもう一人のわたしであり、青を着たいと思って白を着てきたとして、わたしはいつまでももう一着のシャツを想うことなどしない。
そもそもわたしは一人だったのだ。他の可能性全てを所持しようなどという贅沢過ぎる望みを、一時的に持っていただけで、結局のところは。
わたしは悲しい、と思うことにした。母の時と同じように。しかしその一方で、これは真実だった。自分のあまり悲しくないことが、わたしには悲しかく思われた。白衣のわたしの感じ方はわたしとほとんど同じだった。乾燥しているのだ、わたしという人間は。
「殺人はよく起こるの?」とわたしは尋ねた。「殺伐した船内だとは思わなかったよ」
「しるしを目的に殺し合う可能性は”なくはない”って程度だよ。そんなに長続きしない。わたし達はあんまりしるしに魅力を見いだせてこなかったんだ」
白衣のわたしはそう言った。
「それは安心できる……のかな」
「そもそも、ねぇ、わたし。あの子はもうとっくに死んでいるんだよ。数世紀も経ってるんだもん。そこにさ、今更帰ったって、やっぱり仕方ないよね」
白衣のわたしはわたしを見てくれなかった。だからどういう顔をしているのかはわからなかった。ひどく震えた声だった。感情が綯い交ぜになっていて、解読が難しい、そういう声だ。
「わたし達は地球に帰りたい。でもそれは過去の地球に、なんだよ、あの子が生きていた時代の、あの子がわたし達のことだけを好きでいてくれた頃のさ。……そんな時代が今もあるとしたら、それはわたし達の頭の中なのさ」
白衣のわたしはこめかみを突つく。
「この船の中だけってことだね」とわたしは言った。
「そう言いたかったんだ」と白衣のわたしが頷いて、下手くそなウィンクをした。
わたしという人間は、大概センチメンタリストなのだ。他の誰かが帰っても良い。しかしわたし自身は積極的になれない。あの子はそこにはいないから。ただ墓が一つあるだけで。
環の中をぐるぐる回っている。突き抜けない。
「でも、そういうもやもやを吹っ飛ばすものがあるよ」と白衣のわたしは言った。
「それは?」
「ベースボール」
わたしがバットを振る仕草を見せ、わたし達は高架線を抜けた。
わたしに手渡されたのは一本のバットとキャップだけだった。
わたしの前には扇形に拓けた空間があり、三つのプレートが置いてあった。それぞれのプレートの近くには、グローブをはめたわたしが配置してあって、それぞれぼんやりと立っている。全ての視線がわたしに注がれている。しかしあまりタイトではなく、偶然こちらを向いているだけのようだった。
ベースボール。その言葉は聞いたことがあった。球技だ。でも初めてその状況にいた。わたしには右も左もわからない。
とはいえ、それは他のわたし達にとっても同じことなのだ。
「昔はルールをちゃんと調べて、真剣にやった。そういう時代があったんだ」と白衣のわたしは言った。
当時、ベースボール・ブームは艦内を席巻し、大会のようなものも開かれたみたいだ。しかし、それも所詮は今は昔。その世代のわたし達が軒並み死んで、ブームは廃れ、曖昧なしるし象だけが残っている。
曰く、
「これは意地悪なゲームなんだ」
「どうして?」
「キャッチボールを邪魔する」
わたしは正面を見た。扇形の空き地の真ん中には、一人のわたしが立っていて、わたしの後ろには一人のわたしが腰をかがめていた。
「きみはバットを振れば良い。ボールをできるだけ遠くに打ち返すんだ。それが上手くいったら、喜んで走る」
「面白いの?」とわたしは尋ねた。
「振ればわかるよ」と白衣のわたしは笑って、わたしは一人残された。
バットを握って、前を見る。持ち方はこれで正しいだろうか? 少し高くなったところのわたしは、ボールを一度グローブに移す。ぱしっという音がする。そして、わたしの方を睨んだ。その真面目な表情に、わたしは唾を飲む。
投手のわたしは身体を捻り、ボールを持った手を振りかぶる。緊張の高まる瞬間があって、吸い寄せられるようにわたしはバットを構えた。侍のようだと自分で思う。これで正しいのか? 投手のわたしが足を一歩踏み出し、そこで緊張がほどける。下る波のような軌道を描き、彼女は腕を振った。何かか放たれた。白球。そうと気づいた時には、わたしの少し後ろでぱしっという音がする。
「すとらーい」
わたしの内の誰かが呼んだ。
わたしは白衣のわたしを探す。
「振らなきゃ! チャンスはあと二回だよ!」
わたしの横を白球が通り過ぎて、それは再び投手のわたしの元に戻る。そんなこと予期していなかったので、わたしは驚いてしまい、バットを振った。
「今じゃないよ!」
見守るわたし達が笑った。どうやら、ここでのキャッチボールは一方通行のようだ。投手のわたしからの送球だけを、邪魔する。しかしそんな権利がわたしにあるのか? 小さな丘の上に立つわたしは、真剣そのものに見えた。あのわたしはエネルギーを投球に賭している。まっすぐボールを投げることに、意識の全てを。
また波がはじまった。投手のわたしは足を持ち上げ、ボールをグローブで守りながら掲げる。わたしはバットを握って、構えた。そのわたしを彼女は見る。そして、波は縫解けた。投手のわたしが力強く一歩踏む。腕は、まっすぐ、ボールが放たれた。わたしはバットを振る。
「つーすとらーい」
背後でボールのグローブを打つ音が聞こえた。
「最後だよ!」
白衣のわたしが声を放ってくれる。その周りから声が聞こえてくる。もうダメじゃないか、最初だから仕方がないよ、わたしもかつてそうだった。同情的な声。諦めの言葉。わたしの口癖ーー「仕方がない」。
わたしは額の汗を拭った。その間に、白球は投手のわたしの下へ戻っている。二人のわたしの間では、交流が成立していた。わたしはそこに環を見る。投手自身の波と、投手・捕手間の環。それらは、上手く接続していて、一つの機械を構成しているようだった。
バットをついて、空を見る。この艦内には、そのようにしてわたしから成る機械がたくさんあるのだ。わたし機械によって構成される宇宙船わたし号ーーそれは大きな環である。そしてあの天蓋は殻だ。わたし達は突き抜けない。でもそれではダメなのだ。
わたしは投手のわたしを見る。あのわたしが放る白球は、わたしの言葉の一つの変奏ではないのか。投手から捕手へ。エネルギーを集約したもの、密度の濃い衝動が変化したもの。誰に対しての? きっと、あの子に向けての。しかしここは閉じた世界だから、こうして、こんなくだらないゲームで発散してみている。諦めている。
「違うだろ」
そう呟いて、わたしはバットの切っ先を投手のわたしに向けた。彼女は笑い、そして頷いた。
息を整える。あのわたしもこのわたしと同じ人間だ。練習は積んだのだろう。その差異は大きな意味を持つはずだ。わたしには何ができるだろう? 想像せよ、とわたしは自分に命じた。
投手のわたしがボールを掲げた。この距離を挟んで、彼女の言葉も少し変わったものになる。わたしの想像力は完璧にはなりえない。わたしは空気ではないから、彼女の投げる言葉がどう変化するかを把握することは叶わない。
そこにあるのは、運だ。わたしは祈った。願った。求めた。彼女の投球機械とこのスウィング機械であるわたしが、連結することを。
わたしを見て。
三度、白球が放たれた。わたしはバットを振った。金属が突如重くなる。そして同時に閃くものがあった。血の臭い。あの暗い部屋。死んでいるわたし。しかしもう止まらなかった。そのままバットを振り切った。重さが消えた。歓声が湧いた。ここではじめて息をした。数世紀ぶりに見上げた気分。青空は思っていたよりも高く、そこで白いボールが揺れていた。ロケットの灯のように。
「走らなきゃ!」
声がする。
「どこに!」
「反時計回り! プレートを踏むんだ!」
わたしは走り出した。そのまま叫ぶ。
「いくつ!」
「とりあえず全部!」
興奮するわたし達の声を聞きながら、わたしは一つ目のプレートを踏んだ。あと二つ。それにしたって随分距離があった。それにわたしは寝間着のままなのだ。走りにくくて仕方がない。それでも二つ目を踏んだ。歓声が、下降してくるのを聞いた。ふとそちらを振り返る。空から落ちてきた白球が、そこに立つわたしのグローブに収まるところだった。
「あうとー」
落胆の声にわたしは迷いつつも速度を緩めた。どうやら最大の敵は常に重力であるらしい。
・・・♪・・・
ゲームを終えて、わたしは家に帰った。コーヒー目当てで居座っているはずのわたしの姿は無く、食器の類も綺麗に片付けられていた。椅子も机の上に上げられている。それはこのわたしへの心遣いだったのだろう。元気だして、と書き置きがあった。わたしの字で書かれてはいたが、その意外さにわたしは胸を打たれた。
腕の中にはまだバットの感覚があった。あの後わたしは何度もバットを振ったが、その度にちらついていた、別のわたしの死が、まだ網膜に突き刺さっていた。自分の身体から、汗だけでなく血の匂いもしていた。
シャワーを浴びて、湯船に浸かる。腕をああして使うなんて随分久しぶりだ。筋肉が強張っていて、硬かった。わたしは未来の筋肉痛を思って、右の二の腕を摩った。マッサージしようと思ったのだが、そこで、違和感に気づいた。しこりのようなものがある。
わたしはそこを強く押してみた。痛みは無い。何かが埋め込まれているようだった。薄い板のようなもの。わたしは湯船から上がり、鏡の靄を拭いて、そこに写してみる。
「文字?」
そのように見えた。しかし、そうだとしても、それはわたしの知らない文字だった。線から成る小さな構造体。あるいはこれは絵なのだろうか? 象形文字。しかしそれが何を示しているのか、わたしにはさっぱりわからないのだった。
しばらくそのまま観察している。相変わらず意味はわからなかったが、予感が浮上してきた。不吉な感覚だ。
「これがしるしなの」
声に出してそう言って、後悔した。どっと脂汗が吹き出した。予感が説得力を得てわたしの中を掻き混ぜていた。わたしの頭に再びあの殺されたわたしが蘇ってきた。首を押さえる。まだ千切れていない。しかし、いつまでこのままでいられるだろう?
あのわたしはしるしを持っていなかった。しるしはここにある。殺されるはずだったのは、このわたしだったのだ。
血の臭いが鼻をついた。勿論錯覚だ。しかし去らなかった。わたしはまた身体を洗いはじめた。何度擦っても脂汗は収まらなかった。しるしも消えなかった。湯船に飛び込んで、沈む。息を止める。しかしやがて苦しくなり、飛び出して、わたしは裸のままで部屋中の鍵を閉めはじめた。
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