第2章 殺人事件とプレイボール (3)

・・・♪・・・


 花屋を開くためには、いくつか行政上の手続きが必要だった。とはいえここはわたしによって構成され、運営される街だから、その手続きも実に簡単なもので、お飯事のようなものだった。わたしの意思だけが必要だった。つまりそれは、何もいらないのと同じことだ

「いつ止めても良いんだよ」

 と手続きをしてくれたわたしは言った。

「いつ死ぬかわからないのと一緒で」

 わたしにはアパートメントの一階が割り当てられた。以前は喫茶店だった場所で、主人が居なくなってから数十年が経過しているらしい。錆びついたシャッターを開けるとき、わたしは長年探し求めていた古代遺跡を発見したような気分で、わけもなく興奮していた。店内はちゃんと整頓されていた。椅子はちゃんと机に上げられていて、布がかけられている。降り積もった埃がなければ、時間が止まっているように見えただろう。

 わたしはここの前の主人を思う。どんな気持ちで、いつ、なぜ死んだのだろう? そのわたしはちゃんとこの店を掃除して、そしてその晩に死んだのだ。明日が来ると信じていただろうか。それとも不意に死は訪れたのか。

 自分が突然いなくなるなんて信じられなかった。わたしにはやるべきことがたくさんあるのだ。まずはここを掃除しなければならない。

 それから一週間ほど、わたしは内装を改めるのに費やした。わたしが声をかけずとも、他のわたしは手伝いにきてくれたし、その御陰で作業は早く進んだ。みんな、わたしが何を考えているのか良くわかってくれるのだ。

 とはいえ、大きな問題が一つだけあった。それは、花はすぐに育たないということだ。役所に花屋をやりたい旨を伝えた時、最初に指摘されたことがそれだった。わたしの希望はすぐさま生産プラントのロボット達に伝えられたが、彼らが種子を設計し、それが育つまでには普通の花がそうするだけの時間が必要だった。

 そのことを聞いた時、わたしは自分の寿命を思って焦ったが、けれども数日の内には落ち着いた。できないものは仕方がないのだ。満足のいく出来の店内で、わたしはコーヒーを飲むこと読書に明け暮れた。そうこうしている内に、他のわたし達が集まるようになり、そこは喫茶店のような状態になってしまった。

「マスター、コーヒーを」

「ここは花屋だよ」

 そういうやり取りが定型化してしまった。

 わたしは段々ここでの生活に慣れていった。友人というものもできた。奇妙なことに、これだけたくさんのわたしがいるにも関わらず、よく付き合う相手というのは固定されるようだった。それも、わたしがルーチンワークを大事にする人間だからだろう。相互にそういう傾向が働くのだ。囚人のジレンマは起こりがたいのだ、と経済学を勉強しているわたしが言うのを聞いたが、わたしにはなんのことか良く分からない。

 ほぼ毎日、店に通ってくれたのは、白衣のわたしとですわ姫だった。白衣のわたしはその後もわたしの世話をよく見てくれたし、ですわ姫とはよく読んだ本の話をした。わたしは、二人とキスをしなかった。

 キス。

 この宇宙船で生活をはじめてから、わたしは何度も自分自身にキスをねだられた。彼女たちは、わたしが何を考え、何を思って生きているのかを知りたがっていた。ディファレンスはどんなに些細であっても、彼女たちを魅惑したのだ。

 そして同時に、彼女たちは、自分たちについても知って欲しかったみたいだ。このわたしに。時には言葉巧みに誘惑してくるわたしもいたけれど、結局のところ、彼女たちにとってわたしは交換可能な存在だった。

 でも、そんなのアンフェアだ。

 とはいえ、彼女たちの気持ちもわからなくはなかった。わたし達には、夜に囁く相手が必要だったのだ。欲求不満。解消しようにも、”それは突き抜けない”ーーわたし達は、根源的な矛盾にぶつかっていたのかもしれない。

 さて、そんなわけで、わたしは誰ともキスをしなかった。自分の記憶くらい一人占めしたって問題無いはずだ。

「まあ、そりゃそうだよね」と、あるわたしは言った。わたしにフラレても、彼女は大して傷ついた風ではなかった。

「でもそれって、反社会的だよ」

 そう悪戯っぽく笑う。

「なんでさ」

「相互監視システムって向きもあるってことさ」彼女は唇を舐めた。「わたし達が日々の出来事を共有するでしょ、するとさ、悪いことができなくなるのさ。だってバレちゃうもんね」

「全部伝わるってわけでもないんでしょ?」

「うん。自分から制限できる。でもあんまり上手なキスだと、ガードも難しくるなるね。蕩けちゃって」

「うわぁ。そんな話、聞きたくないな、あまり」

「ははは。いやまぁ、わたしはこう言いたいんだな」

「なに?」

「愛は世界を救う」

 安易なフレーズにわたしはげんなりしてしまった。それを言っているのが自分自身であるということも、わたしの力を奪った。絶望と言い換えても良い。

 白衣のわたしとですわ姫は、一度だってわたしに迫って来なかった。彼女たちは、このわたしを尊重してくれていた。

 二人が同時に店を訪れることはほとんどなかった。二人にもそれぞれの生活があるだろうし、それは仕方のないことだった。

 わたしは花の到着を持つのと同じくらい、その二人に会うのが楽しみになっていた。花は相変わらず届かなかったが、そのまま待ちながら死んでしまっても悪くない、そう思える程度には毎日は充実していた。

 でも、これは甘い見通しだった。わたしは死というものについて、結局深く考えていなかったのだ。とはいえ、一体どのような準備をしておけば良かったのだろう。闇夜のキスのように、それは不意打ちだった。

 ある日の朝に、わたしは死んだ。


・・・♪・・・


 ある朝のことだ。それとも昼下がりか。前日の晩に急遽開かれたパーティーが明け方に終わったこともあって、わたしが店に下りてきた時には、すでに数人のわたし達がいた。彼女たちは勝手にコーヒーを淹れて飲んでいるようだ。わたしの店はそういう店だった。それは良い。いつもと違っていたのは、彼女たちが額を近づけんばかりして、何か興奮気味に話し込んでいたことだ。

 わたしは自分の分のコーヒーを煎れながら、分身たちに声を放った。

「どうしたの」

 彼女たちは一斉に顔を上げて、わたしを見た。足音に気づいて警戒する猫の群れみたいだった。その内の一人は、新聞をわたしに突きつける。どの顔も等しく混乱していた。蒼白な肌に、興奮のせいで変な具合に朱が上っているのだ。

 一人が震えた声で言った。

「わたしが死んだ」

 昨日も暑かった、とわたしは心の中で言い換えた。わたしはまだ寝ぼけていたのかも知れない。いまいち自分の言うことがピンとこなかった。この街では、毎日とは言わないまでも、人が死んでいるのだ。

 しかしーーやはりわたしだって混乱していたのだーーいつも通りのゴシップであれば、そこにいるわたし達だって、そこまで興奮していなかったはずだ、という単純なことに気づけなかった。

 わたしの中から、ぞわぞわと、寒気が皮膚の方に上ってきた。冷水の中につけ込まれたような気分。あるいはその皮膜をわたしはすり抜けた。しかし、冷気は油脂のようにわたしの身体にまとわりついたままだった。風邪を引いたような気分。頭の中だけが熱い。右脳と左脳の間に渡されているフィラメントに負荷がかけられているみたいだった。

 わたしが死んだ。

「どのわたしが?」

「ですわ姫」

 パチンと線が弾けた。わたしの頭の中は真っ白になった。やかんが鳴いた。甲高い断末魔が店内の空気を切り裂いた。冷ややかな層は砕いた硝子のよゆうに降り注いだ。床に触れて音を立てる前に蒸発してしまう。夏は暑い。

「嘘でしょ」

 とわたしは言う。

「本当だよ、ほら」

 彼女の内の一人がわたしに新聞を差し出した。そこにはすでに開かれたサカナがいて、わたしはその全文を目で追った。確かにですわ姫の死が書いてあった。

 記事の末尾にキスマークがあった。その上にある注意書きによると、それは記者の現場を見た感覚についてのものらしい。わたしは、恐る恐る口をつけてみた。

 圧縮された情報がわたしの脳の中に流れ込んできて、わたしは軽い目眩を覚えた。荒らされた室内、質素な調度品の数々が、今は混沌の内に散らばっていた。強い血の臭いがしていた。鼻の奥にこびりつくような、肺を冒すような、そうして胸の中心を締めつけるような臭いだった。喪失の臭い。動悸が早まるのを感じた。ここ数日身体を鍛えていたとして、そんなものはこの事件の前では意味をなさなかった。

 わたしが続けて思い出すのは、そこに転がっているわたしの姿だった。首が途中で千切れていて、行方不明の頭部はベッドの上で眠っていた。頭の北西部分が大きく陥没している。ベッドの脇にある小さなテーブルには、バッドが立てかけられていた。金属バッドは赤く染まっていた。

 窓を塞ぐブラインドの隙間から、朝の光が差し込んでいた。

 わたしは自分自身の部屋を思い浮かべた。わたしはその朝日に一度起きて、しかしもう一度眠ったのだ。きっと同じ時刻、そのわたしは何者かによって撲殺され、死んでいた。

 そう考えると、目眩がした。

「大丈夫?」と声がかけられる。

「うん。……いや、どうかな」とわたしは苦笑した。

「座りなよ」

「ありがとう」

 そのわたしは代わりにキッチンへと赴き、コーヒーをいれて戻ってきた。熱いコーヒー。あのわたしは熱いコーヒーを冷まして飲むのが好きだと言っていた。でもそれが嘘だということを、わたしは知っていた。あのわたしは、ただ読書に集中してコーヒーを忘れていただけなのだ。わたしにはそういうところがある。でもどうだろう、あれは本当に嘘だったのか。それも一つのディファレンスではなかったか。彼女が選んだ結果。

 わたしは解体された自分の身体というビジョンを追い払うことができないでいた。

 今ではもう、その真偽もわからないのだ。

「誰が殺したんだろう?」

 と誰かが呟いた。それはこのわたしかもしれないし、他のわたしかもしれなかった。

「わたしだよ」

 どきっとした。それは、確かにわたしの発したものではなかった。言葉の主を探して見回すと、店内の視線が、白衣のわたしに集まっていた。

 それまでそこにいることに気づかなかった。彼女は暗い顔をしていた。わたしもきっと同じ顔をしているのだろう。生理痛のときみたいな顔をしていた。

 他のわたしが軽く笑いながら言った。

「そりゃあそうだろうさ。この船内にはわたししかいないんだ」

「確かに」と別のわたしが同意する。

「でもどうしてですわ姫は殺されたんだろう?」

「”ですわ”口調がムカついたんじゃない?」

「あー」複数のわたしが声を揃えた。

 あのわたしの話し方は確かに独特だった。それがわたしの気に入らないこともわかっていた。あれは、あのわたしの抱えた矛盾でもあったのだ。自分を信じて貫くこと。あだ名の否定ーーそれを徹底するならば、あのわたしは話し方を変えてはならなかったはずだ。でもそうしなかった。そうできなかったのだ。それがあのわたしにとっての弱さだった。

「ネガティブ半島の刺客じゃない?」

「まさか」

「陰謀説は流行らないよ」

 わたし達はそうやって努めて軽やかな口調で、話を続けていく。枯れ葉の落ちるような話し方だった。あるいは脱皮するかのような。そうすることで、わたし達は、この大事件から自分を上手く切り離そうとしているようだった。

 読み慣れた事件に落とし込む作業。熱狂はした。しかしリアルだとは信じたくなかった。だから、そのようにして消費していくのだ。

 消費されるわたし自身。誰かによって殺されたあのわたしは、今頃栄養となってこの宇宙船を巡っているだろう。わたしは自分の前に置かれたマグカップを見た。このコーヒーを出した豆も、いつか死んだわたし自身から出来ているのだ。わたし達は自分を食って生きている。

 煮立った黒い血液が吐き続ける煙が、わたしに火葬場を連想させた。喪服と焼香の煙。わたしは母の葬儀を思い出した。病気で死んだ母。わたしは母が好きだった。けれども、棺の中に横たわる彼女は、ただの物質であった。わたしは記憶の中の母と、目の前の彼女だったものを上手く繋ぐことができず、どうすれば良いのかわからなかった。混乱していた。

 死んだのは誰だ? 

 あの時のわたしは、死んだのは母だということにして、泣くことに決めたのだ。完全に選択的な行動だった。

 しかし、現状においては、その方法も使えなかった。わたしはもっと複雑な混沌の中にあった。ですわ姫が死んだ。わたしの分身が。わたし自身が。いや、こう言うわたしは生きている。死というイメージが、わたしの空洞をするすると降りてきた。好奇心のある蜘蛛みたいに。手が触れる直前に、それは端から燃えていきに、やがて手の平には灰の小さな山が一つ残される。そしてそれは水に変わる。手の上で海が湧く。わたしの中の空洞はあっという間に満たされる。溢れる。とにかくわたしは窒息する。

「大丈夫」ともう一度聞かれて、それで、はっと目を覚ました。あの病院で目覚めてからこの方、頻繁にトリップしているような気がする。

 わたしはコーヒーを飲んだ。

「しるし付きだったのかな」とまた別のわたしが言っているのが聞こえてきた。

「ですわ姫?」

「そう言ってたよね」

「自分が特別だとは思ってたみたいだけど……誰か見た人いる?」

「見せたから、殺されたんじゃないの。あれがあれば、地球に帰れるんだし」

 しるし。

 この宇宙船には、常に一人だけ、しるしを持っているわたしがいるという。それが誰かはわからない。そして、それが一体どんな形をしているのか、それは物質的なものなのか、それとも概念的なものなのかすら、誰も知らない。ただ、都市伝説の一つとして、まことしやかに囁かれていた。

 曰く、しるしを持つものだけが、一足先に地球に帰ることができる。曰く、それは所有権を他者に譲渡可能である。しかしながら、それが使われたことは、わたし史上一度もない。

 でも、これは別に不自然なことでもないのだ。あの子のいない地球に帰って一体何になるのだ、というのがわたし達の総意である。

「じゃあ、もうすぐロケットの灯が見えるかもしれないね」

とわたしの内の誰かが言った。

 ひどく乾燥した言葉だった。かつてはそこにロマンを聞いたのかもしれない、しかし今ではそれは潤いを失って、砂漠の風のように聞こえるのだ。その場にいる誰もが、そんなことが起きることを信じていなかった。

 白衣のわたしが立ち上がって、言う。

「わたしはこれから予定があるから、失礼するよ。ねぇ、わたしも来る? 仕事って気分じゃなさそうだし」

 わたしの言う通りだった。わたしは自分の分身にその店を任せて、外に出た。血の臭い以外を嗅ぎたかった。

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