第2章 殺人事件とプレイボール (2)
白衣のわたしは街の真ん中に住んでいて、辺りには背の高い建物が並んでいた。広い道が石造りの建物に囲まれている。多くの人間が住めそうだったが、その内の大半は空室らしい。
わたしが死ぬと、遺体は速やかに回収され、処理される。わたし達の体には、死を報せる装置が組み込まれているのだ。死ぬと初めてオンになり、信号を発する。それを受けてロボットがやってきて、遺体を持って帰る。
「死んだらどうなるの?」
「肉体は病院に搬送されて、溶かされて、この宇宙船の栄養になるんだよ」
白衣のわたしはそう言った。地下深くを走る管を通って、それは宇宙船中を巡る。一部は生産プラントの土になり、他の一部は新しいわたしの材料となる。ここにも一つの環があった。わたし達の生は、わたし達自身の死の中にある。
今日の彫刻は好調のようで、肌艶が良かった。目のない平坦な表情で、それは視線を道に、生きているわたし達に注がれている。誰かが何処かで常に見ているのだ。それはこのわたしばかりの世界において、貴重な客観性なのだろう。しかし、夏に鈍ったわたし達のセンサーでは、それを捉えることは難しかった。
秋のトラムに乗ってわたし達は図書館に向かった。しかし中々到着しなかった。図書館と名前のつくバス停は全部で三つあり、というのも、その敷地はあまりに広大だったのだ。
わたし達のトラムは、緑の平原をずっと泳いで行った。羊の代わりにロボットの群れがあった。それはここの芝生を整えるために放されているのだという。永遠を感じた。一つの群れが元の場所に戻る頃には、草はきっともっと伸びているのだ。彼らにはそれがわからないのだろうか? ふと車窓から錆びついた鉄の塊が見えた。ロボットの死体だった。
一つ目のバス停は、教会の前で止まる。それは立派な教会で、ここに至るまでずっと見えていたものだ。通り過ぎる限り、人の気配はないようだった。神を信じてみるブームは終わったのだ、と白衣のわたしは教えてくれる。わたし達が試してきた事柄は多いようだった。ただ、悲しいことに、わたしは元々浮気性な人間なのだ。どうだろう、仮に熱狂したとして、それを継続するにはあまりに長い年月が経過しているのかもしれない。
教会から先には、無数の直方体が並んでいた。大きさは疎らだし、距離にも規則性はなかった。それがわたし達の墓地だった。墓石は実に綺麗なもので、何も彫られていなかった。そんなことをしても意味はないのだ。今では墓石を建てることすらしないらしい。
「センチメンタルが現実的な力を持っていた時代って、すごく昔のことなんだよ」
彼女は平坦に言った。
それから十五分ほど直方体の群れを眺めて、また半時間ほど何もない草原を抜けて、わたし達はようやく図書館に到着した。
実に巨大な図書館で、わたしは初めそれを潜水艦だと思った。今しがた草原から浮上したかのように、鼻先を空に向けて傾いたまま静止している。わたしは圧倒された。トラムの中でずっと山だと思っていたのは、この潜水艦だったのだ。
思い出してみれば、彼女はずっと図書館のことを少し違ったイントネーションで言っていた。”カン”の音が高くなるのだ。しかし、今ではその理由も分かった。これは図書館ではなく図書艦と呼ぶべきものなのだ。
わたしは自分の浅い発想にどっと疲れたような気がしたが、それを否定するように、船の上まで見上げようとした。それで、危うくひっくり返りそうになった。潜水艦はそれほど大きいかった。でもわたしは標準的な潜水艦のサイズを知らない。
「わたし歴開闢以前のメディアもかなり揃ってるよ。映画とか、音楽とかさ」と白衣のわたしは言った。「残念ながら他の芸術部門は壊滅的だよ。たとえば、絵画は壁に映し出してみてるけど、やっぱり物足りないよね。彫刻系なんかもっとさ。そもそも作れない」
言いながら、白衣のわたしはわたしを連れて、エスカレーターに乗った。入り口に至るまで、呆れるほど長い階段があった。
「わたし歴以後の作品も多いけどさ、まだ全然少ないね。0.001%にも満たない。ちょっとほっとしない?」
わたしは頷いた。まだそれほど地球から離れていないのだ、と思うこともできそうだった。
図書艦の中に入ってまずしたことは、昼食をとることだった。すでに正午を過ぎていた。それに疲れてしまったのだ。本当に暑かった。身体はもうベトベトで、わたし達はすっかり汗だくになっていた。わたし達は蕎麦をすすり、餡蜜を食べ、シャワーを浴び、ラムネを飲んだ。それだけしてようやく落ち着いた。
「何を調べたいの?」と白衣のわたしが訪ねてきた。
「ノープラン」とわたしは答えた。
「ふむ。メニューにはなさそうだね」
「だろうね」
「ま、そうだろうとは思ってたけどさ」わたしが笑った。「でも、そうだね、ついでだから、今後のことを考えたらいいよ」
「今後のこと?」
そこからは草原が一望できた。わたし達は畳の上に足を投げ出しながら話をしている。潜水艦の中にある喫茶店の一つだ。純日本風のお店で、部屋が幾つもあり、それぞれは襖で仕切られている。縁側もあり、そこを他のわたしが通り過ぎた。ここは気持ちのいい場所だった。自然に近い風が吹き、何処かからかししおどしの頷く音がする。
「うん」とわたしが言った。「強制ってわけじゃないよーー馬鹿らしいもんねーーでも、なにか仕事を持つのも悪くない」
ここではそんなことをせずとも生きていける。確認には電子通貨の入ったカードが渡され、それを使えば買い物ができるのだ。制限はない。が、それでも、大きな問題はあまり起こらないのだそうだ。わたし自身を見てみても、金遣いは荒い方でない。
わたしの経済が破綻するときは、余程の事態で、その時苦しむだろう人間はわたし一人なのだ。
「つまりさ、これは専門分野を決めたら、ってことなのさ。好きなことをやればいいんだし、それは他のわたしがやりたかった別の可能性に違いないよね。専念できることがあった方が、余生、楽しくない?」
なるほど、その通りだった。
ここで目覚めてたったの二日だが、何かをはじめるのに早いということもないのだろう。
「まぁ、急ぐこともないけどね」と白衣のわたしが言った。「あ、ちなみに、お医者さんは倍率高いよ。試験があって、これにパスするのは難しいんだ」
「でも、わたしは通ったんでしょ?」
「そう、だから倍率が下がらないんだよね。希望持てちゃうからさ。でも、これは結構運が関わってる。実際の現場は簡単なんだ。誰でもできる。マニュアルがしっかりしてるからさ」
「じゃあ、どうして」
「設問がコアなところ聞いてくるんだ。無意味なまでに。昔のわたし達は意地が悪いよね」
そう言ってそのわたしは笑った。実に楽しげだった。わたしは、その制度は変わろうとしなかった
のだろうか、と考えてみた。
「議会が変えない方で行こうって決めたのさ」とわたしが教えてくれる。「その方が面白いからね。運の良いわたしと、そうじゃないわたし。それも一つの個性だよ」
わたしは賭けが好きな人間なのかもしれない。
本棚の森を歩きながら、わたしは興味を引いた本を手当たり次第バスケットに入れていった。困ったことに、わたしが興味を惹かれるものは、ほとんどの場合年季の入ったものだった。わたしと同じような考えをする人間が、この船には実に沢山いるのだ。
わたしは、司書のわたしに頼んで、カートを貸してもらう。バスケットからそれに本を写した時、わたしは色味が足りないなと思った。だから、そこで方針を変えて、わたしは二台のカートを連れながら、園芸のコーナーに向かった。
本の山を引き摺ってカウンターに行ったとき、先ほどと異なって眼鏡をかけたわたしが、納得したような表情を向けてきた。
「さては目覚めたばかりだね」と訊いてくる。
「そうだけど」
「やっぱり。騙されちゃって、もう……」
母のように微笑むわたしである。
「どういうこと?」
「それ、全部、情報端末版があるんだよ。しかも街のどこでもダウンロードできる。あのさ、この図書艦の司書には、一割だけ意地悪なのがいるんだよ。それを楽しみにしてる人たち。ローテンションでね、不親切するの」
わたしは愕然とした。
「なんでそんなこと……」
「ガス抜き、レクリエーション」と言いながら、眼鏡のわたしは指を二本立てて見せる。「自傷行為って、存外すっきりするのさ。限度あるけど。用法容量は計画的に、ってね」
そしてそのわたしもヘタクソなウィンクをして見せた。こればかりは上達しないらしい。わたしには、ウインクのための遺伝子が欠けているのかも知れない。
「……良いんです! わたしは本の重みを大事にするので!」
わたしはそう言ったが、自分は欺けない。
「じゃあ、がんばって長い長い道のりを持って帰るんだね」
そう、その点がわたしを暗くさせていた。あの街まで一時間半の道のり。想像するだけで、気が重くなる。積載量超過、出撃できません。
「……端末版に替えてください……」
「かしこまり。カードはお持ちですか?」
わたしは敗北した。
別行動を取っていた白衣のわたしを待っている間、わたしは園芸の本を読んでいた。それはチェコのSF作家が書いたもので、庭への愛で溢れていた。わたしは、彼の本を他にタイトルしか知らなかったが、これほど豊かな書き方をする人とは思っていなかった。ユーモアでいっぱいだ。
「やほ、待たせたかい、わたし」
と声がかけられたので、ニヤニヤしながらわたしは本から顔を上げた。その本があまりに面白かったからだが、直ぐに失敗だったと気づく。誰も見ていないと思って気を抜いていた。
ギョッとするわたしを見て、わたしは真顔に戻る。
「ううん、今来たところだよ」
努めて爽やかに言ったつもりだった。
「そ、そう……」
と気まずそうにするわたしである。わたしは窓硝子を突き破って逃げ出したい衝動に駆られた。死んでも生き返るというセンテンスは、わたしに勇気を与えてくれる。しかし、そうしなかったのは、そのわたしの後ろにもう一人のわたしを見つけたからだ。
「その人は?」とわたしは尋ねた。
白衣のわたしは救われたような面持ちで、自分の後ろのわたしを紹介する。
「やほ、ミクニ・ライカです」とそのわたしは言った。
「やほ、ミクニ・ライカです」とわたしも挨拶を返す。
「やほ、ミクニ・ライカです」と白衣のわたしもなぜか名乗った。
わたし達は視線を交換して、にやりと笑った。わたし達は通じ合っている。そして、すごく気味の悪い集団だった。
「このわたしは、ここのガイドをしているんだ」と白衣のわたしは説明した。「聞いて驚くなかれ、なんとただの図書艦じゃないんだよ、ここ」
しかしわたしはそれまで、ここまで巨大な図書艦を見たことがなかった。地球の友人も皆支持してくれるだろう。すでに普通でないのは明らかだった。
第三のわたしはタイトスカートと黒いタイツを履いていた。首元に赤いスカーフを巻いており、頭には小さな帽子を少し傾けて被っている。客室乗務員を思わせるスーツの胸ポケットからは、赤いハンカチが覗いていた。そして一本の旗を持っている。それを振りながら、口を開く。
「はーい、ガイドです。きみは新人なんだってね」
「うん」
「そんなきみに、この図書艦の秘密、ひいてはこの宇宙船わたし号の秘密を教えちゃいたいと思います!」
そう興奮気味に言いながら、そのわたしは旗を喧しく振った。そういう仕事なのだとしたら、かなり過酷だ、とわたしは思う。客室乗務員というよりは、タレント寄りのレポーターみたいだ。
わたしのこの予想は当たってしまった。
「チャンネルはそのまま!」
と、そのわたしは言って、指鉄砲をわたしに向けて撃つ。またしてもへたくそなウインク。
ガイドのわたしの羽ばたく旗の音を聞きながら、わたし達は長い螺旋階段を下っていった。歴史が階段の真ん中を凹ませていた。わたしは自分が時を遡っているような気分でいることに気づく。一段降りるごとに、一単位時間分遡行する。わたしはわたし歴の全容をまだ知らない。借りてきた本はまだ開いていないのだ。
螺旋の中央には、時々点滅するものがある。砂のように小さな光が、時には密に、時には疎となって落ちている。あるいは昇っている。それは、階段を下りはじめた時には気づかなかったことだ。
「これはなに?」
と光の砂を指差してわたしは尋ねる。
「それは、レーザー誘導型のエレベーター、の名残りだよ」とガイドのわたしは答えた。「昔、そういうプランがあったのさ。ビーコンを出してね、リニアで箱を持ち上げるのさ。でも、結局開発されなかった。その前に企画者が死んじゃってね。そのわたしはキスをしなかったから、誰も作り方を知らない。後を継ごうって人もいないしね」
そうして失われていくものもあるのか、とわたしは思った。永遠じゃないこともある。
「まぁでも、話のタネとしてはちょうど良いよね」と白衣のわたしが言った。
「うん。そういうわけで、我々図書艦観光部はこれを残しているんだよ。ここに観光しに来る人って、少ないしね」
ガイドのわたしは笑った。
「それに、そっとしておいた方が良いのさ、極力、本当はね」
わたし達はその後、地下までしりとりをして過ごした。七文字以上限定で。
段々と気温は高くなって行った。館内は涼しかったので、うっかり忘れていたけれど、ここは夏の船なのだ。わたしは何度も汗を拭い、ぐしょぐしょになった上着を脱ぎ、ついに下着だけとなった。
白衣のわたしとガイドのわたしは平気みたいだった。シャツのボタンを二つ三つ外しただけだ。
「運動してるからね。身体は丈夫なんだ」二人はそう言った。
やるべきことは色々あるようだ。
ついに最下層についたとき、わたしはすっかり疲労困憊していた。よくよく考えれば、わたしは昨日の朝に生まれたばかりなのだ。この街で一番貧弱かもしれない。少なくとも鍛えてはいない。
二人のわたしは、わたしが正常な呼吸を取り戻すまでじっと待ってくれていた。わたしは明滅する視界の中で突如拓けたその空間を観察していた。
そこはドームになっていた。階段を下る途中は、黒い石ばかり見ていたのだがーーそれは深い井戸のようにも見えていたーーここは対称的に、真昼だった。一面を大理石のように白い石が埋めている。それは内部から光を放っていて、そのせいでわたしは余計目眩がした。
ドームの中央には、金属の釜が置かれている。これもまた大きい。ドームの半径は十mほどあったが、そのいっぱいの高さがあった。窓が一つ開いていて、そこは今朝見た新聞のように青い色をしている。
またしてもわたしは水族館を思い出す。あの子と良く行った場所の一つだった。彼女は魚が好きだった。海が好きだった。あの色が好きだった。わたしはどうだったろうーーそういった物事はもちろん嫌いではなかった。ただ、そういうところに行く時のわたしは、あの子のことだけ気にしていたので、実のところよく思い出せないのだった。
「水槽?」とわたしは尋ねた。
「水に満ちているところは正解」と言ってガイドのわたしは旗を振る。そのシートに円が表示される。「でも、及第点は上げられないね」旗の模様がバツしるしに変わった。
「ねぇ、わたし、覚えてない? わたし達はここで作られたんだよ」
と白衣のわたしが囁いた。
わたしには何も思い出せなかった。立ち上がって、低く唸っているその機械をわたしは正視する。その低音は不思議と落ち着く音で、わたしは呼吸が戻ってくるのを実感している。
ガイドのわたしは旗を釜に向けた。
「そう、これは人工子宮。あるいは、わたし達の”お母さん”。この船の生命は全てここからスタートして、やがてここに帰ってくる。だからこれは、わたし達の心臓と言うこともできるね。わたし達と、つまりは宇宙船わたし号の。でも、わたし達は普通、別の名前でこれを呼ぶ。なぜなら、これにもちゃんと地球から持ってきた名前があるから」
ガイドのわたしはそう言って、わたし達二人を誘った。わたし達はその機械に近づく。いや、それは機械などではなく、小規模な一つの工場なのだ。一歩近づくごとに、低音はもっと強くなった。それは、実体的な言葉を放っているように聞こえた。
「こちらをご覧下さい」
そうしてガイドのわたしが旗で示すのは、機械に彫られた一つの名前だった。
《猶予器官》ーーモラトリアムと。
わたしはそこに立ち尽くして、しばらくその名前を眺めていた。宇宙船わたし号の目的が、その真相が、微かにちらついた気がした。わたしは宇宙を思う。この閉鎖空間を取り巻く星空を。この黒く塗りたくられたベン図の中で、唯一守られている環の内側で、わたし達は永遠の命を続けている。星々だって死ぬのだ。しかし、そういう自然の摂理から、わたし達は守られている。預けられている。宙に浮いている。無重力。
わたし達には根も葉もないのだ。わたし達は、眠り続ける種子である。この小さな殻の内側で、どんな混乱が起きようとも、それは外部に影響を及ぼし得ない。黙ったままの種子では、地面は揺るがないのだ。
群体としてのわたしの存在意義は、では、一体なんなのだろう? わたしは混乱した。なんのためにこんなことを続けているのだ? いつまで?
「宇宙船わたし号はーー」とガイドは話しはじめる。「ーー大きな頭蓋骨のようなものです」
そのわたしはそこにあるベンチに腰掛けた。わたし達もそれぞれ座る。ベンチは全部で三つあり、三角形の頂点の一つは、人工子宮の名札に向けて開いていた。
「わたし達は全体で一つの思考体を形成している、というのがブレーンである議会の共有する見方ですね。結局のところは、人格は一つである、と。わたし個人としては、この意見に賛成です。だってさ、宇宙みたいな大洋においては、わたし達なんて魚を流れる赤血球の一つ一つに過ぎないんだからね」
白衣のわたしが頷いた。わたしは、ガイドのわたしが何の話をしているのか良く分かっていなかった。わたし達は、それでも、それぞれに何かを考えているではないか。
「わたしは、オリジナルの意思について話しているんだよ。議会はそれを追求する組織で、わたしはそこに派遣される観光案内人だからね。それを伝えるのさ」
「ディファレンス論は、一人のわたしと他のわたしを比較することこそできるけどね、それは閉じこもった話なんだよ」
と白衣のわたしは言った。
「わたし達は本質的に同じ人間でしょ? だから全体で見た時に、その差異は取るに足りないものとして消えちゃうんだよ。ふっ、とね。差異っても、バームクーヘンくらいの厚みしかないんだ」
「そういうこと」
とガイドのわたしは旗の先を白衣のわたしに向けた。
「さて、そんな宇宙船わたし号ですが、製作者であるオリジナルの意思とは一体なんでしょう? 残念ながら、この答えは図書艦にも残されていません。勿論、記憶の中にもね。最初のわたしが目覚めた時から、この街はもう宇宙を彷徨っていたんだよ。かれこれ数世紀は経過してる」
数世紀。わたしは途方に暮れた。
「その間わたし議会は、議論を続けてきた。こればっかりは飽きずに、ずっとね。でも答えらしい答えなんて出てこなかったし、多分今後も出てこないんじゃないかな」
ガイドのわたしは旗をくるりと回した。ペンを回すようにして。それは親指の付け根でしばらく回り続けた。
「ただ、わたし達みんながそれとなく信じている意見もあるーー信じるって言葉は強過ぎるかな、これって対象が確かなものに使う表現だからねーーそれは、これが一つの治療だということだよ」
「自己カウンセリングね」
白衣のわたしが補足して、二人のわたしはわたしを見た。
どちらともなく言った。
「ねぇ、わたし。わたしには共通する衝動があるよね」
それは紛れもなくあの子のことだった。
「わたし達は、あの子のこと、今でも好きだよ」
と、わたしは言った。
それは白衣を着たわたしかも知れないし、ガイドのわたしかも知れないし、それともこのわたしかも知れなかった。誰が言ったかはわからなかった。誰が言っても同じことだった。全てのわたしは、同じことを考えている。ここにいないわたしも、過去にいたわたしも、未来に目覚めるだろうわたしも、きっとそうだ。
わたしは、あの子を愛している。
諦めムードであることには変わりないし、事実わたしは諦めた。しかし、それでもこの想いだけは偽りようがないのだ。打ち消し方を知らない。ずっと好きだ。あの栗毛の巻き毛と、淡い茶色の目。そしてとろりとした甘い声。そういった全てのことを、ちゃんと思い出すことができるのだ、今でも、わたしは。
「わたしはこうも考えるんだ、わたし達はあの子への態度を決めなければならない、とね」
時間が経てば経つほど、新しくより強いものを獲得しなければならなくなる。それはタフな使命だ。希望はどこにも見えない。わたし達は無限に続く暗がりで、ずっと閉じこもってきたのだし、これからもそうかもしれない。
このわたしはオリジナルのわたしではない。けれども、彼女はきっと態度を決めずに死んだのだ。この永遠の生命があるとすれば、それはきっとその遺志を継いで、形にするためなのだろう。
長い道のりを経て、白衣のわたしとわたしは街を歩いている。
耳の中には《猶予器官》の低音がずっと残っていた。わたしは宇宙のことをずっと考えていた。そして宇宙船わたし号のことを。この長い楕円軌道のどこに、あの青い惑星をおけば良いのか、よくわからなかった。ここと決めていざフォーカスを絞るとき、それは別の場所に飛んでいる。常に地球はわたしの視界の外にあった。ただ、その存在を感じるのみである。
わたしは諦めて、視点をずっと手前に引く。わたしは後退する。そうして十分な距離を取る。そうすれば、離散する地球も一つの線を描くのではないかと思ったからだ。もしかして、環を。
でも結局のところ、この試みも失敗に終わる。地球は消えてしまう。あまりに遠くに来過ぎたのだ。ただ、低い唸り声と共に、その存在がかすかに聞こえるだけとなる。それは記憶の向こうから届いてくる、わたしの知らない言葉だった。
郷愁、とわたしは思った。そうだろうか。わからなかった。
「ねぇ、わたし」と白衣のわたしが尋ねる。「仕事、なにするか決めた?」
そのわたしが答えを期待していないことはわかっていた。それはすぐに決めることではないのだ、先ほど自分で言ったように。
でもわたしの中で唐突に閃くものがあった。
「花屋さんをやるよ」
言いながらわたしは安堵していた。着慣れた服を着る間隔に似ていた。その言葉はわたしの身体にぴったりと合って、だからわたしは守られた気分になっていた。
「どうして?」
「なぜだろう、これが一番良いような気がするんだ」
「そう」と白衣のわたしは微笑んだ。「それも一つの可能性なんだよね」
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