第2章 殺人事件とプレイボール (1)

 わたしが目を覚ました部屋は暗く涼しかった。だから苦もなく目を開けることができた。窓には分厚いカーテンが引いてあり、それのお陰でわたしは夏から守られていたのだ。この部屋には時計がなかった。今は一体何時なんだろう? 頭痛はなかった。わたしは一杯の酒には弱いけれど、二日酔いにはならないのだ。

 ベッドから下りて、カーテンを払う。すぐ近くで夏が待ち構えていた。勢い良く窓ガラスに激突してきて、その余波がわたしを瞬時に焼く。目眩。数歩後退し、再びベッドに倒れた。

 ノックがされる。扉が開いて、そこに立っていたのは、白衣のわたしだった。

「おはよう、わたし。調子はどう?」

「悪くはないよ」

 と言うわたしの脳裏に、ふとぼやけたビジョンが蘇った。わたしは額を抑える。

「酷い夢を見たよ……。わたし同士がキスしてるんだ。しかも、かなりディープに」

 白衣のわたしは笑った。扉に寄りかかったまま言う。

「夢じゃないよ。きみがわたしと話しているくらい現実だ」

「ああ……」信じ難かった。

「でも、それも慣れだよ。わたしも最初は驚いたさ。でも、仕方ないよね、他に空いてもいないし。それにほら、わたし達若いしさ、いろいろ持て余す」

 白衣のわたしはそう言って、自分の唇を指でなぞった。それは扇情的な仕草だったが、わたしにはあまり効果がなかった。少なくとも、一般的に期待されるような意味では。ただし、わたしはその仕草を鏡に向かって練習していた過去を思い出さずにはいられなかった。だからわたしは赤面した。

「それにしたってさ……」とわたしは呟いて、そこでふと自分が昨晩までと違う服を着ているのに気づく。肌もあの熱気にいたにしてはさらさらしていた。わたしはいつシャワーを浴びたのだ? ゾッとした。白衣のわたしを見て、

「ねぇ、何もしてないよね」と問う。

「あの子に誓って」

 とわたしは言った。最上級の肯定だった。

「良かった」

「白状すると、キスはしてない。ただ、きみの身体を拭いて、服を着替えさせはした」

「……ねえ、それは十分何かしたって言うんじゃないの」

 彼女は少し笑ったが、わたしの顔を見て思い直したように言った。

「うん、そうだね、ごめん」目蓋を閉じる。「わたしだったら、シャワー浴びてから眠りたいかな、と思ったんだよ」

 そうやって反省している自分の姿を見て、わたしは気の毒に感じてしまう。それは罠のようにも思えた。肉を持った鏡像であるわたし。その仕草に、わたしはまた自動的に共感してしまう。他の人間だったら、わたしはもっと怒っただろう。争うことだってできる。しかしここではそうもいかない。徒労に終わることは明らかだった。

 わたしは毎晩シャワーを浴びる人間だ。朝に起きてもう一度。このサイクルは、わたしの生活の中に組み込まれた大事な歯車の一つだった。習慣も共通しているのだとわたしは知る。

 黙っているわたしに、白衣のわたしは尋ねた。

「わたしのこと嫌い?」

 わたしは今までそんな質問をしたことがなかった。少し違った聞き方なら、思いついたことはある。それは、たとえば、あの子に対してのものだった。わたしは、しかし、結局あの子にそう尋ねなかった。怖かったのもある。馬鹿馬鹿しく思えていたのもある。わたしとあの子の間に、そんな子供染みた質問は要らなかった。そういう時期が確かにあった。

 今ではそれは数ある後悔の内の一つだ。なぜわたしは訊かなかったのか。あの子が男の人と一緒にわたしの前から去った時、わたしはその後ろ姿に声をかけようとして、止めた。その時は、それが無粋な問いに思えたからだった。

 もし尋ねていたとして、あの子はなんと答えてくれただろう。わからない。だから、わたしは慎重に自分の分身に答える。わたしは好意という事柄について、臆病になっていた。

「自分のことでしょ? 嫌いじゃないよ。でも、キスしても良いほど好きじゃないし、寝ている間に服を着替えさせられるのには、慣れそうにないかな」

「そうだったんだよね」

 と白衣のわたしは懐かしむように言った。

「わたしも最初はそうだった。うん。誰しもパートタイム・ラブが必要なのさ。考えてもみなよ、ここではさ、自分ってものが段々わからなくなってくるんだ」

 そうなのだろう、わたしは頷いた。昨日の晩、わたしはそれに恐怖した。

「ですわ姫には会った?」

「うん」

「あのわたしだけさ。あのわたしだけは、この宇宙船わたし号の雰囲気に抵抗しようとしている。あのわたしは他のわたしとキスをしない」

 キス? とわたしは思ったが、白衣のわたしはそのまま話を続けた。足を組み替えて、左足に重心を移動させる。

「わたしは同じ人間として生まれている。クローンだからね。でも、覚醒後の経験によって、少しずつ差異が生じてくるんだ。それは、アイデンティティになりえるよ。そう思わない?」

「わたし達にも個性があるってこと?」

 白衣のわたしは頷いた。

「とても小さなものだけど、確かに。ーーそうわたし達は信じてる。それは本当に些細な違いだけどさ、わたし達はそこに大事なものを見るんだよ。恋が芽生えることもある。違う経験を経た自分自身って魅力的だからね。キスをするのは、そういうことさ」

「大したナルシスト」とわたしは辛うじて言う。

「確かに」とわたしは微かに笑った。「でも相性は最高なんだよ。自分の気持ち良いところを一番知っているのは、わたしだからね」

 茶化すようにわたしがウィンクをする。やはりへたくそなウィンクだった。

「とはいえ、新しい発見に乏しいのも本当だよ。自分を愛することは、気持ちの良いことだけど、でも結局のところ、それは突き抜けないんだ。閉じてる」

 そうして、そのわたしは両手で環を作った。

「突き抜けないってどういうこと」

 とわたしは尋ねた。

 白衣のわたしは、自分の唇に人差し指を当てながら言う。

「キスにはちゃんと意味があるんだ。特定わたし間通信って言ってね、わたし達は体内のナノマシンを介して、経験を共有することができるんだよ。キスをするでしょ、したら相手と記憶をシェアできる」

 そこまで聞いて、わたしは自分の言いたいことがなんとなく理解できた。他のわたしとの差異に惹かれて恋をしキスをするわたしは、しかしそうすることでその差異を失いかねないのだ。共有される情報量に程度はあるのだろう。自分で制限できるのかもしれない。けれども、それは、本質的な意味で、他者性を殺すことに他ならない。

「突き抜けないっていうのは、そういうことさ。わたし達同士の恋は、永遠に実らない」

 完成しないナルシシズム。

 そう白衣のわたしが言った。寂しい響きを伴った言い方だった。不意に生まれるその雰囲気はわたしの同情を誘ったが、わたしはどこか納得できないものを覚える。それは直感だった。言葉にははならない。形になる前に、それはふわりと消えてしまう。

 集中力が続かなかった。わたしはお腹が空いていたのだ。腹の虫が鳴く。

「ご飯はできてるよ」と白衣のわたしは笑った。「そう、それで起こしに来たんだった」

 寝室を後にする。

 わたし達は朝食を食べた。パンとスープとベーコンエッグ、ドライフルーツの乗ったヨーグルト。そういう簡単なものだ。わたしが記憶の中でよく作った献立。しかしなぜだろう、それはずっと美味しく感じられた。

「練習したからね」とわたしが言う。

 ここにも差異があった。でもわたしはその新しい経験を共有したいとは思わなかった。希望のままで十分だった。わたしは上達できるのだ。食卓の未来は明るい。

 とはいえ、今テーブルの上に並んでいるそれらが、特別訓練を要しないものであることは、わたしはにもわかっていた。そう、だからこそ、余計に好奇心が疼いた。そのことがわたしをいくらか安心させていた。

 もう一人のわたしは食べながら新聞を読んでいた。薄いシートが何枚か重なっているそれは、全体的に深い青色をしていた。わたしは水族館を思い浮かべる。何匹もの記事の見出しが横切っている。指で触れると、それは身を強張らせ、止まる。もう一度突くと、展開し、全文が読めるようになる。地球にいた頃と同じだった。

 ただ違うところが一点あって、そのあまりのナンセンスさにわたしは眉を寄せてしまう。記事の終わりにはよくキスマークがついていたのだ。一口サイズの唇しるし。「KISS ME MORE」と書いてある。

 わたしは尋ねた。

「それは?」

 白衣のわたしはスープを飲んでいたところだったが、カップをおいてわたしの視線を辿った。

「簡易版の共有ポートだよ。ほら、わたし間通信の話はしたよね?」

「少しだけね」

「その応用が、これ。体験談とかによくついてるね。その時の感情とかを共有するためのもの。もちろん、直接ナノマシンを介するより、情報量は制限されるし、繊細さにも乏しくなるけどね」

 技術は確かに進歩していた。わたしは記憶の中よりずっと未来に来ているのだ、と知る。それはこのわたしにとって意外なことだった。一体どれくらいの月日が流れたのだろう、この宇宙船わたし号が宙に上がってから……。

「……やっとく?」

 と白衣のわたしはキスマークをわたしに差し出した。

「今は、いい」

「そう」

 わたしはまだ、自分自身と経験を共有することが怖かったのだ。わたしは目覚めて日が浅い。個性と言うべきディファレンスもまだ持っていない。そこで、他のわたしから経験を仕入れてしまっては、それは、そのわたし達のコピーになるということではないのか。わたしが消えてしまう。

 だから、もっと自分の力でできることをしたかった。

「わたしは図書館に行こうと思うんだ。あるよね、図書館くらい」

「大きいのがあるよ。案内したげる」

「地図さえあれば……」とわたしは言った。

「そりゃあ、一人でも行けるだろうさ。ちゃんとわたしにもわかってる。でもさ、一緒に歩こうよ。ガイドになれる。それに、同じわたしがどう思うのか興味あるんだ」

 わたしは彼女の申し出を受け入れた。ただ一つ気にかかることがある。

「仕事は?」

「今日は非番だ」とわたしは答えた。

 ではなんで白衣を着ているのだ、とも思ったが、わたしは尋ねなかった。訊かなくてもわかることもある。白衣は格好良いからだ。今わたしが見ているそのように。 

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