第1章 おはよう、わたし (5)

 しばらくそのまま呆然としていた。流れる音楽を背景に、わたしは炭酸の抜けていく音を聞いている。黒い液体の中にあって、その細かな気泡は、テーブルの上の灯火を各々に映し込んで、まるで無数の恒星のように見えた。早回しの宇宙歴。現れは消えていく星々。

 宇宙。わたしは途端に不安を覚える。無重力。呼吸のできない世界。わたしは大きく息を吸い込んだ。しかしそれは知らない言語を読むように、手応え無く感じられた。少し暑かった。息が詰まりそうだった。

 ライカ。わたしはロシアの犬を思い浮かべる。父はわたしにその名をつけた。わたしの幼い頃の夢は、だから、宇宙飛行士だった。それは父の夢でもあったのだ。父。今のわたしに父はいるのか。それはきっと環の真ん中に属するもので、環それ自体であるこのわたしのものではない。

 この記憶にしたって、それは借り物に過ぎないのだ。

 蝋燭の火を囲う紙を千切って、わたしは床に落とした。それは落ちた。重力はある。しかしここは地上ではない。わたしの常識が求める意味での、地上は、少なくとも。もう一度床を刻んだ。わたしの履いている革靴の底が、軽やかな音を立てた。嘘のような軽やかさ。いつこの床は抜けるんだろう? その確信に近いものが首をもたげていた。

 わたしはコーラを一口飲んだ。宇宙の色は甘かった。星が喉を微かに焼いた。わたしのお腹の中でそれは膨張し、そうしてわたしを騙すのだ。

 気がつくと立ち上がっていた。眠っているわたしの分身をしばらく眺めている。どれくらい経ったのだろう。歌が蘇ってきた。父の声。

 ライカ、ライカ、夏が来るーー。

 彼はこの名前が気に入っていたのだ。わたしはどうだったろう? 思い出せなかった。

 その部屋を出て、わたしは熱狂的なバンドの演奏を横切り、別の部屋に入った。スクリーンのある部屋。湾曲している壁一面が銀幕になっていて、そこには奇妙な映像が映し出されていた。それぞれのカットは風景からなっており、一つ一つの短い映像がグラーデーションの内に変わっていく。

 わたしがはじめ見たのは、冬の山脈の映像だった。菫色の空を背景に白い峰が続いていた。そのぼやけた空から白色が抜けて、山に染み込んでいく途中を映し出しているみたいだった。この宇宙船にそんな場所があるとは思えなかった。では、それは地球の風景なのだろうか。今はおそらく遠くにあって、厳密にはわたし達の故郷ではきっとないあの青い天体の。

 山肌は次第に青色を濃くしていく。深くはならない。そのまま透き通るようにして、明るい緑色が蘇っていく。そして、峰の連鎖する背びれは、角を忘れ、丸みを帯びたものへと推移する。それは緩やかな曲線を取り戻していき、山肌で煌めくものが増える。そのようにして、わたしの見ている風景は海に変わる。おそらくは南国の大波を映し出したのだろう。冬の山脈の余韻が、どっとわたしに押し寄せてきた。新しい映像のその波と同じように。

 映像はその後も変化を続けた。スクリーンの上では連想ゲームが継続中だ。人の姿は映らなかった。純粋に風景だけ。どのカットもわたしによく染みた。胸の奥底が震えていた。わたしは忘れてしまった大切なものを、もう少しで思い出せそうな、そういう未然の気分に置かれた。それは郷愁だった。いたずらな、錯覚的な。熱狂しているわたしなんてその部屋にはいなかった。死んでいるか、あるいはぼんやりと画面を眺めて、何か答えのようなものを待っているのだ。インスピレーションを。

 この部屋では穏やかな音楽がかかっていた。同じようなフレーズが繰り返されるが、それは少しずつ変化していき、やがて全く違うものになる。映像と音楽の歩調は一致していなかった。音楽はもっと長い周期で変化していたし、だからこの部屋は静かで、停滞していた。

 空気の流れさえもゆったりしていた。薄く靄がかかっている。雲の中にいるようだった。それとも夢の中に。一人一人は自分の中に閉じこもっている。わたしは画面を見る自分たちの視線が拡散しているのに気づいた。眠っているわたしの数もずっと多かった。

 靄はどこから来るのだろう? ふとそんなことが気にかかって、わたしは辺りを見回した。煙は一様ではなく、わだかまっている箇所がちゃんとあった。二十世紀の工業地帯のような箇所。わたしはそちらに歩いていく。

 そして、煙突を見つけた。あろうことか正体はわたしだった。

「ちょ、ちょっと、何やってるのさ、わたし!」

 驚きのあまりわたしは頓狂な声を上げてしまう。その丸テーブルには五人のわたしがいて、誰もが火のついた煙草を持っている。一人がシガレットを口に当て、息を吸い込んだ。煙草の先が灰に変わる音が鳴る。そしてそのわたしは、答えを待つわたしに向けて、紫煙を吐き出した。わたしは噎せ込んだ。涙も出る。

「馬鹿なことを聞かないでよ」とわたしは笑う。「わたし達は喫煙しいてる」

 そのわたしの言葉を皮切りに、他の三人のわたしが話しはじめた。

「合法だよ」「二十歳は二年前に過ぎてるし」「少なくとも、記憶の上では、ね」

 自分の声がそうやってドミノ的に聞こえてくるというのは、中々気味が悪かった。

「それ以外の答えが欲しいなら、そうだね、こうも言えるかな」

 四人のわたしは声を揃えた。

「センチメンタリストの会へようこそ」

 葉巻を咥えるわたしが席を立ち、隣のテーブルから椅子を持ってきてわたしに空けた。わたしはおずおずとそこに座る。煙たかった。目がしょぼしょぼするし、呼吸もままならない。しかし、他のわたしはそうではないのだ。どれほどの訓練を要するんだろう、とわたしは思い、その自傷的な行程に頭痛がした。

「……センチメンタリスト……」

「いかにも」

 とシガレットを指先で弄びながら、一人のわたしが言った。

「感傷主義者?」

「しかり」とパイプのわたしが言った。

「何するの?」

「映像を見る」

「はあ……」わたしは要領を得なかったが、ふと思い当たるものがあった。激しい不安に駆られる。「あのさ、もしかして、ひょっとしたらなんだけど……まさか鑑賞とかけてるの」

 どうか違いますように、とわたしは神に祈った。しかし無駄だった。

「さすがわたし、話が早い」沸き起こる拍手。

 わたしは酷く慌てた。余りにくだらなさすぎるからだ。そして何より、それもまた自分自身なのだということを認めたくなかった。

 説明は続く。

「まあさ、昔のことを思い出すんだよ。わたし達はここで生まれた。でも、地球にいた時のことは覚えている。ちゃんとインプットされてるんだよね。あの時はこんな気分だったなぁ、とかまでも」

 煙管のわたしが言って、カンと灰皿を鳴らした。頷く四人のわたし達。わたしは、同期の眠ってしまったわたしを思い出す。過去の自分を知って何になるのか、と泣いたわたし。同じような質問を、そのわたし達にもしてみた。

「何にもならない。ただの娯楽だよ。あの映像を見るのと一緒でさ。……ねぇ、わたしも煙草吸う?」

 わたしは首を左右に振った。「やめとく」

「どうして?」

「身体に悪いよ。そっちこそ、どうして喫煙なんかするのさ」

 四人のわたしは、目を詰むって煙を吸い込みながら少し考えた。

「それも、娯楽だから、だね」頷く残り三人のわたし。

「ねぇ、わたし。昔を思い出すことと喫煙って似てるんだよ。どっちも身体に良くない。自虐的。健全な精神は前に向かうのさーーたとえそれが見当違いな方角でもねーーでも、ここは本当に閉じてる場所なんだ。どこに向かっても行き止まり。わたし達はループの中をグルグル巡るしかない。生きて、死んで、生きて、死んで」

 一人のわたしが指に挟んだ葉巻を掲げた。わたしはそれを目で追って、彼女の示すものに気づいた。

 この部屋にも電気扇があった。ここでは役目を果たしている。そのわたし達が生産する煙は、ちゃんと分解されて拡散していた。そこには雲は残らない。切ないことに、そこだけぽっかり穴が空いていた。周りには薄い靄が張られているのにも関わらず。

 葉巻のわたしは言った。

「わたし達は軸が欲しいのさ。そしてそれは、記憶の中にこそあるんだよ。思い出の中のあの子は、いつも綺麗だ。それに、ずっと繰り返すわたし達に、ちゃんと付き合ってくれる。これは、悪くないよ。……うん、悪くない」

 それは確かに悪くないアイディアだった。わたし達に与えられた半年なり三ヶ月の人生。不確かな余命……しかし永遠で無いことも確かだ。わたし達はすぐに死ぬ。それでも、それは個体にとって見ればの話であり、群体としてのわたしにとっては永遠のようなものなのだ。

 実体としてのあの子はいない。でも、記憶の中にはちゃんといる。それは、そんな刹那あるいは永遠のわたし達にとって唯一の軸であり、支えであり、バームクーヘンの中心になりうる夢を見せてくれるものでもあるのだ。

 わたしは、そのわたし達の気持ちがわかった。同じ人間だ。この推量もあながち外れてはいないのだろう。しかしわたしには納得できない部分があった。だから言った。

「不貞腐れてるだけじゃない」

 四人のわたしが少し驚いた顔をして、すぐに困ったように笑った。

「そうとも言える。わたしだってはじめはそう思ったさ。でもね、わたし。そう考えるわたしもちゃんといるんだよ」シガレットを揺らしながら、わたしは言った。机の上から煙草の箱を取って、わたしに差し出す。

「吸わない?」

 わたしは左右に首を振った。「吸わない」

「そう」

「わたしはきっと違うわたしになるよ」とわたしは言った。

 この発言は、四人のわたしに違った反応を呼び起こした。シガレットのわたしは呆れ、葉巻のわたしは苦笑し、パイプのわたしは驚き、煙管のわたしは嬉しそうにニヤついた。

「それもまたわたしだよ」と言う。

 シガレットのわたしは、部屋の反対側に火を向けた。薄い靄の対岸には、丸テーブルに一人でついているわたしがいた。分厚い本を読んでいた。それは良い。わたしは本が好きだ。問題は、驚くべきことに、ロングスカートのワンピースを着ていることだった。

「あれは?」

「ですわ姫」とわたし達の内の誰かが答えた。「あのわたし曰く、選ばれし者だよ。ひょっとしたら、話、合うかもね」

「あれも喫煙反対派だし」

 ふうん、とわたしは答えた。この時はあまり興味は無かった。ただ、自分がそんなお洒落な、可愛い系統の服を着ているだなんて疑わしかっただけだ。それに、そういうのは、あの子のスタイルのはずだ。

 あの子風の着方。

 ふとそんなことを閃いて、わたしは一気にそのわたしに同情する。もしかすると、あのわたしはあの子を真似ているのかも知れない。途端にそのわたしがとても孤独なように見えた。

 同情が好奇心に変わり、歩き出したわたしの背中に、声がかけられた。

「嫌煙同好会でも作ればぁ?」

 ぎくっとした。振り返ると挑戦的な笑顔のわたしがシガレットを咥えている。さすがわたし自身だ。これ以上ないほど適切にわたしを苛立たせた。わたしは自分をきっと睨む。

「余計なお世話! ちょっと話してくるだけだよ」

 嫌なやつもいたものだ、とわたしは思い、そしてやはりかなり落ち込んだ。可能性は残酷だ。


 側に立つと、ですわ姫と呼ばれたわたしは、本から目をあげた。他のわたしとこのわたしと違って、ちゃんと化粧をしている。濃くはない。そしてかなり上手だった。わたしは身内に希望が湧いてくるのを感じた。からっきし才能がないというわけではないのだ。練習さえ積めば、きっと上手になるのだろう。

 覚えている限りわたしの化粧は、無しか過剰かの両極端だった。それを見かねてあの子がいつも手伝ってくれたのを思い出す。あの子は手先が器用だった。肌が綺麗ね、羨ましい、と言うあの子の肌こそ滑らかで、ずっと触っていられたものだった。その感触がリアルに蘇ってきたので、わたしは鼻を啜る。あれも今はあの人のものだ。

 ともかく、そのわたしの化粧の仕方は、あの子の魔法によく似ていた。

「綺麗な目だね」とわたしは言った。

 それは本心だった。睫毛がはっきりしているだけで、こうも明るさが違うのか。

 ですわ姫はきょとんとする。わたしの言葉を吟味するように小さく首を傾げて、やがて微かに笑った。他のわたしより上品な笑い方だった。

「見せる相手もいませんけどね」

 それでわたしはハッとする。自画自賛をやらかしたのだ。ここにはわたししかいない。恥ずかしさに赤面する私に、そのわたしは優しく言った。

「……でも、ありがとう。嬉しいですわ」

 救いとなった。そのわたしは本を閉じて、膝の上に置いた。

「お座りになりませんの?」

 わたしは反対側の席に腰を下ろした。

「それで、何かお力になれますか、わたしは」

 その話し方にわたしは違和感を覚えた。服装と化粧、そして優雅な仕草という違いはわたしのしるし象を大きく変えていたけれど、それでも同じ声で話すのだ。それに、わたしは彼女が自分と同じクローンであることも知っている。受け入れがたいものを感じていた。

「幾つか尋ねたいことがあるんだけど」

「なんなりと」

「なんで”ですわ姫”って言われてるの」

 そのわたしは、靄の向こうの工業地区を睨んだ。ぼやけた空気の向こうにいる煙突のわたし達を見たようだった。

 溜息を一つ吐く。

「わたしのくせに、残酷な訊き方なさるのね。……いえ、さもありなん、ですわ……」わたしは独り言のように呟いて、「それはね、わたしがこんな話し方をしてるからです」

「そんな安易な」

「仕方ありませんわ。わたしですもの」

 そう言われるとぐうの音も出ないのだった。

「でも、この話し方は、わたしが自主的に選んだことです。変えるつもりはありません」

 そう言いながら、そのわたしはテーブルの上の水筒から、ティーカップと水筒の蓋に紅茶を注いだ。少し悩むような間隔を空けて、わたしに水筒の蓋を渡す。

「……まさか誰か来るなんて思ってませんでしたから。同じわたしとはいえ、ゲストに自分が口をつけたのを渡すのも失礼ですわよね」

「気にしないよ、ありがとう」とわたしは言った。確かに難しい状況だった。そしてーーゲストーーその表現はこのわたしにとって全く新しい発想だった。同じ人間に礼儀という規則を適用するなんて、考えもしなかった。

「ピクニックみたいだね」とわたしは言った。

「それがポイントですわ」とわたしが言った。

 わたしは紅茶を二口ほど飲んでから、改めて尋ねてみた。

「その話し方、自分で選んだって?」

「ええ、そう言いました」

「嫌じゃない、あだ名で呼ばれるの」

「それは、嫌ですわ。でも、それで自分を変えるのはもっと嫌。そもそも、あだ名で差別化を図ろうなんて、馬鹿げてますわ。浅はかです」

 そうだろうか、と思ってわたしは水筒の蓋に口をつける。同じ顔の人間がこうも溢れている以上、それは仕方のないことのように思われた。

 これも一つの社会なのだ。社会と有効な命名制度は不可分のような気がした。

「あだ名ーーそんなことにあまり意味はありませんわ。わたしはわたし、ミクニ・ライカ、そうに決まってます」

 力強い宣誓だった。わたしは水筒の蓋の端を食みながら、反対の自分が続けるのを待った。

「仮初めの呼び方をして、そのことを忘れちゃいけないと思います。それは寂しすぎますわ。お父様とお母様がその名前をくれて、あの子もたくさん呼んでくれたのに……」

 テーブルの対岸で、わたしはわずかに震える。怖がっていた。それはわたしに伝播する。わたし達は忘れてしまうことが怖いのだ。

 クローンとしてはじまったこの命は、多くの記憶と共に目覚めている。それらは、しかしながら、わたし達が直接経験してきたことではないのだ。オリジナルのわたしの出会った事柄が、脳に書き込まれているだけで。二次的なもの。本来はわたしたちの所有ではない。

 それでも、わたし達には名前がある。由来も知っているし、呼ばれた記憶もある。仮初めのもの。けれども、そのお陰で、このわたしはわたしでいられるのだ。どこの誰でもないーーそんな状況を辛うじて回避できている。

 だから、とわたしは言った。

「わたし達は、主張し続けなければならないのですわ」

 それは盗人猛々しい論理かもしれないな、とわたしは思った。

 しかし、埋没してしまい、自分の溶けてしまうのもまた恐ろしいのだ。人混みの中で自分を見失ってしまうこと。もちろんその雑踏もまた自分自身である。それだけに、事態は把握し難いものになっているのだけど。

「あなたはご存知ですか、わたし達の寿命って短いんです」

「聞いたよ」

「でも、不貞腐れないで生きていきたいものですわね」

 そう言って彼女は紅茶を啜った。

 わたしはしばらく彼女を眺めていた。同じ人間のはずなのに、一々発見があるものだ、と思った。彼女とは良い友人になれそうな気がした。自分と友達になるなんて、今まで考えたこともなかった。しかし、ここではそれが実現可能なのだ。可笑しかった。わたしは白衣のわたしが言ったことを思い出す。「付き合い方さえわかれば、一番話のわかる人」。彼女とはどんな話ができるのだろう。

 いや、何も彼女に限定する必要もないのだ。ここにいる沢山のわたし達と仲良くなることだって無論できるだろう。

 わたしは立ち上がった。陽気な気分だった。

「ねぇ、わたし達はまた会えるかな?」

 彼女は上品に微笑んだ。

「この世界はとても狭いですわ。ですから、きっと」

「じゃあ、また。一緒に紅茶を飲んで、話をしよう。あの子のこととかさ」

 わたしはそう言って自分で驚いてしまった。あの子のことも、そういう風に明るく話すことができるのだ。考えれば当たり前のことだった。なぜ今まで気がつかなかったんだろう。楽しいこともいっぱいあったはずなのに。

「喜んで」

 彼女は言って、手を差し伸べた。わたしの手は思っていたよりもずっと温かく、そして柔らかかった。変な気分だった。

「あなたもどうか、自分の生き方を見つけてくださいね。大丈夫、ただ似た人が多いだけですわ」

 わたしの気を緩めるように。あるいは元気づけるように。そして祈るような口調だった。

「ありがとう」

「さようなら」と彼女は言った。確かに。


 ホールに戻ると、音楽の種類が変わっていた。誰かがディスクを回している。ダンス・ミュージック。わたし達が踊り狂っていた。身体を寄せ合い、奇妙な動きを繰り返している。室内の青い照明のせいで、それが、水流に揺れる海藻のように見えた。

 どのわたしも区別がつかなかった。わたしは現実に帰る。そうだ、わたし達は同じ人間なのだ。遺伝子レベルで。そうして下着だけになってしまえば、この汗と制汗剤と香水の匂いの中では、この溶けるような熱気の中では、互いに分離困難な、一個の群体と化してしまうのだ。

 わたしは立ち尽くした。なぜあのわたしが一人離れ、あの静かな部屋で本を読んでいたのかわかった。わたし達にできることは、自分を保つことだけなのだ。

 四つ打ちのドラムの音が、細かく切り刻まれた音楽が、わたしを解体しようとしていた。わたしは気持ちの悪さを覚えて、次の部屋に逃げ込んだ。バー・カウンターのあるスペース。

 そこでわたしはショットを注文した。いち早くここから逃げ出したかった。かといって、ホールを横切りたくなかったのだ。

「正気?」そう尋ねるバーテンもやはりわたしだった。

「違うかも」とわたしは答える。

「周り見てみなよ」

 見れば死屍累々だった。寝息を立てているわたしが、ごろごろしている。

「わたしがお酒弱いの知ってるよね?」

「でも、そういう気分なんだよ」とわたしは言った。

 バーテンのわたしは少しの間わたしの顔を見ていたが、やがてため息を吐き、ショットに透明なお酒を注いだ。

「わたしも付き合うよ。一人で死ぬのも辛いだろうし。もちろん、フリだけね、シロップで」

 わたし達はショットグラスを掲げて言った。プロスト。そして一気に飲み干す。次の瞬間わたしはその場に倒れた。横倒しになる世界。にじむ視界の向こう側で、遮音硝子の扉が開き、二人組のわたしが入ってくるのを見た。二人はそこでキスをした。嘘でしょ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る