第1章 おはよう、わたし (4)

 向こうには一際騒がしいバーがあった。そこが会場なのだろう。わたしはわたしが何人も入って行くのを見たし、何よりそこから聞こえてくる笑い声や歌声にしたって、それはやはりわたし自身のものなのだった。わたしは自分という人間が、それほどまでに陽気な声を出せることに驚いた。

 信じがたかった。狂気すら感じた。わたしはその場に立ち止まってしまう。

「あれがみんなわたしなの」

「うん」

「あんなに騒いで……」

 すっかり怖じ気づいてしまったわたしに、白衣のわたしは宥めるような口調で言う。

「でもさ、よく考えてみなよ。付き合い方さえわかれば一番話のわかる人なんだよ。同じ自分なんだから。そうだもん、やっぱり騒いじゃうよね」

 言いながら白衣のわたしはドアを開けて、わたしを中に押し込んだ。

 熱気が押し寄せてきた。わたしのにおいがした。少しずつ違う制汗剤なり香水の匂いもしたけれど、概ねわたしのにおいだった。

 入ってすぐ右手のところには仮設のステージがあり、そこでは三人組のバンドが演奏をしていた。プレイヤーは勿論わたし達だった。その前に群がるペプシコーラの瓶を持った人々も、当然わたし達だった。ステージ上のわたし達が演奏し、ファンのわたし達が声を合わせているその曲には、どこか懐かしい感じがあった。厳密に言えば、それは初めて聴く曲だった。けれども、わたしの好きないくつかのバンドの影響を強く受けていた。次にどんなフレーズが来るのかさえ予想がついた。試しにハミングしてみる。当たった。これは面白かった。わたしは楽しくなってきた。

「さ、きみの同期を紹介するよ」

 白衣のわたしが袖を引いた。してやったりという表情を浮かべている。今や気持ちの軽くなっていたわたしは、恥ずかしくて顔を赤くした。怖がっていたのが馬鹿みたいだ。自分の何を恐れる必要があのだ。

 店内はいくつかのセクションに分かれていた。バンドのいるホールが一番大きく、そこから更に三つの部屋に続いている。バーカウンターのある静かなスペースがあり、食事をするところがあり、そして巨大なスクリーンのある部屋があった。どこにも沢山のわたしがいた。部屋と部屋の間は、透明な壁で仕切られていた。遮音硝子。音を遮断するその特殊硝子は、中からの物音をすっかり吸い取ってしまっていた。

「こっちだよ」

 白衣のわたしは、わたしをカウンターのある部屋に連れて行く。扉を開けた。人の話し声が、バンドの演奏と混ざり合った。扉が閉じる。バンドの音が消えた。

 わたしが安心したのは、彼女たちが何を話しているかすぐにわからなかったことだ。小さなざわめき。それがいくら慣れた自分の声だとしても、重ねれば個々は掻き消える。少しリラックスできた。ここでは、わたしは一人の人間であるが、分裂以前と同様に、特に周囲の注目を集めることもないのだ。わたしの個性は守られている。それは、この溶けてしまいそうな群体の中にあって、良い盾となってくれそうだった。


 丸いテーブルがいくつも並ぶ中に、三人のわたしが座っている椅子があった。とはいえ、そこにはいくつも同じテーブルがあり、どれにも全く同じ人間が着いている。しかし、そのわたし達は特別だった。少し浮いている。この場の雰囲気に馴染めていないようだ。

 三人とも黙っていて、ショットグラスを両手で挟んでいた。中には透明な液体が入っている。机の上には、他に持ち主不在のグラスが二つあった。一つはまだいっぱいで、もう一方は空だった。

「やほ」と白衣のわたしは言った。

「やほ」と三人が物鬱げに答える。みんな同じ動作だった。そうして同時にやられると、まるでそういう民族なのかと勘違いしてしまう。ワタシ、ウソツカナイ。

「二人はどうしたの?」と白衣のわたしが、ショットグラスを指差して言った。

「一人はステージの方に行ったよ。トランペットやりたいんだってさ」

「なるほど」

 とわたしは呟いた。管楽器を混ぜても面白いかもしれない。それも一つの魅力的な可能性だ。

「もう一人はそこで死んでる」

 他のわたしが言って、机の下を指差した。見れば床に倒れているわたしである。わたしはぎょっとしたが、どうやら眠っているだけのようだ。腕を枕にして、寝息を立てている。穏やかな表情をしているものの、我ながら間抜けな姿だった。涙の跡がある。どんな夢を見ているのだろう? なんとなく想像はついた。親しみを感じて愛おしくすら思えた。

 わたしは空のショットグラスを見る。それはきっとお酒なのだろう。わたしは酒が弱いことを思い出した。では、彼女はこれを呷り、そして倒れたのだろう。簡単な推理だった。そしてわたしは落ち込んだ。馬鹿な人間なのだった。

「さて、きみ達に紹介したい人がいるんだ」

 白衣のわたしはそう言って一歩脇に避け、わたしをわたし達に見せる。三組の深い緑色の瞳がぼんやりとわたしに向けられた。三面鏡に向かっているみたいだ。同じ表情をしている。わたしは自分の顔に自信が持てなくなった。こんな不貞腐れたような顔をしているのか、今のわたしも?

「やほ」と言った。

「やほ」と三重の声が返ってきた。

「あの、よろしく」とわたしは言った。

「うん、こちらこそ」

 そこでわたしは気づいたのだが、そのわたし達はまだここに来て日が浅いのだ。だから、表情の合意から外れるコツを上手くつかめていないみたいだった。彼女たちは、思い思いの表情を浮かべようとしていた。それが同じ自分であるわたしにはよくわかった。ある程度気分が共有されていて、練度が同じなら、表情は一様に固定されてしまう。実に難儀だ。

 助けを求めて白衣のわたしを見た。そこに扉が開いて、陽気なわたしが飛び込んできた。彼女もまた白衣を着ている。

「ここにいたのかわたし!」

 三人のわたしとわたしの計四人は顔を見合わせた。戸惑った表情に収束する。白衣のわたしだけが自由だった。

「ここだよー」と胸の下辺りで手を振る。それもわたしのよくやる仕草だった。「どうしたのさ」

「今白衣組で一発芸をやろうとしてるんだけど、人数が少なくてさ。探してたんだよ」

 スプライトの瓶を振り回しながらその白衣のわたしは言った。まだ未開栓だったが、わたし達はひどく慌てた。あのわたしは酔っているのか? しかしそれは考えられなかった。わたしの場合、素面か寝るかなのだ。床に伏しているわたしがその一端である。

「一発芸?」

「そう、みんなで一寸ずつクレジットを出し合ってね。一等はそれを総ざらいできる。儲かるよ」

「よし乗った」白衣のわたしがこちらを見て言う。「悪いけど、わたしは行くよ。きみ達も来たらどう? ネタ、考えてさ」

「ねえ、早く行こうよ」

「行くって」わたし達に下手なウィンク。「したっけね!」

 そして白衣のわたし達は足早に部屋を出て行った。取り残されるわたし達。白衣組の会話を聞いていた他のわたし達も、興味を引かれたらしく、部屋を出て行った。あるいは逆に、部屋に入って来るわたしもいた。そういう交流を眺めながら、わたしは席に着いた。

 わたし達は自己紹介をした。当然名前は同じなので、話題に上がったのはいつ目覚めたかだった。彼女たちがこの一週間に目覚めたことは知っていた。わたしを驚かせたのは、それが同じ日だということだった。床で倒れているわたしと、バンドを見に行ったわたしは別の日らしい。

「一人が死ぬと、また新しいわたしが目覚めるんだ」

 とわたしの内の一人が言った。

「あの病院で?」

 とわたしは尋ねる。テーブルの真真ん中に並べられている瓶を取った。他のわたしが栓抜きを渡してくれるので、それを使って開ける。ペプシコーラ。

「うん、大きな病院って、あそこしかないから」

「診療所はいくつかあるんだけどね」

 お医者さん関係の仕事は、わたしの中でも人気の仕事なのだと彼女たちは言った。そう、それは確かにわたしの将来の夢でもあった。いつまでその夢を持ち続けていただろう。覚醒以前の最新の記憶を探って見ても、すぐには思い出せなかった。それこそバンドだろうか。いや、あれは高等学校に入ってすぐに諦めた。

「でも、したら三人同時に死んだってこと?」

「そうなるよね」

「何があったんだろう」

「偶然タイミングが合ったって線もあるよ。わたし達だって死ぬんだ」

「老いないくせにね」

 と三人の内の一人が乾いた笑い方をした。そう、わたし達はどうやら老いないみたいなのだ。ここに来るまでの間、そして実のところ病院内でも、見かけていた他のわたし達というのは、みんな同い年をしているようだった。時間の変化から取り残されている。この街にずっと夏が滞在しているように。

「わたし達はいつ死ぬんだろう?」

 と誰かが呟いた。それはこのわたしかも知れないし、三人の内の誰かかも知れない。

「三ヶ月って聞いたよ」

「わたしは半年って聞いた」

「個人差があるのさ。可能性で満ちてるってそういうことなんでしょ」

「二日ってこともないよね」

「自殺ならあるいは」

「飛びたい?」

「今はそうでも。でも可能性としてさ」

「無きにしも非ずだね」

 わたし達は黙った。それぞれテーブルの上の瓶に手を伸ばし、思い思いに開栓し、炭酸を飲む。ショットには手をつけない。それが危険なものであることを、わたし達はみんな知っている。

 この部屋にはジャズが流れていた。有名な曲なのだろう。タイトルは思い出せないが、それでもハミングはできる。しかし誰も口ずさまなかった。そういう気分ではなかった。あるいは、誰か一人がそういう気分でないだけでも、未熟な自我のわたし達間においては、そのムードは速やかに共有されてしまうのだ。

 陰鬱とした空気。周りの席からは、わたしの談笑する細やかな声が聞こえてきていた。この違いはなんだ、とわたしは思う。反抗心が小さく灯った。納得がいかなかった。

 周囲の、そして隣の部屋で騒いでいる自分たちが恨めしく思えた。格差。わたしの中にもそういうディファレンスが確かにあるのだ。遮音硝子の効果は凄まじい。科学は官僚的徹底さでもって、わたし達を隔離している。同じ人間なのに、とわたしは思う。何が違うんだ?

「ねえ」と一人が口を開いた。「わたし達、クローンなんだって」

「実感湧かないよね」

 一人は瓶の口に指を当て、それを軸にして、瓶をくるりと回した。テーブルの上のろうそくの火が、散けた。踊るようでもあった。

「クローンって一体なんなんだろう」

「あるいは、わたしは夢を見てるのかも知れないな」

「わたしだってそうさ」

 そこには共有された悩みがあった。誰が本物なのか。自我の所在、こうと考えるわたしはここにいる。わたしなりの考え方でもって、わたしは自分という人間を規定することができた、今までは。そして、それを信じてもきた。でも、今となっては難しい。

 これがわたしだ、と叫ぶ時、それは同時に他のわたしの叫びでもあるのだ。同じ人間であるとはそういうことだ。わたし達はバームクーヘンの一片に過ぎない。中心となるべきわたしはどこにもいない。

 複製だけが残されている。オリジナルではない、コピー=クローン。わずかな差異は生じるのだろう。可能性の論理に基づいて。しかし、それは根本的な差になり得ないのだ。同一の自身の群れの中で、上手く自分を分離することができない。

 意識せざるを得ないのだ、面と向かって語らう彼女たちが、全く同じ人間であることを。流入するムードは強い影響を持っていて、わたしの思考と気分を冒していく。このわたしは同時にあのわたしでもあり、どこか遠くのわたしでもあるのだ。

 そして、その思考を多分その場のわたし全員が共有していた。

 へら、と誰からともなく笑う。

「ね、現実は辛いと思わない? この寝てるわたしが幸せそうに見える」

 椅子を引いて、困ったような笑顔のわたしは言った。

「わたしもばいばいするよ、したっけね」

 そう言って、素早くショットを掴み、飲み干す。発火するように顔が赤くなって、白くなって、彼女は机に突っ伏した。わたしを含めて三人のわたしは驚いたが、寝息を立てはじめる自分の分身を見て、同情するような目になる。

「起きても同じ船の上なのにね」とわたしが言った。

 どういうことなのだろう、とわたしは思う。単なる比喩だろうか? ぼんやりと考えながら、

「危ないことするなぁ。自殺的」

 と言った。

 別のわたしは、少しの間、しばらく物思いに更けていたが、やがて口を開いた。残った三人のわたしは額を寄せる。打ち明け話をするように、ひっそりとした声で、そのわたしは言った。

「ね、以前のわたしがどんな人間だったのか、気にならない? 死因とかさ」

「気になる、かな……」

「事件のにおいがすると思わない?」

 わたしはその発言に驚いた。

「どういうこと?」と問う。

「今のわたし見てて閃いたんだけど、わたしって突発的な行動、する人間なんだよね、割と。そういう人間がさ、同じところにたくさんいたら、変なことも起こるんじゃないかな」

 舌を巻くわたし。その発想はなかった。

「事件って……殺人事件とか?」

「そうじゃなくても、自殺でもいいよ。わたしさ、前のわたしが何で死んだのか、どうして死んだのかって、ちょっと気になるんだよね」

 彼女の目が少し曇っていることが気にかかった。熱に浮かされたような目をしている。そのわたしがどういう気分なのか、わたしにはよくわからなかった。気分の高揚によって、わたし達は共感の拘束から逃れることができるのかもしれない。

「それは気になるね」

 ともう一人のわたしが言った。

「だよね!」と言って、そのわたしは立ち上がった。「じゃ、わたし聞いてくるよ。これだけわたしがいるんだ。ひょっとしたら、知っている人もいるかもしれない」

「でも、同じ人間だよ? どうやって、前回のわたしを特定するのさ」

 わたしは事の成り行きを見守って、歩きはじめるわたしを見た。

「わたしの誕生日がわたしの命日なんだったら、その時の話、集めたらわかるかも!」

 そうして慌ただしく部屋を出て行く。怖いものに追いかけられて、逃げるかのようでもあった。わたしはその後ろ姿を見て胸が痛んだ。そのわたしの行動も、衝動的なものなのだ。そして、その傾向はこのわたしの中にもちゃんとインプットされている。

 深呼吸をする必要があった。冷静にならなければならない。

 コーラを飲みながら、わたしはぼんやり天井を見上げていた。電気扇。多分盲腸のようなもの。あるいは尾てい骨の類。くるくると回り続けている。わたし達よりは恵まれているように思えた。電気扇は一つだ。軸がある。

「ね、わたしは行かないの?」と尋ねられた。

「どこに?」

「前の自分を知りたくないのかってこと」

「そういうわたしは?」

 とわたしは尋ねた。彼女は具合悪そうに笑う。

「行かない。だってさ、前のわたしを見つけて、それでどうするのさ。あの子のいる地球に帰れるの?」

 地球。

 わたしの頭の中で疑問符が弾けた。スタン・グレネードみたいに。

「地球……ってどういうことさ」とわたしは訊いた。

「ああ、このわたしは今日目覚めたばかりなんだ……。ここは地球じゃないんだよ。わたし達は、宇宙船の中にいるんだ」

 そのわたしはショットグラスを掴んだ。

「ここは宇宙。だから、帰ろうと思ってもそう簡単には帰れないんだってさ」

 グラスを弄ぶ手を見ている。言葉が出て来なかった。地球じゃない。宇宙船ーー宇宙。ここが宇宙? わたしは靴のつま先で床を鳴らした。確かなフローリングの音がする。この下が星空だなんて信じられなかった。

「ああ、あの子に会いたいなぁ……」

 不意にわたしが言った。その声は自分自身が言ったかように、わたしの中で再現される。そのわたしの気持ちが、このわたしには良く分かった。どうしてそんな風に言うのかも、わたしには自然と理解できた。泣きそうだ。でも我慢している。仕方のないことだから……格好をつける必要などないのだ。分かっている。しかし、どうにか抑えていなければ、際限なく喚くだろう、そういう予感があった。

「どうしてこんな記憶を持ったまま目覚めたんだろう、わたし……」

 目尻の端から涙を落として、彼女もまたショットを飲み干した。意識がふっと弱まるのを見た。テーブルがわたしの頭を受け止める、がん、という音を、わたしは聞く。

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