第1章 おはよう、わたし (3)

 白衣のわたしに連れられて、わたしは街に行くことにした。病院の前からはトラムに乗った。二連車両のそれは、全体が山吹色をしていて、まるで秋の銀杏の葉のようだとわたしは思った。

 そう言うと、わたしは少し驚いた顔をする。

「気がつかなかったな」

「わたしなのに?」

 わたしこそ驚いてしまった。

 同じ顔の人間が二人して同じような表情をしていることが、なんだか可笑しかった。存外むず痒い。わたしは別の表情を作ろうとしたが、これはまだ難しかった。共感現象は、強い引力でもってわたしの反応を拘束していた。わたしは鏡像に引きずられていた。

 その一方で、白衣のわたしは自然な様子で表情を崩した。そういうことに慣れているみたいだった。きっとコツがあるのだろう。であれば、わたしだってその内、自由に表情を作ることができるようになるはずだ。

「複数人のわたしがいるってことはさ、可能性が同時に実現可能ってことなんだ。わたし達の基礎は同じだよーーそれこそ遺伝子レベルでーーでも、多少誤差が出るね。わたしは気づかなかった。でも、他のわたしは気づくかもしれない。きみみたいに」

 嬉しそうにするわたし。同じ感情がわたしの中にも反響する。そう、わたしの中には空洞があった。それは予感的なものだったが、確かなイメージだった。皮膚を介して彼女の笑顔が染みてきて、わたしの中で増殖するのだ。

 窓の外を見て、針葉樹林を眺め、なるほどそうも見えるか、と彼女は頷く。わたしは変な感じがしてもいた。当然の閃きだと思ったのだ。

「他の人とはそういう話、しないの?」とわたしは尋ねた。

「しなかったね。わたしは病院の経営と、ちょっとした病気のことばかり考えてる。そういうのとばかり付き合うし」

 宜なるかな、とわたしは思った。わたしにはそういう傾向がある。もしわたしがお医者さんになれたならーーそれは他の専門的なことでもいいのだけどーーそれに専念してしまうだろう。興味を自ら制限して、そこに没頭してしまう。お医者さん。それも一つの可能性なのだ。

「でも、滅入らない、気」

 とわたしは言った。

「たまにはね。でも、だからわたし達はパーティーを開くんだよ。いい考えじゃない?」

「……確かに」

「それに、その気になればいつだって違う自分になれるのさ。ここは、そういう場所だよ。可能性に満ちてる。石工にだって、路傍の薬売りにだってなれる」

「屋根の苔を蹴飛ばすことだって?」

 通じ合ったわたし達は同じようににやりと笑った。そして、あの子のことを思い出し、悲しくなった。わたし達はあの子の好きな歌の話をしていたのだ。あのいつ盛り上がるのかよく分からない歌が、彼女はとても好きだった。

 トラムが森を抜けた。そして街が拓けた。

 石造りの家が並んでいた。どれも同じ高さをしていて、しかし違う造形が施されていた。天使や聖人が彫ってある。バルコニーの手すりにしたって、手が混んでいた。長い歴史があるのだとわたしは知った。時の流れが人の手を借りて、そういうふうに建物を変えるのだ。何人の人が住んでいるのだろう、とわたしは思った。あるいは、何人の人々がここに住んでいたのか。

「素晴らしい世界なんだね」とわたしは言った。

 きみがいる限り、と歌の続きが頭の中を横切った。

「概ね、そう。でも、欠けてるものも多い」白衣のわたしが淋しそうに言った。

「あの子はいないんだね」

 とわたしは言った。

「うん、あの子はいない」

 とわたしが言った。

 そんな気はしていた。ここは、そういう場所ではないのだ。欠落のオーラをわたしは観た。ここは、あの子が住むにはふさわしくない街だ。

 しかしこのアイディアは、果たしてどちらに由来するのだろう。わたしに与えられた記憶か、それとも直観か。何れにせよ、わたしはその事実を自然に受け入れることができた。いないなら仕方がない。これもまた脳の中に埋め込まれた回路のせいかもしれないな、とわたしは思った。そんなものがないにせよ。

 そもそもーーとわたしは続けて思い出したーーあの子はわたしのものではないのだ、すでに。あの人のもの。あの素敵な男の人の。

 それに、このバラけてしまったわたしが、一体どうやって、彼女を抱きしめることができるのだろう? 彼女はたった一人なのだ。今のわたしとは異なって。

 沈黙のうちに街並みは過ぎて行った。夜に差し掛かった夕暮れの中で、石造りの聖人たちが嘆くように項垂れて見えた。顔は夕闇に閉ざされている。等間隔で並ぶ街灯だけが明るい。しかし、それでも、夜は夜だった。あるいはもっと暗い。

「他にはなにがないのさ、たとえば?」

 とわたしは尋ねた。これ以上暗くなるなんて考えられなかった。

「そうだね、季節もないかな」とわたしは言った。

「秋も来ないんだね」

 なぜトラムがこんな色をしているのか、わたしはわかったような気がした。

「うん。でも慣れるよ」とわたしは言う。

「わたしがそう言うんだったら、そうなんだろうね」

 今は、同じ人間であることが、少し心強かった。彼女は未来から来たわたしのようなものなのだ。これからわたしの身に起こるだろうこと、浮かぶだろう悩みについて、ある程度経験済みなのだろう。わたしは一人ではない。いや、どうだろう……わたしは混乱しそうになったので、考えることを保留した。

「永遠の夏ってのも悪くないよ。ここは晴れが多い。一年中砂浜で遊べる。バーベキューもできる」

 そう、確かにそれは悪くないことなのだ。わたしは心の底からそう思った。わたしの一番好きな季節だって夏なのだ。あの窒息しそうなほどに青い空、重たい空気、強い日差し……生きている実感のある季節。

 でもやはり、あの子のことを想わずにはいられなかった。記憶の中で、わたし達は何度か海に出かけた。あの幸せな日々。わたしはあの時、永遠の夏を強く願った。今やそれは叶っている。とても小さく。一番大事なものだけが欠けている。

 窓に映るわたしが、一粒だけ泣いた。

 トラムが止まった。わたし達は夜の夏に放り出される。分厚い空気がわたし達を迎えた。無頓着な親しい友人のように。無下にはできない。それがわたし達の夏なのだ。

「ねぇ、そもそも何のパーティーが開かれるの?」

 トラムを下りて、二ブロックほど歩いたところで、わたしはついに尋ねた。少し頭痛がしていた。たった二ブロック。横断歩道を一度渡っただけ。しかしそれだけの間にわたしが通り過ぎた幾つもの発見は、わたしの頭を混乱させるのに十分な量だった。

「わたしの歓迎会だよ」とわたしは言った。

 具合の悪さを覚える。

「それは主催者がきみってこと? それともこのわたしのことを言ってるのかな。あるいはわたしときみ、一緒くたにして言ってる?」

 わたしは本当に混乱していたのだ。

 白衣のわたしが笑う。

「そうだよね、正確に言うよ。新しく復活したきみ達を迎えるための、だよ。週末だしね、この一週間に加わった新しいわたし達を祝うのさ」

 ああ、とわたしは頭を抱える。この短い距離の間に見てきたことは、もう否定できなくなっていた。

「わたし以外にも、新しいわたしがいるんだね、それも複数」

「いかにも」とわたしは言った。

 ここに至るまで、わたし達は何人もの人とすれ違った。みんな服装は異なっていたが、それはどう見てもわたしだったのだ。歩き方は判を押したように一緒だったし、すれ違い際の挨拶もわたしのよくする通りだった。

 わたしは一人ではないーーその言葉が、今や違った響きでもって鳴りはじめていた。わたしは沢山いるのだ。胸焼けがしていた。ちらりと覗いたパン屋の店主も、喫茶店で新聞を広げている客も、全員がそうだった。

「ひょっとしてさ、この街にはわたし以外の人っていないの?」

 わたしは胸元を抑えながら尋ねた。

「うん」

「わあ」

 わたしは間抜けな声を出した。お手上げだった。

「さっき言ったじゃん。ここは”わたし達の街だ”ってさ」

「でもまさか、構成員の十割がわたしだって思わないでしょ……」

 騙された気分のわたしは、周りを見回してみた。全員がこれから行われるパーティーに行くというわけではないのだ。可能性の問題。そういう気分のわたしもいれば、そうでないわたしもいる。

「あっあー、それは違うよ」とわたしは言った。「ここの構成員全体で見れば、わたし以外のもちゃんといる」

「誰?」

「ロボット」

 白衣の私はそう言って、公園を指差した。中央に池があり、そこにドラム缶が立っていた。それは池の淵をゆっくり移動している。

「何してるの?」

「今は池の掃除。水路の掃除もやってくれるよ。この街に住んでる人間はわたし達クローンだけだけどさ、維持は大体ロボットがやってくれる。ーーねぇ、わたしはどぶさらいやりたい?」

「正直言って、あまり」

「だよね。わたし達は感謝しなきゃ。生活の基礎はロボットに頼ってるんだ。食料の生産もそう。街の西側、山の向こうではさ、ロボットが農業してくれてるし、工業してくれてる」

 わたしは広い農場を動き回る数台のドラム缶を想像してみた。何も言わず、多分壊れるまで歩き続けるのだ。わたし達の生活を回すために。わたしはあちらに日の沈むのを見た。今頃その鈍色の身体は赤く燃えているのだろうか。錆と区別のつかないその色。わたし達は同輩の疲労を死ぬまで知らない。

 そう考えると、少し切ない気分になった。

「さてまぁ、その恩恵もあって、わたし達は好きなものを大体食べることができる。ただ、魚はダメだね」

 海は確かにあるはずだった。今でも大きく息を吸えば、仄かに潮の匂いがする。周囲の街並みに潮風は染み込んでいるのだ。それだけに、訊かずにはいられなかった。

「どうして?」

「あそこは戦場だから」白衣のわたしは言う。

 信号が赤だったのでわたし達は止まっていた。車の往来はなかったが、わたし達は概ねルールを重んじるのだ。わたし達の頬を赤い光が照らしていた。それは不吉な徴のようにわたしには思われた。

「戦場」とわたしは呟く。現実味に乏しい言葉だった。

「うん。海は荒れてるんだ。魚は穫れないよ」

「ロボットじゃどうにかできないの?」

「難しいね。海って広いし、深いし、それにわたし達の海を大変なことにしてるのはわたし達自身なんだ。ロボットに任せるのは、ちょっと気が引けるよね」

 わたしは同意したが、彼女が突然正論めいたことを言い出したのに拍子抜けした。ロボットに水路を掃除させたり、食物を作らせることは良いのだろうか? この時のわたしは矛盾を感じていた。

 信号が青になった。わたし達は歩き始め、わたしは刺身について考えることを忘れた。

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