第1章 おはよう、わたし (2)
ベッドの上には即席の机が置かれ、そこにはトランプが並べられてある。
神経衰弱。
簡単なテストだよ、と白衣のわたしは言った。
「とはいえ、粗方はきみが寝ている間に終わってるけどね。そうじゃなかったら、きみはこの病室に来ることもできない。これは勘を取り戻す試験だよ。自分の身体の。脳と手の」
トランプを捲るのはこのわたしであり、白衣のわたしはそれを観察しているだけだった。わたしがズルをしないように見張っている。とはいえ、それはほとんど選択肢になかったことだった。わたしはこんなことでズルをしない。そして、もう一人のわたしもそのことはわかっている。
だから、彼女は少し退屈そうにしていた。
退屈しているわたし。
その表情をこうして外から見たのは、考えてみれば初めてのことだったが、その気持ちは細かなところまで瞬時に分かった。
彼女の些細な変化も、わたしに響くのだ。
わたしの身体は、彼女の仕草をなぞろうとする。それは初めて鏡を見た幼児に似ているかもしれない。
「ねぇ、きみはわたしなんだよね」とわたしは尋ねてみた。
「他の誰に見えるのさ」彼女は欠伸をした。つられてわたしも大きな口を開ける。
カードに手を伸ばした。
「だから困ってる。わたし達のどちらかがクローンなのかな」
開けたカードはスペードの八だった。八ならさっきもめくったはずだ。しかしどこだったろう。候補は幾つかある。
「きみは自分が救世主だって自覚ある?」
と唐突に尋ねて、彼女は眠たげに笑った。わたしにはなんの話か全くわからなかった。否定する代わりに、わたしは別のカードに手を伸ばした。質問もしなかった。聞こえない振りをすることに決めたのだ。
「あるいは、きみはわたしの幻覚か」
「FBIに気をつけろ。……CIAだったっけ」
それで、わたしには彼女が映画の話をしているのだと分かった。わたしは映画が好きだった。あの子の影響だ。ハイスクールの時に出会った彼女と話を合わせるために、わたしは沢山の映画を観てきた。
あの子はどこにいるんだろう、とわたしは思った。お見舞いには来てくれただろうか。わたしは病室を見回してみたが、あの子の痕跡はどこにもなかった。
どうしてあの子は来なかったんだろう、とわたしは思った。それほどまずい別れ方をしたんだっけ。わたしは、あの子の姿を思い浮かべてみた。病室の端に置いてあるソファに座って、彼女が小説を読んでいるところを。
この試みは上手くいった。わたしはまだ混乱しているのだ。イメージと現実が重なり合っていた。彼女が読んでいる本のタイトルまで見えた。彼女が特に気に入っていたサイエンス・フィクション。幻はわたしを見て、微笑みながら頷いた。
勇気づけられた気持ちで、わたしは別のカードに指を運んだ。
「ピルクス七回目の旅」
とわたしは言った。
「面白かったね」
白衣のわたしはにやりと笑った。しかしそこには言葉以上の意味はないみたいだった。彼女が早くこの試験を終わらせたがっていることはわかっていた。わたしだって、こんな単調作業は退屈だと思っている。
「でも、残念ながら、最初のが正解」
わたしは初めの選択肢を表にした。ダイヤの八。テストは終わった。あの子の幻は消えていた。
「答え、言っちゃって良かったの」とわたしは尋ねる。
「良いんだよ。手続きとしてあるだけで、あまり重要ってわけじゃないんだ」
白衣のわたしはディーラーみたいな手慣れた動作でトランプをまとめた。とんとんと、トランプを整えながら、彼女は続けた。
「わたし達はクローンなんだよ、お互いに」
意外なことに、この事実に対してわたしは驚かなかった。理解はごく当然のものとして行われた。まるでわたしは昔からその事実を知っていたみたいだった。あるいは単純に、忘れていたことを思い出したかのようだった。”ほら、去年の夏はとても暑かったじゃない?”。
わたしは気持ち悪くなった。不安になった。これは驚くべき場面なのだ。
「それで良いんだよ」と彼女は言った。わたしのその表情を見慣れているみたいだった。「よくあることさ。わたし達の頭の中には、振れ幅の大きい感情を抑制する装置が仕込んである」
そして、彼女は側頭部をノックした。そこが感情を制御するのに正しい場所なのか、わたしにはわからない。
「嘘でしょ」と辛うじて言う。
「はっはっは」
「ねぇ、ちょっと……」
「ロボトミーだって、可能性としてなくはないでしょ」と彼女は一見真顔で言った。「きみはずっと眠ってた。社会を正しく回すためには、ある程度の処置が必要なこともあるよね?」
わたしは多分、怯えていたと思う。自分の知らない内に、わけのわからない装置が組み込まれているーーディスカバリー号ならなんと言うだろう。それとも、わたしはそんな罪を犯したのか? 記憶は何も答えてくれなかった。
「まあでも」
ふ、と彼女はテンションを緩めてまた微笑んだ。わたしを安心させるような笑みで、わたしはその意図に容易く共鳴した。わたしはまだ生まれ立てであり、彼女の及ぼす変化に抵抗しがたいみたいだ。
「そういう処置がなされていない可能性も勿論ある」
「どっちが優勢なの?」
「さあね」
「ねぇ」
「わかったよ。ただの”ものの喩え”って奴さ。わたし達の頭の中には何もないよ、宣誓する」
彼女は胸に手を置いてそう言った。それでわたしは溜飲を下げることにしたが、彼女がどうしてそんな回りくどいことをしでかしたのか納得できなかった。そして、この気持ちも彼女には分かっていたのだ。
「わたしが言いたかったのは、ここではあらゆる可能性が力を持つってことなんだよ」
「可能性」
「そ。まあ後々わかると思うな、遅かれ早かれ」
彼女はトランプを白衣のポケットにしまった。カードがその小さな空間で散ける音をわたしは聞いた。それで、わたしは、自分が無駄の多い人間だということを思い出した。
全ての行動に強い意味があるわけではないのだ。あるいはすでに忘れてしまった。かつてはあったはずだけど、今では儀式はただの手続きに変わって、ただ無ければ納まりの悪いジンクスとして機能している。トランプはその象徴だった。
であれば、わたしの覚醒も同じなんじゃないか、とわたしはぼんやり思いついた。でもこれについては尋ねたくなかった。危険な問いに思えたからだ。
だから、代わりに、答えの分かりそうな質問を選んだ。これは”テスト”なのだ。
「オリジナルのわたしは」ーーこういう表現は正しいのかなーー「どうしたんだろう」
「いたんだろうけど」
「今はいないんだね」とわたしは尋ねた。
「As you know」とわたしが答える。
その他にもちょっとしたテストがあった。体力的なものと、細々とした健康診断。その間ずっと白衣のわたしは退屈そうだった。それとも本当に眠いだけかも知れない。
それら全てをこなした時にはすでに、日はとっぷり暮れていた。開放感に喜んでいたのは、わたしよりも彼女だったかもしれない。
白衣のわたしは、わたしに服を一式渡してくれた。サイズは完璧だったし、配色もわたし好みだった。ジーンズに白いワイシャツに、ギリシャ風のサンダル。
白衣のわたしは、今日の診察を頑張ったご褒美と題して、紙パックのヨーグルトを買ってくれる。二十三歳はそんな歳じゃないのだ、とわたしは反抗してみたが、誰も見てないよというわたしの声には従った。わたしは紙パックのヨーグルトが好きなのだ。
待合室の一面はガラス張りで、わたしは自分のいる世界を見渡すことができた。やはりわたし達は山の上にいて、それは海に面していた。今、日は山の反対側に沈みかけており、空の頂きに僅かの影が見えているだけである。山を真っ直ぐに下りる道は、そのまま街を二分して、海へと続いていた。夜の海。街の上空には幾つかの星が霞んでいる。
「わたし達の街だ」と白衣のわたしが言った。
人がたくさん住んでいるのだ、とわたしは思った。
そういう風景を眺めながら、わたしは二人でヨーグルトを飲んでいる。
「わたしがクローンなのはいいけどさ」
「いいの?」
「とりあえずは、保留」
「そう。で?」
「わたしは何をすればいいのかな。何のためにわたしは作られたんだろう?」
白衣のわたしは最後の少しを啜って、紙パックを開き始める。そうして平らにしてから捨てるのがわたしという人間だった。
「それは自分で探すべきことじゃないかな」とわたしは言った。不思議なことに、自分と同じ声で言われると、それは当然であるかのように響くのだった。外から声は聞こえる。しかし同時に、自分の中からも言葉は湧いてくる。わたしは運命的なまでの、そして理想的な合意に至った。
「そうだよね」
そうなのだ、とわたしは本当に思った。
「あ、でも」
と白衣のわたしが言いながら立ち上がる。
「パーティーはしなきゃね」
そして微笑んだ。
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