第1章 おはよう、わたし (1)

 数羽の海鳥が風に押し上げられて高度を上げる。猫のような鳴き声が聞こえ、それがウミネコなのだとわたしは知る。一度目の鳴き声に応えるように、鳥たちを乗せた透明な横隔膜が、もう一度大きく膨らむ。そういう機械仕掛けに吊り上げられるようにして、わたしは眠りの海から浮上した。

 夏の濃い空気がわたしを待っていた。

 は、と呼吸を開く。

 空気が随分久しぶりに感じられた。ここはもはや水中ではない、そう言い聞かせて、わたしは右腕を持ち上げようとする。ぴん、と張る。見れば、管が生えている。一本や二本ではない。全身から透明な管が、ごく自然な様子で伸びていた。

 一滴、また一滴と雫の落ちる音がした。雨のようだ、とわたしは思った。あるいは涙のよう。そんなものがわたしの身体を流れているーーそう考えると、寂しさがじわりと広がった。

 頭の上では心電図が鳴っている。

 わたしは生きていた。

 涙が湧いた。それは目尻から零れて枕に染み込んだ。再び水中に沈むような気がして、わたしは怯えた。夢はまだ過剰な潤いを湛えたまま、シーツのすぐ下に待ち構えていた。心電図の波よりずっと緩やかなテンポで、その安定の中に、わたしを誘っていた。

 夢。それはどんな夢だったろう。記憶と現実の境界域に揺蕩たゆたっている。覚えていなかった。ただ、窒息の中にあったことが、漠然と残っている。

 動くことはできなかった。わたしはこのベッドに縫いつけられているのだ。

 わたしは現実感を求めて、耳を澄ませた。波の音以外が聞きたかった。木々がざわめいていた。わたしは山の中にいるようだ。随分高い場所。窓の外には青い空だけで、木々の寝癖もここからでは見えなかった。

 天井には漆喰が塗りたくられていた。天井はリアルだった。というか、わたしはそう信じたかったし、信じてみることにした。じっと見つめて、その白色が滴り落ち、シーツに染み込むのを想像してみた。

 わたしはまだイメージの世界にいる。わたしは混乱しているみたいだった。

 海の匂いは次第に薄れていった。わたしはベッドごと宙に浮いた気分で、記憶が蘇って来るのを待っていた。

 あの子のこと以外の新しいことは、それ以上浮かんできそうになかった。すでにわたしはその圏内を越えて浮遊しているのだ。

 大きく息を吸ってみた。消毒液に混じって、杉の匂いがした。そして松やにの。固く、閉じこもるような匂い。それがわたしの胸を塞ぐ。

 室内に空白ができた。その間を埋めるようにして、不意に風が入り込んで来る、窓から、濃厚な夏の空気が流れ込んでくる。

 それはわたしの上で少し立ち止まった。見下ろすようにして、しばらく、そのまま。わたしはわけもなく緊張する。息を止めた。首を締められたような気分になる。生きている、と夏が言った。咎めるような口調で。

 溜め息を吐くような音がして、そいつは消えた。夢のようにふわりと拡散して、そのまま走り去る。部屋の扉が開いていて、廊下との境界線上に誰かが立っていた。

 わたしは驚いた。黒髪、緑色の瞳、薄い唇。そういった要素に見覚えがあった。

 彼女の歩いてくる仕草は、わたしの動悸を早くさせた。頭の上の心電図が、彼女の歩調を追い越した。わたしは犯罪の証拠を見せつけられている気分になる。それはわたしの全く知らないところで起こったにも関わらず、わたしは容疑者の一人として数えられているのだ。彼女のスリッパは、そのひたひたという音は、わたしを糾弾しているように聞こえた。

「やほ」と彼女は手を挙げる。ああ、その声にしたって、わたしには聞き覚えがあった。否定なんてできない。

 わたしは恐る恐る口を開いた。わずかな希望を抱きながら。少なくともその糸口を望みながら。しかし、わたしの声帯は、彼女と全く同じ声を鳴らした。

「……やほ」

 小さな弱い声。でもそれはわたしを充分絶望させたし、それ以上に狼狽させた。

 白衣の彼女はにやりと笑う。

「誰、きみ」とわたしは尋ねた。

 ベッドの端に腰を下ろしながら、彼女は言った。

「わかってるくせに」

 そしてウィンクをする。とても下手くそだった。わたしは、何度練習しても全然上達しなかったことを思い出す。どうしても、片目だけを瞑るということができなかったのだ。鏡に向かって訓練を積んだ日々。その風景が、今わたしの目の前にあった。ちゃんとした実像として。

 白衣の彼女は口を開く。

「まあ、ともかく、おはよう、わたし」

 やはりわたしの声で彼女はそう言った。もういいだろう、その子はわたしだった。わたしがわたしであるくらい確実に。


・・・♪・・・

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