ちへいせん

ゆきさめ

ちへいせん

 へきらくは悠悠たる袖を広げ、涼しい顔をしてこの濁世の全てを包んでいる。美しく覆い包んでいる。その召し物といったらこの上ない最上のもので、一日の間に何度も色を変え、あるいは美しい煌きさえも散らすのであった。

 一方、わたつみは渺渺たる袖を広げ、あたかも振袖の少女と見紛うしおらしさを見せている。その召し物は深い深い紺碧、複雑な色味であるが、へきらくを追うかのように何度も着替え、あるいは明かりを灯すのであった。


 おまえたちは常に向かい合い、追いかけあっているだろう。

 わたしは知っている、お互いがお互いと手を伸ばさない代わりにと想いのやり取りをしているのを知っているのだ。わたし一人であろうとも、おまえたちの途切れぬ想いを知っている者はいる。


 へきらくは時折、涙とも取れる便りをわたつみへ寄越すだろう。それに対してわたつみは、ほぼ常にと言っても過言ではないほどに揺らめくその想いを昇らせている。そうやって、おまえたちは気の遠くなるほどの世を過ごしているのだろう。決して手を伸ばす様をわたしたちに見せることもなく、静静とただただ存在し続け、お互い見つめあい続けているのだろう。

 さて、わたしの眺める先、そこに広がるのは一筋の境である。地の果てである。

 わたしは頼りない笠を上げる。

 今日もまた、へきらくが堪らないとばかりにわたつみへの長い長い便りを出しているのだ。わたしはそれを眺めている。


 上から、下。

 へきらくより、わたつみへと。


 わたつみはへきらくの想いに全身を震わせるようにして喜んでいるように思える。わたしには何一つとして分からないが、この小さな粒にはいったいどのような言葉が託されているのであろうか。知ることはしかし、へきらくとわたつみへの冒涜ともいえよう。

 だからわたしは眺め続けるのである。

 この頼りない小さな粒は、いつか細くも長い糸となって二つを繋ぐのではないか、と。その瞬間を今か今かと待ち続けているのである。待ち続けている歳月は、幾星霜を越える想いには遥か及ぶまい。

 手を伸ばせば、わたしの手のひらにもへきらくの便りは降りてくる。また、わたしの傍にある木々や花々も、へきらくの便りを受ける。そしてへきらくがどれほどわたつみを想っているかを窺い知るのであろう。木、花、生きるもの全て、この穢れた世に存在する全てのものに、へきらくの純粋で穢れなき想いは等しく降り注ぐ。

 ああ。まるで浄化されるようである。

 わたしは笠を外す。濡れ、頬へと張り付く髪の毛先など構わなかった。それよりもこの一辺の黒も存在しないだろう純白のへきらくの便りでもって、この濁世が洗い流れないだろうかとさえ思っていた。

 そのまま、笠を胸に当て、瞑目。


 その数日後である。

 わたしはやはり地の果てに目をやるのであった。もはやそれが日々の生きる意味であり、同時に価値にさえなっていた。

 おまえたちはその遥か彼方で、わたしたちに見えないように悟られないように、触れ合うことは叶っているのか。その地の一筋に、邪魔されてはいないか。

 明々と輝く衣を纏うへきらくに、わたつみもまた衣の裾か袖かに明るい色を一点落としていた。まるで紋か何かであった。

 そして、わたつみはこの明るい日、己の思いを静静と立ち上げる。遠く、遥か遠くで両の腕を広げるへきらくへと想いを伝えるべく、ゆらりゆらりと半不可視のそれを立ち上げる。

 思うに、恐らくは、わたつみはやはり恥らう少女なのかもしれない。こめられた想いを包み隠し、しかし隠し切れないところを見るとずいぶんと大きな想いらしい。なんにしても隠し切れないその巨大な音にならない言葉を、わたつみはまっすぐにへきらくへと伝えているのだ。

 揺らめくそれを、わたしはただ眺める。

 そっと手を伸ばしてみるも、それは遠い。

 無粋なことをした。わたしは頭を下げておいた。無礼を詫びねばなるまい。

 高高と構えるへきらくへ、わたつみの想いは届くのであろう。そしてまたしばらくすると、へきらくからの返事が返るのか。

 堪えきれなくなったへきらくが、泣き出すかのように返事を出すのか。

 次にそれがなされるのはいつであろうか。

 そして粒が糸となって二つを繋ぐのは、いつであろうか……。


 わたしは今日も明日も、その翌日も、この命が枯れ潰えるまでずっとここでこうしているのであろう。

 そして今日もまた、へきらくの天色の裾と、わたつみの紺青の袖とが交わるか交わらないか、そこに引かれた地の一筋を見つめている。その一筋、そのたった一筋がおまえたちの指先を邪魔するのか。頼りなさげともいえる細い一筋が、とこしえを紡いでいるのかと思うと眩暈さえした。

 こんなにも見つめ合っているのに!


 へきらくよ、もっと手を伸ばすのだ。

 泣き腫らしてもなお泣くがいい、天泣としてさめざめと泣くがいい。霹靂としておいおいと泣くがいい。そしてその粒を寄り合わせて一本の糸として、垂らすのだ。


 わたつみよ、もっと手を伸ばすのだ。

 恥らおうともその想いは溢れているのだ。わたしには分かるのだ。見えているのだ。その想いのように手を伸ばすがいい、恥らう少女の時代は続きやしないのだから。


 おまえたちは気の遠くなるような長い時をお互いに過ごしてきたのだろう。もう許されても良いのではないか。その端、そのたった一筋だ、それを越えたところで誰も咎めないのではないか。

 しかしそれでもおまえたちは、ああ、今日も静静とただ見つめあうのか……。

 なんと……、報われない。

 わたしは地の果てを見据える。


「おまえたちは、遥かとこしえより続く愛を、一体いつまで紡ぎ続けるのか」


 問いかけは一筋に消える。

 ああ。願わくば、見えやしない袖に隠された両者の指先の絡むことが、叶うように。


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