第3話

「で、そのかなり痛い感じの匂いがする池辺先輩と付き合うことになったというわけか」

 先輩から衝撃の告白を受けた次の日の放課後。私は、友人の眞子に昨日の出来事を話した。所詮、眞子に話したところで、何がどう解決するとも思わなかったが、とにかく自分の心の内だけに留めておくに、アレはかなりのインパクトだったのだ。ただ、とりあえず先輩の名誉のため、一応の弁明はしておこう。

「確かに池辺先輩は、ちょっと変わってるけど、それほど痛い人じゃないし。付き合うといっても、一緒に帰ったりするだけだよ」

「君々、それを世間の人々は付き合っているというのだよ」

 私の鼻先で人差し指を左右に振りながら、眞子は言った。

「それにしても先輩は本当に河童なのかね」

 腕を組み、眞子は探偵さながら首を傾げた。

「河童なんているわけないよ」

「でも、先輩はそんな冗談を言うようなタイプではない」

「まあ、そうだけど」

「で、証拠は見せてもらったの?先輩が河童だっていう、しょ・う・こ」

 いちいち言葉を区切りながら迫ってくるのが甚だ鬱陶しい。私は眉根に皺を寄せながら、

「まさか」

と、呟いた。

 途端、眞子の大ブーイング。クラスメイトの視線が私たちに突き刺さる。私にしてみれば、先輩よりも眞子の方がよっぽど痛々しい。

「だって、何を聞けばいいの」

「例えば、頭の皿を見せろとか、背中の甲羅を見せろとか」

「そんなもんあるわけないでしょ」

「それもそうか。もしあったら、池辺先輩、人気者だよねぇ」

 ふむふむ、とひとりで勝手に納得している眞子を横目に、私は内心ドキドキしていた。実は、先輩が河童であるかもしれない証拠を、私は見てしまったのだ。

 衝撃の告白の後、差し出された先輩の右手に、その証拠はあった。

 指と指の間に薄い半透明の水かき。それは、そこにあって当然と言わんばかりに、堂々と鎮座していた。たぶん蛙ほどに立派ではないけれど、これがあるから河童なんだと主張されれば、「はい、そうですか」と納得出来得るほどには立派に見えた。そして、それは何よりも先輩の細く長い指に、よく似合っている。私は、そのあまりの美しさに、穴があくほど先輩の手を凝視した。自分でも、こんなに手フェチだったのかと驚いたほどだ。それほどまでに、先輩の水かきは美しかった。

 そんな私の視線に気づいたのか、先輩は怪訝な顔をしながら、

「天華くん?」

と、私の顔を覗き込む。私は動揺を隠しつつ、慌てて視線を逸らした。

 それから、再び、先輩は、

「よろしく」

と、言った。そして、私は、吸い込まれるかのように、その先輩の美しい手を柔らかく握り返してしまったのである。それは、先輩の告白への肯定の意を表していた。

 先輩の正体を、ああでもない、こうでもない、と私の横で右往左往しながら思案している眞子を尻目に、私は深い溜息をついた。

 どうして、あの時、先輩の手を握り返してしまったのか。自分でも、何を今さら、とは思うが、いくら先輩の手の美しさに惑わされたとはいえ、あまりにも軽率ではなかったか。やはり、魔に魅入られたとしか思えない。

「本当に?いいんですか?」

 自分で強引に持ち込んだシチュエーションなのに、喜びで大きく見開かれた先輩の瞳。若干上がった口角。微妙なガッツポーズ。

 あの後の先輩の微妙なテンションの上がり方を思うと、どうにも早まったような気がしてならなかった。

 今日は部活が終わった後、図書館で業務をこなしている先輩を迎えに行って、一緒に帰る予定だ。付き合ってみよう、ということにはなったが、一体何をどうすればいいというのだろう。哀しいかな、お互いそういった経験が少ないので、いまいちよく分からない。

 ただ、「うちに遊びにでも来ますか?」と言われたのは、流石に丁重にお断りをした。何だかこのままだと、家に遊びに行ったが最後、気がついたら婚約とか結婚とかいう話になってしまいそうだったからだ。池辺先輩相手だと、冗談でなくそうなるような気がする。

 とりあえず、いったん考えるのはやめよう。私は、そそくさと机の上、中の荷物をまとめた。部活で汗を流せば、このもやもやした気持ちも少しは落ち着くかもしれない。

「どこ行くの?問題は解決してないよ」

「プール。これでも水泳部のホープです」

 私がそう言うと、眞子は目を見開いた。

「先輩の正体も分かってないのに、部活に行ってる場合?天華、先輩と部活、どっちが大事なの?」

 呆れて言葉も出ない。どっちが大事かって、まず基準としていろいろ間違っている。そんなこと、比べられるものではないし、そもそも比べるものでもない。

 さっき以上に大ブーイングで抗議し始めた眞子に頭の上でひらひらと手を振ると、私はさっさと教室を後にした。

 いや、しようとした。瞬間、視界が揺らぐ。床がワックスで滑りやすくなっていた。ええい、本日の掃除当番、きちんと後始末しておくように、と思ったけれど、時既に遅し。身体がぐらりと傾いで、左肩に掛けていたカバンを下にし、床に身体が落ちようとする。

 ヤバイ。カバンの中には、家庭科実習で作ったケーキが入っている。大したものではないけれど、先輩にあげようと思ってとっておいたものだ。そんなことを瞬時に思い巡らし、やめとけばいいのに、思わずカバンを庇ってしまった。結果、つまり、私の身体は自然と不自然な方向に曲り、そのまま床に崩れ落ちる。ケーキは守られた。でも、それと引き換えに、ぞくり、凄まじい寒気が背筋に流れる。

 周りで皆が騒いでいた。恥ずかしさも手伝って、慌てて立とうとする。が、立てない。痛い。かなり、痛い。というか、麻痺していて痛いのかどうかも定かではなかった。それでも右足を踏ん張り、何とか立ち上がり、左足を踏み出した瞬間、左足首に強烈な激痛。そして、そのまま、その痛みで私は失神した。

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