第36話 夭逝の天才
三国志の夭逝した天才と言えば、曹操に仕えた郭嘉だろう。赤壁で大敗した時、曹操も「奉孝が生きていれば、計略にかからなかったものを」と嘆いている。
郭嘉の生まれは潁川郡で荀彧と同郷の出である。
若い頃から才覚を持っていたので始め、彼は袁紹の元を訪れた。『三国志演義』では優柔不断で曹操に敗れる袁紹だが、四世三公の出である事が当時は高く評価されており、腹違いの兄、袁術と共に董卓が「二袁」と呼び恐れていた。
が、才覚のある郭嘉は袁紹を一目見ただけでその欠点に失望した。
(この男の元には仕えられないな)
同郷の出であった辛評、郭図に欠点を言い残して袁紹の元を去った。
その頃、曹操は荀彧に「お主の同郷に才覚のある者をわしに推挙してほしい」と頼んでいた。
先ごろ、曹操の元で軍略の相談役となっていた戯志才が病で亡くなった事を受け、同郷の荀彧を通して新たな相談相手を探していた。
適任とした彼は郭嘉を推挙した。
ちなみに荀彧は、潁川の知識人達のリーダー的存在であったので郭嘉の他にも甥の荀攸、「九品中正制度」を作った陳羣、鍾会の父である、鍾繇等を推挙し、同郷ではないが、司馬懿や王朗を推挙したのも彼である。
召し出された郭嘉は曹操と天下についてあれこれと語り合った。
「我が大業を成就させるのはこの男だ!」と曹操は大喜び。郭嘉も「私が真の主」と喜んだ。以降、郭嘉は曹操公認の軍師としてその覇道成就の為に全力を尽くす事になる。
ある時、河北一体を手中に収め一大勢力を築いていた袁紹に対する対策を相談された。曹操の領地は少なく、劉備、呂布と共に徐州を争っていた。背後から狙われる可能性を曹操は恐れていたのである。
郭嘉は答えた。
「殿に十の勝因、袁公に十の敗因がございます。袁公は体裁にこだわりますが、殿は自然体を好みます、これは道の勝利です。袁公は逆賊、殿は奉戴を望んでおられる、これは義の勝利。袁公には縛りがなく甘いですが、殿は常に目を隅々まで行きとどかしています、これは治の勝利。袁公は猜疑心が強く、肉親を重用、殿は才能を重視して重んじます、これは度の勝利。袁公は策を練るばかりで実行に移しませんが、殿は即断実行、これは謀の勝利。袁公には上辺だけで飾る者ばかり集まりますが、殿には頴達と大義を掲げる者が集います、これは徳の勝利。袁公は目に触れぬ惨劇を対処しきれませんが、殿は隅々まで目を光らせています。これは人の勝利。袁公は讒言に惑わされますが、殿は讒言に惑わされず、我が道を貫いております。これは明の勝利。袁公は恩賞必罰に甘いですが、殿はしっかりと行います。これは文の勝利。袁公は虚勢と数を頼みとしますが、殿は要点と兵法を頼みとしています。これが武の勝利です。これで、袁公が10敗、殿の10勝となるわけであります」
郭嘉の話で後顧の憂いがなくなった曹操は布や劉備に安心して対策が立てられたのである。また、袁紹が後継者争いで瓦解することを事前に読み、袁煕と袁譚の仲を裂き、自滅の道を進ませるなど常に曹操に献策をして支え続けた。
が、天にすぎたる者は短命なのが世の常なのだろうか。北方からの帰路、流行り病にかかってあっけなく病死してしまった。享年三十七歳。
当時、曹操軍のブレーンを勤めていた人物の多くは四、五十代が主だった。
郭嘉を推挙した荀彧は四十五歳、賈詡は五十九歳、程昱はなんと六十五歳。因みに曹操は五十二歳である。
その為、曹操はブレーンでもとびきり若い郭嘉に後事を託そうとし、その早すぎる死を嘆いたという。
歴史にもしも、は禁句であるが、郭嘉が生きていれば赤壁の敗戦を避けられた可能性は大いにあり、その後の中国史は大いに変わったかもしれない。
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