第31話 王よ、どうして聞き入れてくださらぬか

前回、張儀が楚王をペテンにかけたという話をした。実はこの時、張儀の策を見抜き、楚王に対して反対した人物がいる。

一人は秦から亡命した陳軫という遊説家で張儀の政敵であった。

もう一人は屈原という男である。

屈原と言えば『楚辞』と呼ばれる詩の作者として知られているが、実は政治家でもあるのだ。

元々屈原の家というのは楚の公族の出である。裕福な家庭に生まれただけでなく、屈原自身も詩才だけでなく政治能力が高かった。

その為、楚の懐王が最も信頼を置く政治家であった。そんな屈原の悲劇が始まるのは張儀が持ちかけてきた六百里四方の土地割譲の話である。

楚は大国なのだが、当時力を持ち始めた秦に対して和睦する道かそれとも斉と手を結び対抗する道かで大きく揺れていた。

屈原は斉と手を結ぶ路線の急先鋒に立っていた為、秦を信用出来ない、張儀の願いなど払い下げという立場だったが、真面目で剛直な性格が災いして讒言を受け王から遠ざけられていた。

その為、世論は秦に対して和睦する道に進んだのだが、結果は前回の通りである。この結果、ますます屈原は疎んじられる羽目になる。さらにその後、秦は王に対して婚姻を持ちかけ秦に来るよう懐王に言った。

「昨年の話をお忘れか」と屈原は訴えたが、聞き入れられず、懐王は結婚を了承し、秦へと旅立った。が、道中で捕らえられてしまった。王が捕らわれたので楚は次の王を立てたのだが、彼が用いた宰相が屈原を疎んじていたので彼は中央政権から遠ざけられてしまった。そして、楚の首都が秦により陥落した知らせを聞くと屈原は石を抱いて入水自殺を図った。この自殺をした日に中国では、彼の死を悼み骨が魚に食べられないように笹の葉に米を包んで川に流す習慣が生まれた。この時に端午の節句が生まれ、その後、ちまきが生まれたと言われている。日本ではこどもの日とされているが、本来は屈原を悼む端午の節句である事も知っていたら面白いかもしれない。

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