最終回 幸せ
ザクセンスから日本に戻るたびに、公太はいつかはこんなこともあるかもしれないと考えていたが、実際に二人が対面するのは十五年ぶりのことだった。
予想していた通り感情の乱れを公太はほとんど感じてなく、内心で安堵していた。
「久しぶり。仕事中?」
目の前の新府絵美は会社員らしい恰好をしていた。
「今日は定時で退社なの……」
二人が離婚する頃は、絵美の帰宅は毎日22時に及んでいたはずだ。
そのことに思い至ったのかもしれない、気まずそうに絵美は眼を伏せた。
苦悩した日々の記憶が公太の脳裏にもよみがえったが、それも長続きするものではなかった。
「同じ会社にいるんだね」
社員バッジを見て、公太はそう判断した。
「うん。ずっとね……。今日は一人なの?」
「いや、妻を待っているんだ」
公太はトイレの方へ視線をやった。
どうやら混雑しているらしく長い行列ができている。
クララの姿は見えなかったが、まだ帰ってきそうにはなかった。
「そうなんだ……」
「新府さんも再婚したの?」
公太の問いに絵美は微笑みながら首を横に振った。
「ダメだったわ。なんとなくね……」
「そうだったんだ」
それ以外の感想を述べることが公太にはできなかった。
すでに詳しい事情を聞くような間柄ではない。
「その代わり出世はしたわよ。今では部長職」
絵美も再婚の話は打ち切るように話題を変えた。
「それはすごい」
だけど、絵美はやっぱり苦笑して首を横に振った。
「すごいのは日野春さんと吉岡君でしょう。投資家として大成功したと聞いているわ」
今度は公太が苦笑する番だった。
「あれはほとんど吉岡のおかげだよ。それに俺は数年前から事業を縮小したり、畳んでしまったりしているんだ。もう、いろんなことから手を引くつもりさ」
「あら、その若さで引退? もったいないわね」
「俺にとっては商売や投資に時間を使う方がもったいなく感じるからね。必要以上に儲けてしまったから、これからは駄菓子屋を開いてのんびりしようと思っているんだ」
「駄菓子屋……」
自分の計画を話す公太は嬉しそうだった。
「いま俺が住んでいるのは外国の首都なんだけどさ、貧しい子どもがいっぱいいるんだ。そういう子どもたちが小遣い銭を握りしめて遊びに来られる場所を作ろうと思ってね」
「そう……」
「妻は賛成してくれているんだ!」
この言葉に絵美は何かを悟ったような気がした。
「日野春さん、私……ごめんなさい。ずっと貴方に謝りたくて……」
十五年間、心の隅で小さなトゲのように罪の意識が絵美の心を苛んでいた。
「貴方が私とやり直そうとしてくれていたことは常に感じていたの。だけど私は……」
公太にとってはもう終わったことだったのだが、絵美にとっては違ったようで、そのことが公太を驚かせていた。
「いや、もうそのことは……。俺は今の妻に出会えたし、優秀な息子にも恵まれたんだ。とても幸せな人生を歩んでいるんだよ」
「息子さん?」
「うん、父親に似ないで出来がよくってさ」
臆面もなく公太は笑った。
「そうなんだ」
そう言って微笑んだ絵美だったが、どこか釈然としていないようだ。
「幸せか……。『青い鳥』じゃないけど、本当は足元にあるはずのものなのかもしれないわね」
絵美は何となくそうつぶやいたのだが、それに対する公太の表情はこれまでになく厳しいものだった。
「あれはそんな生易しい話じゃないと思うな」
「どういうこと?」
「幸福というのは身近な場所にあるっていう解釈が一般的だけどさ、俺は違うと思うんだ。メーテルリンクは、人間は死や病気、戦争、快楽、未来、こういったことに真剣に向き合って初めて、自分の生活圏の中で幸福を見出すスタートラインに立てるということを言いたかった気がするんだ」
「……」
「ごめん、つまらない話をしたね」
「そんなこと……」
公太はすっと絵美に向けて右手を差し出した。
「君が俺に負い目を感じる必要なんてない。君は誠実にすべてを俺に話してくれたんだからね」
絵美は遠慮がちに差し出された手を握った。
その瞬間不思議な力のようなものを絵美は感じた。
安らぐような、解きほぐされるような感覚で、感情の芯にあった小さなわだかまりから解放されるような気持だった。
「元気で、今度は俺が君を見送るよ」
公太は夫婦が住んでいたマンションから自分が出ていった晩のことを思い出しているのだろう。
「うん。話せて本当によかった。ありがとう……」
絵美はお辞儀を一つして公太に背中を向けた。
公太は雑踏の中にその後姿が消えるまで見送った。
「お待たせしてごめんなさい」
気が付くとクララがすぐ横に立っていた。
「どうしたの?」
夫が少しだけ寂しそうな横顔をしていたのがクララには気になった。
「いま、思いがけない人に出会ってしまってね」
「どなた?」
「歩きながら話そう。それから少し咽喉が乾いたな」
「コーヒーでも飲む?」
二人は中央口に向かって混雑した構内を歩き始めた。
♢
父親が思わぬ人物との邂逅を果たしていた時、息子は初恋の人との別れの時間を迎えていた。
めくるめくような旅が今終わろうとしているのだ。
ラインハルト一行はついにザクセンス王国の首都ドレイスデンの城門手前へと到着していた。
「ようやく到着しましたね。でも、船に乗ってからはあっという間に過ぎてしまいました」
無邪気に笑うハルトにユリアーナは悲しい微笑みを返すだけだった。
「さっそくアンスバッハ家の私邸へ行きましょう。そこで二、三日くつろいでいてください。そうしている間に母上も父上も帰ってくるはずですから」
ユリアーナはそっと手を伸ばして慈しむようにラインハルトの頬を撫でた。
心の内はともかく、その姿はまごうことなき聖女そのものだった。
「私はあの城門を越えていくことはできないのですよ」
「えっ……どういうことですか?」
「私はかつて罪を犯しました。だから、王都へ入るわけにはいかないのです」
身動き一つできずにハルトはユリアーナを見つめ返すことしかできなかった。
「では……」
「はい、私たちの旅はここまでです」
キッパリと断言するユリアーナの眼前で、ハルトの双眸(そうぼう)から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていく。
「どうか悲しまないでください。ラインハルトさんに出会えて私は幸せでした。貴方は立派な騎士(ナイト)でしたよ」
ラインハルトは服の袖でゴシゴシと涙を拭った。
「ユージェニーさん……。ここまで、ありがとうございました。貴方は何の見返りも求めずに私のような子どもを助けてくださいました。本当に貴方は聖女のような方だ」
ユリアーナはゆっくりと首をふってその言葉を否定する。
「私は単なる罪人なのです。ラインハルトさんをお助けしたのは、ちょっとした罪滅ぼしの真似事がしたかっただけなのかもしれません。ですが、貴方と過ごして私は、幸せでした」
言葉を返そうとしたラインハルトの口をユリアーナの口が塞いでいた。
少年にとって一瞬とも永遠ともつかない時間が流れ、ユリアーナは静かに唇を離した。
「さあ、行ってください。立派な騎士になるのですよ」
「ユージェニーさん……」
記憶に焼き付けるように少年は聖女の姿をみつめ、やおら踵を返して走り出した。
断ち切りがたい思いを振り払うようにハルトは全力で走っていく。
ユリアーナは去り行くラインハルトを無言のまま、悲し気に見送った。
「よくキスだけで我慢しましたね、お嬢様。偉かったですよ」
カリーナは女主にそっとハンカチを差し出した。
「相手はまだ未成年ですからね。誘惑するのはもう数年後の楽しみにとっておきます」
別れの涙を拭きながらユリアーナは答えた。
悲し気な表情をしてはいたが、言葉の内容は恬(てん)としていて、それがユリアーナらしくもあった。
「お嬢様に良識が備わってきて私も安心しました。キスの時に舌を入れていたのはいただけませんでしたが……」
「あら、やきもちですか?」
「ちがいます」
「ラインハルトさんのファーストキスはいただきましたわ。次は初体験の頃にまた戻ってくるとしますか」
「その頃、お嬢様はおいくつでしょうね?」
「年齢なんて関係ないわ。その時に備えて今からドラマティックな再会を用意しないとなりませんね。ところでリタは?」
「ラインハルト様の従者になるために離脱しました」
「あの子ったら……。どうせクララ・アンスバッハに追い返されるだろうに」
「案外、今回のことでうまく取り入るかもしれませんよ」
「そうかしら?」
「ラインハルト様もリタのことは気に入っていましたから。どういうわけか面白いお姉さんという認識でしたが……」
「真面目な子なのにねぇ」
「……」
「どうしたのカリーナ?」
「お嬢様、本気でラインハルト様の純潔を奪う気ですか?」
「奪うって言い方は気に入らないわ。無理強いはしないつもりよ。誘惑はするけど」
「その、ラインハルト様の成長に差し支えるようなことは……」
「あら、私は自分の中の愛情をすべて注ぎ込むような行為をしたいだけですのよ」
「それがだめだと言っているのです。だいたい、そういうことをする女は最終的に捨てられると聞いていますわ」
「やだ、ぞくぞくしてしまうわ。親子二代で捨てられるの?」
「お嬢様、へんな性癖に目覚めていません?」
「冗談よ。最近では真面目な恋愛だってしてみようかなと考えているし」
「少年相手の時点でアウトですよ」
「だから、今回は一緒にお風呂に入るだけで我慢したのよ」
「あれも相当でしたけどね」
「カリーナだって一緒に入ろうとしたくせに」
「私は入浴のお世話をしようとしただけで」
「はいはい。普段より薄い生地のシャツを着ていたことに気が付いていたんですからね。あれはちょっとあざとかったわよ」
「うっ、お嬢様だって優しい姉を演じながらラインハルト様が自分を襲ってくるように仕向けていたくせに」
「だって、さすがに私から誘うのはどうかと思ったのよ。クララ・アンスバッハは恐ろしいのだもの」
「私たちがラインハルト様に接触したことが露見したら、ヒノハル様に嫌われないかしら」
「今さらという気もしないでもないわね。はぁ……お腹が空いてきてしまいした」
「何か食べていきます? ラインハルト様にはああ言いましたけど、ドレイスデンにはよく出入りしていますものね」
「今日はやめておくわ。クララ・アンスバッハとか大賢者ヨシオカとかに会いそうなんですもの」
主従の会話は途切れることなく続いていった。
千のスキルを持つ男 異世界で召喚獣はじめました! 長野文三郎 @bunzaburou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます